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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:一度、精神病にかかると、周囲の人間を頼りにできないことに気づきますよね?こういうのって不健全な考えですかね?)

精神病にかかると周囲の人間への頼りにならなさに気づく?不健全な考え方か

このQ&Aのポイント
  • 精神病にかかると、周囲の人間の頼りにならなさに気づくことがあります。家族や医師は限定的な理解で対応し、友人や保健婦さんも踏み込んでこないことが多いです。
  • 一人で戦ってきた経験から、限定的な信頼で人と接していることがあります。そのため、精神状態が落ち着いても彼女を作る意欲がわかないし、家族や友人とも限定的な信頼で関係を築いています。
  • このような考え方は不健康と言えるかは個人差がありますが、このままではいけないと感じることもあります。他人に頼ることやより深い関係を築くことの大切さについて考えてみましょう。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.24

最後の最後です、また登場したことお許しください。 どうしても気になったものですから。 まず、 >僕としては、今、自分の経験と知識を人の踏み台にしてもらおうと思っています。 踏み台だなんて、おっしゃらないでください! kumosuke32さまを踏もうなんて失礼なこと考えてません、笑。 でも、おっしゃりたいことは、人の役に立ちたい、力になりたい、ということなんですよね。それはすばらしいことだと思います。 しかし、人の役にたつ、ということは非常に難しい課題ですよね。 jacsさまのNo.22の回答を読んで、ハッと思いました。 人の心の助けになる、ということが、どんなに難しいことであるかを知っている方、経験されたことのある方の回答だと思います。 私も自ら友人の問題に意見していったことがあります、が、結果は失敗でした。何も変わらず、自分のエネルギーも切れてしまいました。疎遠になるのは覚悟の上でしたが、それは自分の問題なので、彼女にとっては無責任だったのでしょうね。間違ったことをしたのかもしれません。 心の問題はデリケートで、立ち入るのに勇気や莫大な労力が要ります。それはkumosuke32さまもおっしゃってますね。 jacsさまのように立ち入って上手くいくかどうかわからない、相手が深い傷を負うのではないか、とあんじるのも、やさしさであるし、kumosuke32さまのように、積極的にこちらから手を差し出したい、というのもやさしさでしょう。 どちらが正しいというのはケースバイケースでしょうけれど、実生活では、自分からは踏み込まないけど助けを求めてくれれば助力する、というjaksさまのご意見が暗黙の了解だと思います。だって、助けを求めても家族でもそれが得られない、という状況のほうが、おかしいのですから。普通は助けを求め、求めに応ずる、なのでしょう。 話が飛びますが、愛情って水の流れのようなものだと思うんです。誰かから受けて、また誰かに与えて、たえず流れていく。流れが大きく、よどむことがない人の心、が豊かな心なんだろうな、なんて思っています。 私自身は、心の中に入ってくる水の流れが小さくなりやすく、だから出て行く流れにも限りがあります。つまり自分の許容範囲の愛情を人に与えすぎると、自分が乾いて、また心が病んでしまいそうになります。 そうなると自分が与えていた人も、急に愛情の流れがとまってしまうので、迷惑することにもなりかねませんし、 バランス、が必要なのかな、と感じています。 以上は私の感覚の話なので、理解していただけたか、不安ですが、 結論として、人の役にたとう、という気持ちはすばらしいことですが、積極的になりすぎて力尽きると、相手はおろか、ご自分を守ることも危うくなる、ということを伝えたかったのです。 前回No.20で「相談者さまの心の内にはぐくんだ愛情を、機会がみつかったら、ぜひ他の人に与えてあげてください。」と書きましたが、下手なアドバイスでした。kumosuke32さまは、すでにそのようなことは重々承知だったのだと補足やお礼の文章の節々で感じました。 特に冒頭でもお伝えしたように、踏み台、という表現が気になりました。まずはご自分を大切に。 r1r1r1さまもおっしゃってますが、あせらずよいペースで頑張ってください。

