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博物館史について(質問)
今、博物館の勉強をしている者です。 過去の学芸員資格試験問題に2つ、博物館の歴史でわからないことがありました。ご存知のかたがいらっしゃいましたら、是非教えてください。 1.大正期に文部省の教育博物館(のちの国立科学博物館)では18回もの特別展覧会を開催した。これを推進した中心的な人物は誰か。また、どうしてそのように多くの特別展覧会を開催したのか、1つだけ(特別展覧会)を挙げてその特色などとあわせて説明せよ。 2.集古館とは、誰が何の目的で政府に建設の建議をしたか、そしてそれに対し太政官はどのように処置をしたか述べなさい。 (2については大倉喜八郎が1917年に・・・までわかりましたが、それ以上のことはわかりませんでした。)
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1.たぶん、棚橋源太郎さんじゃないかな。 帝国主義による侵略戦争という最中、科学技術は目覚しく発展する一方で、庶民の暮らしには全くといって良いほど、科学の恩恵は反映されてこなかった。むしろ、新技術は拡散を恐れて隠蔽される傾向にあり、その無知ゆえに多くの痛ましい事故が起きた。 例えば、石炭などの燃料や、運輸を独占していた財閥のひとつ、三菱の炭鉱でガス爆発事故が起こった。天然ガスがどんなものか、その科学的知識が与えられないままに、数百名の命が失われた。 これを契機にして、大正期に災害防止展覧会が開催される。これは、棚橋源太郎さんの尽力のひとつである赤十字博物館の設立とも関係し、災害防止に対して科学的知識を高め、未然に防止しましょうというような――確かそんな内容だったと思います。 2.博古館とか集古館というのは、私設で設けられた宝物館のことだと思います。 前者は住友財閥、後者は大倉財閥のが有名ですよね。誰が何の目的で政府に建設の建議をしたか――という問題でしたら、大倉喜八郎が古美術や文物の保存を目的に、博物館の建設を建議したんだと答えるべきでしょうね。でも、太政官――ですか? 特に大した役には立たなかったし、1885年に内閣制度が発足して太政官制度は無くなりました。 こんな感じですけど、落第ですか?
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- aananzu
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太政官の対応がもれてました。 >そしてそれに対し太政官はどのように処置をしたか述べなさい。 明治4年に『古器旧物保存方』とう法が太政官によって布告されています。 これは、【町田 久成】の提言を認めて、『集古館』建設への布石と思われます。
お礼
再度のご回答、ありがとうございました。 参考にさせていただきます。
- aananzu
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(2)についてです。 『集古館』は、【大倉喜八郎】氏の建てたものに名だけが残っているのです。 No1さんが書かれているとおり、1885年に内閣制度が発足して太政官制度は無くなりました。 なのに設問では、太政官が出てきます。 そのことから、【大倉喜八郎】氏の『集古館』では、時代が合わないと思います。 >誰が何の目的で政府に建設の建議をしたか については、 <【町田 久成(まちだ ひさなり)】が、急速な文明開化により、 廃仏毀釈の風潮が高まって、歴史的古物が粗略に扱われるようになったことから、それを保護するようにと建議した。> になると思います。 【町田 久成】は、東京国立博物館の初代館長で、【田中 芳男】とともに「日本初の博物館創設計画」を立てた人です。 明治のころは、『博物館』と言わず『集古館』と言っていたようです。 一度、『集古館 太政官』でググってみてください。
お礼
ご回答ありがとうございました。 とても参考になりました。
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