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different ways ― ヘミングウェイの短編「異国にて」から(疑問―その3)

シリーズ・ヘミングウェー7 平易な文体で知られるヘミングウェイ作品を、気分次第で鑑賞していたつもりが、数々の障害に直面しては、そのたび皆さんに発問している者です。 短編「異国にて」(In Another Country)の最初のほうの部分。 (…) and there were diffrent ways of walking across the town through the dusk to the hospital. Two of the ways were alongside canals, but they were long. Always, though, you crossed a bridge across a canal to enter the hospital. There was a choice of three bridges. On one of them a woman sold roasted chestnuts. 主人公ら、傷病兵たちの通う、リハビリ病院への道筋の説明箇所。 個々の文はきわめて平明ですが、不可解なほど、複雑な、回りくどさがあります。 めまいがしそうな面倒な描写で、 ・複数の道→2つの道(複数の運河)→1つの橋(1つの運河)→3つの橋→1つの橋 上記のように並べられていますが、 最初の部分、"diffrent ways"を、高見浩は「病院にゆく道順は三通りあった。」と、明確に"3つ"と限定しています。 「いろいろな道筋があった」(龍口直太郎)、「いくつも道があった」(大久保康雄)という訳と比べたとき、かなり大胆に見えます。 私としては、龍口訳が穏当な気がしたのですが…… さて、どう理解すべきなのでしょう?

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  • sukinyan
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回答No.3

大変失礼致しました。 1) No.1さんのおっしゃる通り、ご紹介頂いた部分のみで判断しますと、高見訳は意訳し過ぎではないかと思われます。が、間違いと言い切ることはできません。wayというのが、厳密にどう定義されているのかをここの文章のみで見ますと、複数のwaysのうちの2 waysに関して、両方とも、渡る橋は3つ選べるのですが、この橋の違いは一つのwayとしては数えられていません。(原作を読んでいない者にとっては、もしかしたら、この後の展開で、waysの数が3つだと断言できる証拠が出てくる可能性もあります。)ただし、質問者さんは、しっかり原作を読まれた上で、異なる3本の翻訳をチェックされ、その上で、高見訳は「おかしい」と判断されたのでしょう。そのご判断に対して異論を申し立てることが誰にできるでしょうか。 2) 翻訳は原作に沿った創作にすぎません。「誤訳を容認する」というのではなく、ある程度「創作のマージンが容認されるほかない」のであります。「この英文に対する正しい訳はこれしかない」という、「白か黒か」の世界ではなく、誤訳でない範囲に限っても、多種多様な言い回しが存在しうる、ファジーな世界です。百人翻訳者がいれば、百通りのeditionが出来ます。その大部分は当然共通しているはずですが、翻訳者さんの個性が反映されて、それぞれ微妙な違いが醸し出され、そこがまた面白いのではないかと存じます。 3) 現地調査を踏まえた非創作的な翻訳かどうか、判断できません。もし高見さんが現地調査をされたのであれば、凄いですよね。でも、その可能性は低いと思います。プロの翻訳者さんは、著者が存命であれば、エージェントを介して、疑問点をまとめて数回に分けて連絡して、説明をしてもらいます。が、実際に現地に飛んで雰囲気を実際に確認するほどの予算が与えられる場合は稀だと思います。(「ゲラ校正を完了されたとか。」の所で実は笑って頂きたかったのですが、単に誤解を生じたのみで、本当に失礼致しました。) 最後に、「瀧口訳が穏当な気がした」との御意見、全く以てごもっとも、と思います。大久保訳よりも、味がある日本語だと思います。ヘミングウェイも、このような訳を当ててもらって、作者冥利につきるのではないでしょうか。ただ、原作者は翻訳者を選ぶ権利を与えられない場合が大半ですし、一旦翻訳版が出ることが決定した時点で、they would not have any say on the outcome.(ごめんなさい、うまい日本語が思いつきません。)原作が映画化される時と同様に、映画版は原作者の手を離れた、別の作品となってしまうことに比較すると、翻訳が創作にすぎないという事実を御理解頂けるのではないかと思います。 「漠然」とした表現で誤解を招いてしまい、誠に申し訳ありませんでした。もし、さらに疑問をお持ちでしたら、補足質問を投げかけて頂けますれば幸甚です。

noname#73834
質問者

お礼

なるほど、言葉を尽くしていただき、良く理解できました。 ありがとうございます。 >橋の違いは一つのwayとしては数えられていません との点は、同感です。 ですから、2x3=6だ、というような揚げ足取りは、不適切でしょうね。 じっさい、高見浩の訳では、"Always, though"を「いずれにせよ」とまとめてあり、他の2つの訳で「しかし」とだけ、そっけなく置き換えているのとは異なり、遥かにわかりやすい。 それは良いとして、その整理のしかたの延長で「道順は三通り」と絞られてくるのか、といえば、これに対しては、ちょっと待った、と言いたくなる。 >多種多様な言い回しが存在しうる、ファジーな世界 というのは、もっともです。 ただし、 >誤訳でない範囲に限って ということですよね。まさに今回の件で、高見浩は「誤訳」では? これについて、sukinyanさんは、「意訳し過ぎ」という表現を用いておられます。 おそらく「誤訳」という言い方を慎重に避けたものと見受けましたが、そうすると、「意訳し過ぎ」は、常に許容されるわけですね? (私個人は、良い翻訳を楽しみ、作品のリズムを味わいたいだけなので、意訳だの何だのは、注釈でやってくれ、という考えです)

noname#73834
質問者

補足

ところで、この短編のラスト近く、 The major did not come to the hospital for three days. Then he came at the usual hour, wearing a black band on the sleeve of his uniform. 平明で、何ら問題のない箇所です(妻に死なれたショックで、リハビリを休んだ将校の姿を描いています)。 ところが、二つ目の文章、高見浩は「四日目になって、いつもの時間に、軍服の袖に黒い喪章を巻いて、やってきた。」と訳しています。 (ちなみに、龍口「それから(…)」、大久保「そのあと(…)」) ここも不要な意訳があると思い、私は不快です。 (龍口訳が穏当でしょう。大久保訳は、ヘンな誤解を招きそうです) つまり、「四日目」――たしかに、四日目には違いないにしても、それをオモテに出すのは間違いでは? 「三通りの道順」と同じく、不審な印象を持ちました。 おそらくsukinyanさんは、ファジーだから、それも良し、とおっしゃるでしょうが……