noname#57613
質問者

お礼

ますけれどもね。  踏み台というのはスッテップボードという感じです。より高く跳んでくれるとうれしいなと思います。人はいつ死んでもおかしくないと感じるのです。その日まで悔いのないように過ごせればいいと、ありきたりですが思います。ちょっとおおげさでしたかね(笑)。  まだまだ、話したい思いもあるのですが、皆さんにも失礼かもしれないし、僕も忙しくなってきたので、これにて、このカテを閉じさせていただきます。localtrain470さん、並びに皆さん、お付き合いくださってありがとうございます。未熟な僕を相手してくださったことは本当に感謝しています。では、また、どこかで。

noname#57613
質問者

補足

 新しい視点で話してもらえてうれしいです。jaksさんの話は回答しながら、自問し続けていましたので助かります。  人の問題に踏み込むことは、確かにすごいエネルギーの要る作業です。そして、自分のエネルギーが尽きてしまうこともあるのも僕も体験していま。localtrain470さんがおっしゃるように大変なことなんですよね。そして、jaksさんの言ってることが一般的で、それは、普通の家庭なら求めれば応じられるものだということ、これは結構効きますね。そういうものなんですよね。  一つ余談ですが、最近読んだ本の中に、きちんと愛情を受けて育った人というのは、相手を信じる思いが崩れず、相手にどんなことされようと言われようとすぐ立ち直って、相手の世界に踏み込んでいって信頼を勝ち取るのだそうです。人間とは生育状態でそれほど違ってくるものなのかと思ったものです。わかっているつもりでも、こういう例を聞くと愕然とする自分がいます。  愛情の話、よくわかります。僕も同じ感覚のときがありました。だから、悪い、迷惑をかけてしまうと思って、積極的に自分から人に関わらない時がありました。人に頼られたときなど、”やばいなぁ・・・・大丈夫かなぁ”という思いが常に離れずにいたものです。そのせいか、子供が怖くて怖くてしょうがなかったし、親戚のおばあちゃんとか会いたくなかったです。そういう自分を責める気持ちもありましたし、家族も責めていましたね。  今は、違うと感じています。病気のせいだったんだと感じています。よどむこともあるけど、きちんと冷静に受け止めている自分がいて、”僕はまだまだ弱いなぁ”と思いながらも、そうでない自分がいるのもわかるという感じです。  感覚的なものがlocaltrain470さんと同じように感じられるのですが、どうでしょう。たぶん、同じだと思うんですよ。違いがあってもかなり近い感覚だと思います。話を聞いていると、localtrain470さんは元々人情を重んじる人と感じられます。重んじるというと意識的な感じがる良くなりますね、そうではなく、人情豊かな人と言ったほうがいいでしょう。僕も人生で始めてのいい状態になりましたから(といっても、いろいろ病気は抱えているのですが)わかるのですが、そうなったときに自分の本来の資質が発揮されてくるという感じです。localtrain470さんもお話を伺うと、人としてとてもしっかりしていて、きちんと事象と向き合おうと姿勢が感じられます。その随所に本来の資質が除いて見えるのです。僕の聞いている主観的な感じでは、遠くない未来に良い状態に向かわれるのではないかと感じます。お世辞ではなく、自分に起こったこととしっかり向き合おうという姿勢が長年の苦しみを耐えた中から、しっかりと根を張っているのが随所に感じられるのです。まだまだ苦しんでいるさなかだとは思うんですが、回復に向けた萌芽が結構出てきていると感じるのです。この僕の感覚は正しいと思います。恐れ多いことですが。  近い将来に、localtrain470さんは、自分の本来持っている心の温かさと豊かさを感じられると思うのです。そして、今まで持っていた自己像が崩壊し、自分はもっと素敵な人間だったと気づくはずです。でも、僕は今でもあなたは素敵な人だと思い

その他の回答 (23)

