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「確率」とは何でしょう?
たとえば、サイコロを振ると1/6の確率で1の目が出る、と言ったときの 1/6の確率で出るとはどういった意味でしょう。 確率とは何か、考えれば考えるほどわからなくなります。 大学で数理統計の授業を受けたとき 確率とは、確率空間から実数[0,1]への写像、と習いました。 では、現実世界で確率というとそれは何を表す量なのでしょうか? 自分なりに考えると 成功確率がpである試行を独立にn回行ったとき、成功回数をrとすると P{lim[n→∞]|(r/n)-p|=0} = 1 と式で書いたときの、式中のpのことではないかと思います。 つまり lim[n→∞]{r/n} = p という値が、ある事象の確率ではないかとおもうのです。 しかし極限の定義を思い出すと、r/nはnを大きくすると限りなくある値に近づきますが、完全に一致することはありませんよね。 現実にはnを際限なく大きくすることは困難です。 では、いとも簡単に「サイコロの1が出る確率は1/6」といっているときの、確率は何なのでしょうか? 極限の行き着く先、なのでしょうか? もしかしたら、これは数学の問題ではないのかも知れません。 数学の世界にサイコロは存在しない、自分はそう思ってます。 数学のカテゴリーで皆さんが思う意見を聞かせてください。よろしくお願いします。
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(1) サイコロは対称なんだから、どの面も同じだけ出やすいんだよ。 というもっともな意見があるでしょう。これは「だから1/6」という明晰な結論を導く。しかし、(1)は暗黙のうちに「現実世界はこーゆーもんだ」という信念(形而上学)に立脚している思弁に過ぎない、と批判できます。 一方、 (2) 何度も実験したらどの面もほぼ1/6の頻度で出た という実証的な立場では、サイコロ1個ごとに実験しなきゃなりませんし、1/6丁度なんてキッチリした値にはならんでしょう。さらに「統計と確率を混同している」という批判ができます。 さて、(1)と(2)を併用して、「(1)だと思うんだけど(2)で確かめたら、(1)と矛盾しない結果を得た。だから、(1)という仮説で進んでみよう。」そして、「進んだはいいけど、元の(1)をもっとしっかり確かめておこう」と何度もやるのが(ホパー哲学的な)科学の方法ですね。例えば物理学なら、おおざっぱに言って(1)は理論物理学、(2)は実験物理学に該当するでしょう。で、(1)に関わるのが確率、(2)に関わるのが統計。 ところで、ご質問の極限の式は (3) 実験を無限回やったときの統計の極限が確率だ という立場になりましょう。A No.5でatomonadosさんが仰るように、統計はいわば「過去に生じたこと」の話だし、確率は本来過去だ未来だという区別とは無縁の概念ですから、(3)の主張自体は「実証できない形而上学」ってことになりましょう。 A No.3でgoma_2000さんの仰るように(3)を逆から見て (4) 実験は、ある確率モデルから生成される事象を見る事だ と考えるのが普通でしょう。言い換えれば、「法則は不変かつ普遍的だろう。いつでもどこでも、同じように物事は生じるだろう」ということです。この形而上学的信念があればこそ、「(2)が(1)の(不完全ではあるが)実証になっている」と思っていられる訳です。 逆に、(2)は(1)の実証になんかならず、いくら実験をやっても(1)を正当とする根拠はいささかも増えない、という(論理的には実にごもっともな)立場を徹底して取ることも可能です。この場合、確率は現実とは関わりを持たず、未来に関する予測は一切不能だから科学という活動は不可能で、ただ生じた事象を記録することしかできない、という結論(極端な実証主義)に行き着くでしょう。 数学とゲンジツの関係を問うのなら、以下もご参考になるかも。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa242909.html http://oshiete1.goo.ne.jp/qa798168.html http://oshiete1.goo.ne.jp/qa133062.html
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- laugher12
- ベストアンサー率26% (4/15)
確率はあやふやなものです。例えばホールインワンする確率が ものすごい低かったりしますが、打ち手は狙って打っているために 現実的な確率は変わってくると思います。 あくまでも数学における確率なので自分はあまり気にしません。
- Ishiwara
- ベストアンサー率24% (462/1914)
