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モラロジーは宗教?
モラロジーは宗教? 教えて下さい。 モラロジーの詳細は下記参照して下さい。 http://www.moralogy.or.jp/nenji/index04.html 形式的に・・文部科学省所管の社会教育関係団体として、1926(大正15年)法学博士・廣池千九郎によって創立されました。 実質的には宗教ではないかと思いますが・・
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- ys-11a500
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回答します。本来は天理教の信者であった廣池千九郎博士なる人物が学問の一環として広めたのがモラロジーでした・・・・・・。しかし時代の変化で本来学問のはずのモラロジーも、かかわっている人たちの心構えの変化・間違った解釈などが重なって物凄く変な方向へと進んでしまったのが現状です。 私自身かつて親戚が世話役をしていた縁で何度かセミナーに参加していたのですが、あまりにも宗教色が濃くなったのできっぱりと縁を断ちました。私個人的にいえばあれは立派な「新興宗教」です。 うちの隣人もモラロジーの世話役に凝っているのですが、物凄く危険な方向へと進んでいます。 自分の子どもの学校での成績を上げたいがために、友達に「うちの子供と遊ばないでくれ」などと電話したり、「隣のお兄ちゃん(=私とか近所中の人たち)は警察に捕まったことがあるなどと根も葉もない言葉を並べて他人を陥れる(私もこれをやられて一時は近所の小学校の子どもたちや先生方に変な人として疑われたことがある、しかしその後先生方が学校に残っている私の資料を調べて謝罪に来たことと私を地域にすむ卒業生として改めて子どもたちに紹介してくれたことですぐに誤解は晴れた)。他にも些細なことでも電話で食って掛かったりするので、今流行りの問題親=モンスターペアレントの魁ともいえるでしょう。 このように、間違った解釈が広がってしまえば、たとえ学問の1つとか、生涯学習などといっても、宗教と解釈されても不自然ではないといえるでしょう。私からすれば、みなさん、モラロジーにのめり込むことは止めましょう。
♯4です。もしかしたらこちらの方が判りやすいかもしれません。 もともと天理教は、谷底から人を救い上げることをお助けとしているのですが。このモラロジーは、どちらかと言うと金持ち中間層及び上流階級の人たちを救いたいとしてできたものであると、天理教の先生から聞きました。
はじめまして、 モラロジーは天理教から分かれた団体です。従って、実質的には宗教団体です。僕は、モラロジーは天理教から分かれた団体であることは知っていたのですが、まさか、宗教法人になっていないことは初めて知りました。 下記のHPでは、天理教から分かれた宗教団体の表がありましたので参考にしてください。
- neil_2112
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直接の回答にはなりませんが、基本的には、inochiさんの立場次第、ということになるのではないでしょうか。 「宗教」の定義、つまりどういうものを宗教というのか、については昔から議論百出で、残念ながらまとまった試しがありません。神秘性を重要視するものあり、超越性をいうものあり、究極的関心ということをいうもの…など、きりがありません。ある辞典には「宗教学者の数だけある」と真面目に書かれています。 よく引用される宗教の定義としては、デュルケームのものがあります。世の中のものはすべて人間との関係で「聖」と「俗」に大別され、宗教とはタブーを持ち隔離された「聖」に対する信念と慣行の体系だ、という解釈です。しかしこれも例えば仏教には直接あてはまりにくい解釈ですし、決め手の解釈とはなっていないのが現状です。 法律的に見れば「本尊や礼拝の対象」があり、それに関する「教義の体系」があり、それを実践する「組織」がある、といった外形的な要件が満たされていれば宗教ということになります。これに照らせば、モラロジーは宗教とは言えないでしょう。ただもちろん、これは便宜のための外形的な定義、目安であって、我々の日常的な感覚とは当然違ってくる部分があります。 また、「宗教」の語源をいうときりがないのですが、日本人に受け入れられやすい解釈としては、「宗」は「おおもと、人智を超えたところのもの、世界を成り立たせる理法」を指し、「教」は「その教え」ということだと思います。これにそって言えば、モラロジーは微妙ですが少々何かに欠けるように感じられるのが一般的ではないでしょうか。 ただし最近では、「宗教」というものの範囲はかなり拡大して受けとめられるようになってきています。「見えない宗教」などという言い方がされますが、特定の体系でなく、日常の生活に現れるような家族・企業関係までもが宗教性の射程に入ってきているのです。 ある学者は最近、宗教とは「鎮めの文化装置(つまり死や喪失の不安を癒すために人類がストックしてきた情報システム)」であると定義しています。