  • dadachan
  • ベストアンサー率50% (195/386)
回答No.13

kumosuke32さんへ 私はあなたと話しをしたわけでもなく、あなたの病歴を知っているわけでもなく、あなたの環境を知っているわけでもありません。 ですので、以下の文を読んだときに、典型的な症例だと思い、第3者的に意見を述べさせていただいただけです。 『精神病にかかると、周囲の人間、家族、友人、医師、保健婦さん、など自分にかかわる人たちが、いかに頼りにならないか気づくと思うんです。家族は医師や関係機関の人々の話は聞きますが、自分で調べるようなことはしない。医師は自分の学んだ理論に縛られてしまっているし、その範囲を超えて理解しようとはしないし、患者の苦しみを考えて接しようという努力があまりない。友人は、そこまで踏み込もうという人はほとんどいない。保健婦さんも仕事のラインからは踏み込んでこない。』 もしこれが本当であるのなら、自分一人で治した、と言っているようなものではありませんか? 医師であれ保健婦さん、家族、友人など、何らかの部分で何らかの形であなたを心配し、あなたを思い、あなたに協力し、そして出来る限りの治療をしてきたのではないでしょうか? この文章を読んでいると、他人に色々と助けてもらったという気持ちが伝わってこないんです。ですので、自立(ここでは入院を含め)してみたら?と書いたんです。 『 dadachanさん、あなたは専門家って何の専門家なんですか?精神病にかかわる人だとすると、とても乱暴で、雑な感性なので、おやめになったほうがよろしいですよ。あなたのフォローしている周囲の人間に迷惑をかけないためです。もし、精神病にかかわる専門家だったらですが。それに、専門家でしたら、もうちょっときちんと説明を加えた文章を書かないと。感情的に箇条書きにすることが専門家のすることではないと思います。ところで、本当に何の専門家なんですか?』 こういう気持ちはあるんですよね。だったらもう少し、あなたから歩み寄ってみればいかがですか?こういう、いわゆる愚痴に当たるような事も医師側の立場としては治療に必要なことですから聞きたいはずですよ。 全てを聞き、全てを受け入れて治療しないと、中途半端になってしまいますからね。あなた一人を治療しても意味がない、家族も一緒になって治療すべきであるとか。 とにかく、腹の中にあるものを一度医師や保健婦さんの前で吐き出してみてはいかがですか?

noname#57613
質問者

補足

引用させていただきます。 >以下の文を読んだときに、典型的な症例だと思い、第3者的に意見を述べさせていただいただけです。 だからですね、専門家ならその典型的な例というのを詳しく語るべきなのではと言っているのですよ。典型的な例というなら、具体的な名前、症状例などを挙げて説明するのが専門家と名乗る人の方法論でしょう。それをしないで言葉を箇条書きにしたものは専門家の書くものではないといったはずですが。 >もしこれが本当であるのなら、自分一人で治した、と言っているようなものではありませんか? 文意を取ることをしないのですか?僕はdadachanさんも含め、ほかの人にもさまざまなことを語っていますが、そこから意を取ることをせずに語るのはおかしいでしょう?あなたの方法は、文意を取らず、字裏を取るだけのものです。 >医師であれ保健婦さん、家族、友人など、何らかの部分で何らかの形であなたを心配し、あなたを思い、あなたに協力し、そして出来る限りの治療をしてきたのではないでしょうか? この文章を読んでいると、他人に色々と助けてもらったという気持ちが伝わってこないんです。ですので、自立(ここでは入院を含め)してみたら?と書いたんです。  自立がなぜ入院を含めるのか、まったく不明な語り口ですが、ほかの部分は、これだけです。字裏を取らず、文意を取れ、です。 >こういう気持ちはあるんですよね。だったらもう少し、あなたから歩み寄ってみればいかがですか?こういう、いわゆる愚痴に当たるような事も医師側の立場としては治療に必要なことですから聞きたいはずですよ。 全てを聞き、全てを受け入れて治療しないと、中途半端になってしまいますからね。あなた一人を治療しても意味がない、家族も一緒になって治療すべきであるとか。  これを愚痴というなら、あなたのも愚痴でしょう。えらそうに言ってるけど、あなたの言ってることのおかしさに気づかないのはどうしてですか?こういう人は荒らしだから付き合わないほうがいいのだろうか? >とにかく、腹の中にあるものを一度医師や保健婦さんの前で吐き出してみてはいかがですか?  ええい読解力のないやつだな、文意を取れといっている。吐き出していますよ、あなたに言われなくても。と、これでいいですかね? 意味のないことに時間を割くことの苦痛は、この人にはわからんだろうなぁ。意味のないことに意義を見出しているのだから。

