補足です。
アメリカでは、裁判には、陪審員制度が用いられています。有罪無罪は、素人の陪審員が判断し、刑期については、裁判官が判断します。
この陪審員制度は、市民の司法への参加の形態として注目されています。日本でも、戦前に陪審制度が設けられました。しかし、市民に裁かれることに対する抵抗や、陪審制度を用いた裁判では、刑期が重くなる傾向があり、更に陪審員の判断が絶対でなかったり、いろいろ不都合があり、停止されたままです。
今の裁判官は、優秀な成績で司法修習を終えた人が、社会経験もなく裁判官になるので、市民感覚から離れがちという批判があります。そこで、参審制とともに陪審制もこの対策として検討されています。
日本の刑事訴訟法は、戦前の旧法は、ヨーロッパ大陸特にドイツ法を手本にしたものです。これに戦後アメリカ(アングロサクソン系の制度)を取り入れて改正されました。
ドイツ法では、やはり真実の発見が第一の重要課題みたいです。精密に真実を探求することを求めるわけです。アメリカでは、真実よりも紛争の解決に重点があるようです。
今の刑事訴訟法では、従来のドイツ法的な考えも残り、しかし、アメリカ法的な考えもあり、中間的な立場にあるといえましょう。
なお、捜査上の違法性が有れば、公判をうち切るというのは、日本でもあります。アメリカのエスコピーダ、ミランダルールというのですが、日本でも基本的な考えが取り入れられています。ただ、どんな小さな違法性があっても公判をうち切るというのではなく、厳格な要件が必要とされています。
お礼
そうですね、日米の刑事訴訟制度については何も知りませんが、例えば司法の現場を描いたアメリカのテレビドラマ「ザ・プラクティス」などを見ていても、日本とはずいぶん違うなと感じます。裁判の中で弁護士や検察官はシェークスピア俳優のように演技して、陪審員や裁判官の心証を得ようとします。それは証拠や証言を背景にして、説得力のあった方が勝ちという極めて単純なしくみにも思えます。 またアメリカのように、捜査や起訴の過程で法的なミスが分かれば、犠牲者の心情に報いることや社会正義の実現という大きな目的よりも、被疑者の人権を優先して罪を問わないという態度はある意味潔いと言えなくもありません。 アメリカは建国の過程で、日本人から見ると極端とも思える個人主義を育ててきました。米国憲法修正第2条でしたか、民間人が武器を持つ権利に関して、大きな批判と犠牲を払いながらも維持してきた経緯には、確かにそのような一つの背景があってのことと理解しています。 一方、日本人には少なくとも江戸時代の昔から、「お上」感覚があり、犯罪捜査や司法に関しては民衆が関わらないことが暗黙の規則のように扱われてきました。その影響でなのか、犯罪捜査を一般人が行うことに大きな違和感があるのだと思います。 そのような彼我の差はあるのでしょうが、ここで忘れてならないのは、殺人事件などの凶悪な犯罪には必ず被害者や遺族が存在し、その悲しみや悔しさを考えるとき、その裁判がシェークスピア劇の田舎芝居のように扱われるのは、やはり心情的に大きな抵抗があるのです。 そして、またこれとは別の問題として、万万が一冤罪で罰を受ける人がいるなら、真犯人を取り逃がすことになり、捜査手法や司法手続きの硬直化によって社会正義の実現も被害者の心情に報いることも永久に失われてしまいます。 それを回避するには人々が大きな関心をもって司法制度の維持や運営を注視し、知性と世論によってコントロールしていくしかないということになります。今後、日本でも、市民生活と犯罪捜査の現場は、犯罪の発生が増えると予想されることとあいまって、いろいろな意味で益々接近してくるのは、必然だと言えます。 ご回答いただきありがとうございます。