悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。
この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。
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ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?
なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?
その心の片向きは 弱さから来るのか?
思うようにならないことにやけを起こすことからか?
ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?
けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。
おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。
やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。
はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。
けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。
愛である。
社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。
おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。
世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。
なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。
愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。
知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。
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《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。
この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。
それは 言うなれば善であると思われる。
その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。
これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。
さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?
悪に同調することと悪を引き受けることと。
考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。
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《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。
愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。
《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》
悪につき合う悪。
それは 死のほうへ寄って行くようなことだが
しかも愛だ。
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愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。