noname#30427
noname#30427
回答No.12

今は昔より精神的に随分健康になってきたかと思いますが、その過程で「いかに自分が他人を頼りにしていたか」を省みることがありました。 病気が治らないのも誰かのせい、回りの誰かがこうしてくれないから私はこうなったんだ…と思うばかりでした。 でも考えてみたら、周りの人は本人が出来るなりにやってくれてるんだと思います。確かに自分自身は「もう少し踏み込んで欲しい」と思っていても、それが相手の限界だとするならばそれ以上を望むのは自分のワガママではないか?と思ったのです。 例えば、どんなときにでも頼りになるような気がする「親」ですが(そうではない家庭に育った人もいるでしょうが)、いくら親とはいえ出来ることには限度があります。私自身がまだ一人では何も出来ない幼児ならともかく、もう大人なのですからある程度自分で出来ることは自分でしなければならないことに気がつきました。 しかしメンタル的な病気のときは「出来ること」の幅が非常に狭いことが多いです。なのでそういう時は「今こういう状態でこれが出来ないので一時的に助けて欲しい」と言い、少しでも出来ることの範囲を広げる努力をしていれば、ある程度頼れる人ばかりではないでしょうか。 私も色んな人の力をかりながらここまで来ましたが、やはり最終的には自分の力で何とかしてきたのだろう、とは思います。だからと言って「周りは頼れない」と思うのは、今まで自分のために動いてくれた人に凄く失礼なような気がします。 信頼も愛情と同じで、自分で制限してしまうとそれ以上のものは得られないような気がしますし、相手がいくら与えてくれてもその価値に気づかなければ「もっともっと」と望むような気がします。 周りの人に対し、どのような感情で付き合おうがそれは個人の価値観なのでしょうが(メンタル的な病気を経験せずとも、人を信用できないと言う人もいますし)、少なくとも周りがどれだけ自分のことを考えて動いてくれたのかというところは考える必要があるのではないかと思います。 人間、最終的には一人ですが、実際は一人で生きてる人間なんていないですから。(少なくともこの日本には)不健康な考え方なのかどうかは分かりませんが、ちょっと寂しい考え方だな、と感じます。多分、今まで関わってきた人はもっと寂しい気持ちになると思いますよ。 でもちょっとでも「このままでいいのかな?」と思うのであれば、ちょっとだけでも勇気を出して周りの人との壁を低くしてもいいのかもしれません。