こういう見方にたてば、たとえ無宗教を自負して、日頃「死んだらゴミになるだけ」と言っているような人にとっても、その信念そのものが十分に宗教性を持っている、ということになります。 このように宗教性を広く捉えるようになると、当然宗教について考えることそのものが宗教性と無関係な行為ではあり得ない、と言えます。つまりモラロジーが宗教であると考えることも、そうでないと考えることも、それ自体がその人の宗教感覚と宗教的立場の反映たらざるを得ない、と言えるのではないでしょうか。 「宗教が社会現象であるという以前に、社会が宗教現象なのだ」という言葉もあります。 その意味で、立場を離れて定義はできないというのが私の考えです。そもそも内部にいるものにとっては宗教かどうかという定義そのものがさほど重要ではないでしょうし、定義というのは常に外部からなされるものですから。 あまりたいした答えにならないのに長くなって恐縮です。多少でもご参考になれば、と思うのですが…。
- odd-art
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>わたしはモラロジーは新興宗教のなかにあるので・・モラロジーは宗教だと思うのですが・・ とされたのですが、質問では、 >実質的には宗教ではないかと思いますが・・ とされています。矛盾していませんか? 宗教だとするなら、信仰というものが必要ですが、そのままでは、一つの教義、説ということだけでしょ。 道徳は、そのままでは教えだけであり、宗教ではないけども、そこに、実践倫理宏正会のような、信じて行動するというものがあれば、本尊はなくても宗教という要素はあるでしょう。 モラロジ-が宗教である為には、それを信じて行動する信仰心が必要であり、そのままでは、ただの教え、説に過ぎません。でも、この教えは、間違っています。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
モラロジ-(最高道徳)はそのままでは宗教でありません。ただ新興宗教のなかにはあります。 その教義は、”釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する”というものです。 しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律の実践を説く教えもあれば六度の修行〔布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)〕もあり、以信得入(いしんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨てたりするのでしょうか。 これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。 これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。 このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱と網目の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。 如何でしょうか? 宗教の宗教たる要件は、信仰の対象となる「本尊」と、その本尊の内容等を説明し証明するための「教義」とを具えていることであり、いずれか一方でも欠けているものは、すでに宗教とは申せません。
補足
>モラロジ-(最高道徳)はそのままでは宗教でありません。ただ新興宗教のなかにはあります。 上記の意味が分りません。 新興宗教のなかにあるのなら・・宗教であるのでは?? わたしは宗教のなかには・既成宗教と新興宗教とがあり・ キリスト教・仏教・イスラム教・ユダヤ教・バラモン教・神道などの既成宗教と・・ 創価学会・天理教などの新興宗教と・・ わたしはモラロジーは新興宗教のなかにあるので・・モラロジーは宗教だと思うのですが・・
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補足
>>わたしはモラロジーは新興宗教のなかにあるので・・モラロジーは宗教だと思うのですが・・ >とされたのですが、質問では、 >>実質的には宗教ではないかと思いますが・・ >とされています。矛盾していませんか? 「>>実質的には宗教ではないかと思いますが・・」のわたしのカキコは意味は ・・。「モラロジーは実質的には宗教だと思いますが・の意味です。 ゴメンナサイ、私国語の表現力不足で・・ >道徳は、そのままでは教えだけであり、宗教ではないけども、そこに、実践倫理宏正会のような、信じて行動するというものがあれば、本尊はなくても宗教という要素はあるでしょう。 モラロジ-が宗教である為には、それを信じて行動する信仰心が必要であり、そのままでは、ただの教え、説に過ぎません わたしは実践倫理宏正会の集会にも・・モラロジ-の集会にも、両方に参加したことがありますが・・ 両方とも・・倫理や道徳を勉強するだけではなく行動することを勧められました。 だから、私は両方とも宗教だと思いますが・・