「確からしさ」という表現は、世俗的で、数学的な厳密さを持っていません。ですから、数学における確率の世界は、例の「写像」の概念で十分なのです。私たちが競馬や宝くじやパチンコという世俗的な生活の中で確率を論じるときは、数学における確率を現実の「モデル」として利用しているだけの話です。両者の関係は、たいていはうまく行くのですが、「オイラーのセントぺテルスブルグのパラドックス」ように見事に破綻することがあります。破綻したって構いません、利用するほうは「うまく行くときだけ利用」すればいいのですから。
補足
回答ありがとうございます。 モデルとして利用しているだけ、と軽く考えれば、なるほどそのとおりです。 しかし、確率って結局何?という疑問は残ります。
- Ama430
- ベストアンサー率38% (586/1527)
ギャンブルで勝ちたいから確率論の研究が始まったと記憶しています。 数学は、もともとは、現実世界を解釈して、量的法則性を武器に、未来を見通すための学問であったと思います。 そして、そのような「実用性」とは別に、理論構築の面白さを知的ゲームとして楽しむという側面も育ててきたのだと思います。 イカサマのないサイコロの1の目の確率を1/6と考えるから、サイコロの目と賭け金の関係を量的に決定する根拠があるのでしょう。 しかし、一見実用化から離れてしまったように思われる、複雑な確率密度変数の理論も、統計の検定に応用されるなど、「当初は目的としていなかった実用性」を発揮しています。 たとえるなら、お客が洋服を注文したら、手足のサイズをきっちり測ってオーダーメイド服をつくる仕立て屋が、仕事のない時には、標準的なサイズを想定して既製品をつくっているということに似ているのではないでしょうか。 「数学は定義次第」は当然ですが、やはり、現実世界とつながる定義が普及・定着するという一面はあるように思います。 当面実用的でないことが悪いとは考えていませんが。
補足
現実に確率を応用するとき、「確率」という数について深く考えなくても問題ないでしょう。 だからこそ、その正体不明のものが恐ろしいですね。 サイコロの目と掛け金を量的に表せる確率というもの、でも結局何なんでしょうか? 実用的であればそれでいい、というのも確かでしょうが。
中学2年生のときの数学の授業で、実際にサイコロを振って確かめました。 さすがに無限大の試行は無理ですが、100回、200回・・・と試行回数を増やせば増やすほど、1/6に近づきました。グラフを描いたのですが、統計的な値と、理論的な値に近づくことに、心動かされるものがありました。不思議な思いといいますか、感銘といいますか、うまくことばでは言い表せないのですが。 確率というものは、現実世界の中では、統計的な事象の割合だと思います。将来を予測するときに、それは、1/6の確率で起こるだろうといっても、その確率は、過去の多くの試行に関するものです。将来の試行にはかかわりがありません。 さて、確率が予測された試行が終了した段階で、確率の予想を評価します。このとき、少ない試行では評価できません。一度だけの試行では、1/1か、0/1です。そこで、数多くの試行をして後に評価するか、過去に試行済みの試行を加えて評価することになります。そして、確率の予測は、妥当であったと評価されるでしょう。 ですから、「ほぼ1/6の確率で1の目が出るだろう」といったのち、試行した結果、2の目がでたとしたときに、「予測は間違っていた」とはいえません。 過去の多くの試行での1の目の出る割合が、その試行を加えることによって、ほんのわずかに下がるだけです。 先ほどの試行で、1の目が出なかったのだから、でやすくなるだろうと考えるのは誤りではないと思いますが、「1の目の出る確率は大きくなった」というのは間違いです。なぜなら、1の目が出なかった試行によって、それはわずかに引き下げられたのですから。しかし、次の試行の前に、「1の出る確率はほぼ1/6であろう」というのは、間違っていません。そして、試行の後にどの目が出たとしても「やはり、1の目の出る確率はほぼ1/6であり、先ほどの予測は正しかったと評価できる」といえます。 過去の試行データのないサイコロを始めて振る場合は、その形やバランスなどを吟味して、データのあるサイコロとの比較から推理して、あるいは、理論的なサイコロとの比較によって、1/6という確率を仮定します。この仮定された確率は、その後の多くの試行を経ないと評価されません。
補足
自分はサイコロの1が出る確率が1/6ではない事に関しては、あまり気にしません。 どうせサイコロの目の出る確率を純粋数学で求めることはできないと思うからです。 しかし、目の出る確率がある値に定まっているだろうということは感じます。 ですが、それも確かなことではないのかもしれません。 確率を統計的事象の割合とすれば、確かにそれは過去や今回の施行により変わってゆく値です。 だから「ほぼ1/6」くらいに決めるのが眼界なのかもと思いました。