noname#57613
質問者

補足

えと、ほかの方の回答にも書いたのですが、”限定的な信頼”と書いたのを読まれたと思います。限定的には頼れるという意味ですね。これは、僕の表現が悪かったので(とも以前の解答した方に書いているのですが)、誤解が生じていますが、”すべてを一人でやってきた”といっているわけでもないのです。  sisyuumishinさんがおっしゃるように、”誰かのせい”とかそういう感じではないのですよ。それと、”相手の限界”というのも、それが限界ということではないのは僕にはわかることで、ただ、そこに踏み込む意思があるかないかの差です。すべての相手を対等に並べてしまったことがいけなかったでしょうか。 引用させていただきます。 >しかしメンタル的な病気のときは「出来ること」の幅が非常に狭いことが多いです。なのでそういう時は「今こういう状態でこれが出来ないので一時的に助けて欲しい」  これと同じことを僕は言っているのです。でも、それが得られなかったということです。  精神病に対する偏見、無知というものが付きまとうし、医師や保健婦さんは精神病患者特有のトラブルを恐れていますし、患者不信というか、患者疲れがよく顔を出します。そこで精神病で苦しくて疲労困ぱいな僕が、忍耐強く相手の気持ちを汲んで話を聞く姿勢が求められたりします。そこはちょっと違うと思いませんか?  それに、これは僕だけかもしれませんが(これも言ったと思うんですが)、苦しみを訴えても誰もまともに対応してくれず、結局、自分で医者を探し、周囲の偏見・無理解、非難、反対に耐えながら、薬を飲み、副作用に耐え、働き、何とか医師から話を聞き出し、この医師はだめだという判断を自分で下して、自分で医師を探して、今の医師にたどり着き、就労訓練に自分で通う決意をし(結局、これは大きな苦痛となりましたが)、苦悩のうちに、何とか今の状態まで良くなったのです。中でもつらかったのが、周囲の偏見・無理解、非難、反対で、今でも付きまといます。  sisyuumishinさんのおっしゃるとおり、周囲の人間に助けられた部分もあり、それは感謝しています。しかし、助けられたと同じぐらい苦しめられているので、控えめにみても、少しの感謝です。  僕の話の内容が伝わったでしょうか?伝わっていれば、sisyuumishinさんの話の焦点がちょっとずれていると気づくと思うのですが、いかがでしょう。”相手がいくら与えてくれてもその価値に気づかなければ「もっともっと」と望む”とは、話が違うことがおわかりいただけたでしょうか?  僕の話と焦点が合ったとき初めて意義のあるやり取りになるのです。    

  • tr4
  • ベストアンサー率27% (44/161)
回答No.11

例えば、アル中の治療の中に”底つき体験”というものがあって、 これは、 「もうどうしようもなくなった、どうしようもない状況にまで陥ってしまった」ということを、体験させてしまおうという、荒療法なんですが これは、ある意味いちばん効果的な動機ずけになると思うのです。 つまり、どん底まで落ちてしまうと、 這い上がるしかないという、意識が強く働いて、 そのときは、自然に周りとか、他人とか、医者とかもあてにしなくなって いる状態に、心が働くようになるのだと思うんです。 ちなみに、どん底まで、落ちて下さいと言っているのでは、 ないですので、安心してください。 私も、うつ病・パニック障害・対人恐怖・など 一様に、精神病を患ってきました。 今も、治療中です。 うちも、そんな自分を、家族も、医師も、 「大丈夫よ。心の風邪なんだから」と うてあってくれなかったんです。 まぁ、幼い頃から、興味を持たれたり、心配されたりということが なかったので、精神病をしようが、アル中になろうが 関心をもたれることはありませんでした。 でも。。本当に落ちに落ちたとき。 「もう、ダメだ!死ぬしかない」というところまで落ちて 彷徨って、苦しんで、いたときに 動けなくなった身体を横たえて、天井を見ながら思ったんです。 「私はこの病気で死ぬのか?絶対治してやる!」と。 それまでは、やはり誰かにわかって欲しい、心配して欲しい、 いつも気遣って欲しい、気にかけ続けて欲しい。 という、依存的な気持ちでいたのですが、 自分の中で何かが、弾けて、決意したときからが、 今思えば、本当の回復の始まりだったように思います。 精神の病は辛いです。 そして、その思いを聞いてもらったり、受容してもらうことで 回復も早くなるんだと思いますが、 私は、「誰かに、理解して欲しい」という思いを 手放したとき、ラクになれました。 それまでは、そうしてくれない、周りに相当不満をためて 逆に、それがストレスを生み出していたように思います。 不思議なもので、捨てる神ありゃ、拾う神ありで それからは良い出会いに、たくさん恵まれましたよ。 質問の答えになっていないと思いますが、 ひとつの意見として、参考になれば幸いです。