その他の回答 (3)

  • sukinyan
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回答No.4

なるほど、ここでも瀧口訳が最も穏当と感じられることに共鳴いたします。この直前の文章で、当然3日間姿を現さなかった事実を訳されているはずですから、「4日目に」とするのは誤訳ではないかも知れませんが蛇足です。また、大久保訳に関するご感想も、ごもっとも、と思います。 意訳の定義は微妙ですよね。ただ、squashing様のように、本当にこの作品を愛され、真に味わいたい、楽しみたいと熱意を以っておられる読者の方が、「これは誤訳ではないか」と感じられたとき、それに異論を唱えることが誰にできましょうか。同じような情熱と知識を以っておられる他の読者さんならともかく、小生のようなP G Wodehouseファンは口を出すことも憚られます。(Papa Hemingwayが、このようなファンに今も世界中で愛されていることを、素晴らしいと思います。)もしかして、日本ヘミングウェイ協会(please refer to the following URL)の重鎮でいらっしゃるのではないかと、OK Waveの素人回答陣をテストしておられるのではないかと思っております。

参考URL:
http://wwwsoc.nii.ac.jp/hsj2/
noname#73834
質問者

お礼

非常にありがたく回答を読ませていただきました。 “日本ヘミングウェイ協会”というものは、知りませんでしたし、とくに興味も無いですが(どちらかというとオゾマシイ気がしますね)、もし自分に文才があればヘミングウェイのようになれるのに、と、儚い憧れを抱いている肉体労働者の私は、そのぶん忌憚なく意見を吐くことができる立場にあるとは自覚しています。 さて、高見浩の訳では、「それから三日間、少佐は病院に現れなかった。四日目になって、いつもの時間に」云々となっており、これでは、まるでヘミングウェイが、いかにもクドい文体を弄しつつ、読者をバカにしているかのような印象を与えかねないと思ったわけです。 やはり、意訳の弊害は、文体・リズムを損ねる点で、看過しがたいと感じますね。 きっと、誤訳のほうがマシでしょう。 たとえば、龍口直太郎は、"Oh, my Christ"(たぶん"Oh, my God"と同義)に、「ああ、エスさま」というトンデモない訳を当てて私たちを驚かせてくれますが、それでリズムが狂うわけではない。むしろ、一生忘れない読書体験として貴重なくらいです。 また、他の機会にも、ご意見を頂戴できれば幸いです。

  • sukinyan
  • ベストアンサー率38% (119/313)
回答No.2

No.1さんに全く同意します。翻訳は、創作であり、誤訳でない限り許されるかとは思いますが。高見浩さんが実際に舞台となった現地を訪問し、3つだ!と確認されてからゲラ校正を完了されたとか。関係ありませんがある知人の翻訳した小説は誤訳があちこちにあります。誤植のない本が存在しないのは常識ですが、その上、編集者がチェックできないと、誤訳だろうが何だろうが、そのまま出版されてしまうことにもなります。

noname#73834
質問者

お礼

ご意見を、ありがたく読ませてはいただいたのですが…… おっしゃることがあまりにも漠然として、私には良く分かりかねます。 失礼千万ながら、整理させていただきますが (1)つまりは、高見訳は間違いだ、と? (2)それとも、翻訳の「創作」的性質から、容認できる、と? (3)はたまた、現地調査をふまえた“非創作”的翻訳であり、可とすべきだ、と? 以上の三点が、相互に噛み合わず、私のスローな頭では理解が至りません。

  • rimini
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回答No.1

3つ、と限定されているのは橋だけです。 道筋は、運河沿いの2本の道を含め色々とあるが、最終的には必ず運河に架かる3つの橋のうちの1つを渡って病院にたどり着くのだ、と作者は言っています。 高見訳はこの抜粋から判断する限り納得しがたいと言わざるを得ません。

noname#73834
質問者

お礼

ご意見にたいして感謝を申しあげます。 フツウに読む限り、無限定の different ways を3本の路線とする理屈は無いですよね? しかも、この箇所の放つグルグルとめまいを催させるような効果が、「三通りあった」から書き始められると、消えてしまう……(ただ、これがヘミングウェイの意図かどうかは別問題ですが)。 だから、私としても、高見訳には違和感があります。 とはいえ、仮に擁護するとすれば、2つの運河沿いの道が「遠回り(long)」だったという文から、いわば逆算して shortcut とでも呼べるものが1つあるだろう、あわせて3つだ、ということは考えられます。 しかし、細かいリクツを捏ねれば、2つの運河沿いの道に続いて、3つの橋のどれかを選ぶ以上、単純計算で(最低)6通りの道順があり、「三通りあった」という訳は無理な限定だとも言える。 いずれにしても、riminiさんに同じく、高見訳は大胆過ぎるというのが、私の感想です。