- yanasawa
- ベストアンサー率20% (46/220)
いわゆる「大数の法則」は、経験から生まれたものと聞いています。それ自体は「数学的」ではないように思います。 それを数学に当てはめるには、計算や関数が使えるようにしなければなりません。だから 「ある事柄が起こる回数」→「ある事柄が起こる場合の数」 「試行したすべての回数」→「すべての場合の数」 と(仮定)して、あたかも大数の法則に従っているかのようにしたのだと思います。 現実世界は の答は、 混沌としたもの でどうですか。でもそれでは話が進まないでしょう。だから、例えば数学の世界で近似したりモデルをつくったりしているのだと思います。 数学を利用して世界を語ろうとしている、・・・大げさでした・・・。
補足
うーん、それでは大数の法則が成り立つように確率論を現実世界に当てはめたのだから、大数の法則は成り立って当たり前、ということになりませんかね? でもたしかに現実世界は混沌としたものです。 余談になりますが、物理なんかで局所的に線形近似をするのは、所詮人間には線形的なものしか理解できないから、だと思います。 現実世界は人間の思考ではとらえきれないものなのかもしれません。
- goma_2000
- ベストアンサー率48% (62/129)
サイコロの例で行くと、 1)サイコロを作成する 2)サイコロをたくさん(数万回~数十万回)振る 3)それぞれの目の出易さ(期待値)を計算する 4)背後に潜む確率モデルを推定する となります。つまり、そのサイコロのそれぞれの目が出る『期待値』が計算され、それを元に、数学で言うところの『確率』(密度関数)と呼ばれるその背後に潜む母集団のモデルを推定します。 質問者様とはロジックの組み立ての順序が逆ですね。 極限の行き着く先という表現とは少し違います。ある現象があったときに、その現象を説明するモデルを推定するということを行なうということです。それが現実の事象の期待値と確率の違いであると考えます。 繰り返しますと、 ある試行を独立にn回行ったときの成功回数をrであったとき、その試行の成功確率がpであるとするとそのときの尤度は。。。であると計算し、尤度が最大になるように確率を推定します。(最尤推定では) 「現実世界の予測不可能な現象のモデルとして確率を使っている」 ではなく、予測可能な現象のモデルとして確率(密度)を使っているという感じです。ここで言う予測とは決定論的な意味ではなく、ある『確率』で起こる事象という意味ですけども。
補足
回答ありがとうございます。 確率は期待値の奥に潜むもの(概念)ということでしょうか。 少しだけわかった気がします。
- Trick--o--
- ベストアンサー率20% (413/2034)
数学の世界にサイコロは存在しない、自分はそう思ってます。 「1~6の整数がそれぞれ1/6の確率で表れる現象を作り出す装置」のことを「サイコロ」と呼んでいるだけです。 実際にゲーム屋等で売られているサイコロとは似て非なるものです。
補足
回答ありがとうございます。 >「1~6の整数がそれぞれ1/6の確率で表れる現象を作り出す装置」のことを「サイコロ」と呼んでいるだけです。 >実際にゲーム屋等で売られているサイコロとは似て非なるものです。 では、実際に現実のサイコロを転がしたときの結果を想定することに、この似て非なるもの「確率」を用いるのはなぜでしょう。 実際にほとんどの学生は疑問すら感じていないように思います。 おそらく、現実世界の予測不可能な現象のモデルとして確率を使っているんでしょうが、 たとえばサイコロの1が出る確率1/6、といったとき、この量は現実世界の何のモデルなんでしょうか?
- rangeru
- ベストアンサー率34% (15/44)
>もしかしたら、これは数学の問題ではないのかも知れません。 どちらかといえば哲学の問題かと。現代数学では公理によって用語などを定義したと思います。これこれの性質を満たすものを確率とするというように。おそらく講義で習ったでしょう。 >数学の世界にサイコロは存在しない これはその通りだと思います。実際のサイコロって同様に確からしくないことのほうが私は多いと思っています。数学でのサイコロは「同様に確からしい数字などを与えるもの」ではないでしょうか。
補足
回答ありがとうございます。 やはり哲学でしょうか。 しかし、純粋に数学者としてではなく、数学を実用する立場としての考えがあるならば聞いてみたいものです。
補足
数学や現実に関わるときの立場によって、確率とは?という問いに対してもさまざまな回答があるということでしょうか。 2回ほど読んだだけでは完全には理解し切れませんでしたが、ためになりましたありがとうございます。 また深く考えていけると思います。