noname#57613
質問者

お礼

 似たような体験をしています。僕がアル中にならなかったのは、金がなかったのと、強いのを飲みすぎて、その前に体が受け付けなくなってしまったからです。  僕は良い出会いにはたくさん恵まれていないです。それは、ある意味、今回の質問の内容が関係あるのかもしれません。  どん底までいったんで、そこから這い上がるには人を頼りにしていてはやってられない、みたいなのがありましたね。当ての外れた話に耳を傾けるより、まず生き残ること、という意識になりました。悲しいかな”どん底までいくしかない”というのでは今後の治療で何人生き残れるのかとは思うのですが、そこまで行った人はちょっと違いますね。  ありがとうございました。参考になりました。

noname#39202
noname#39202
回答No.10

おかしいとは思いませんよ。 心から頼りに出来る人がいれば、心強いですからね。 ただ、本当に周りの人が頼りにならないとお思いですか? 大切な事見逃していませんか? 生活を助けてくれるご両親、何気ない言葉を交わす友人。 人を助け続けるは並大抵の事ではありません。 本来、自分に対して宛てる為の時間や労力を他の人につぎ込むのが、どれ程の事かお分かりでしょうか。 例えば怪我のように治る期限のはっきりしているものに対しては、皆あれやこれやと応援してくれる事でしょう。でも、それは短い限られた期間だから続ける事が出来るのです。 長期戦の病に対して、ずっと全力での支援を続けていたら間違いなく周りは心身ともに疲弊します。 風邪の様に身体を温め頭を冷やす・・・それなら周知の事実。でも、人の気持ちは目に見えず、思いの形すら千差万別で、どんな事をすれば誰かが救われるか、特にメンタル的なものは一足飛びに完治する事が無く、勿論特効薬等無いですよね。 お友達は勿論、ご両親にだって分かる物ではないのです。 例えばご両親が将来老いて、あなたが世話をしなくてはならない日が来たとします。炊事洗濯・介護・・・当然一人で負いきれるものではないのでホームヘルパーを頼んだり、デイケアを利用したりする事になるでしょう。ご両親は面倒を見てくれるのがあなたでなくて少し寂しい思いをするでしょう。でも、誰でも何処かで息を抜かなくてはなりません。全力で走れるのは短距離だけです。長い期間を行くにはゆったりとした走り・・・歩みであり続ける事が大事です。 ご両親やお友達との間に気持ちの落差があるのは確かでしょう。 でも、だからと言って誰も彼もがあなたを放置している訳ではありません。 あなたの気に召すような「踏み込む」「頼りになる」といった形ではなくとも、人との繋がりがある以上、静かに見守られているのです。 人には夫々生活があって、生きる為には自分も大切にしなくてはいけない、でもその中で皆が少しづつ力を貸してくれていると思うことは出来ないでしょうか。

noname#57613
質問者

お礼

 えと、僕の言葉が足りなかったのかもしれないですけれど、全力で支援してくれとは言ってませんよ。  限定的な信頼にとどまると本文に書きましたが、それは、まだ踏み込んでもいない場所でとどまっている家族の姿を見たからですね。  友人には恵まれなかったのかもしれないですが、ちょっと踏み込むすらする人は99%いなかったという状況でした。 引用させていただきます。 >人には夫々生活があって、生きる為には自分も大切にしなくてはいけない、でもその中で皆が少しづつ力を貸してくれていると思うことは出来ないでしょうか。  自分を大切にすることを認めてないわけではないですよ。皆がとは言はないですが、少しづつ力を貸してくれていると思っています。  僕が話しの焦点を一般の精神病の人と、僕個人の精神病とを一緒くたにしてしまったのがいけなかったようです。  ”困ったときはお互い様”という言葉がありますが、それぐらいは力を貸してほしいぐらいを望むのがそれほどおかしいとは思わないですけれども。 >あなたの気に召すような「踏み込む」「頼りになる」といった形ではなくとも、人との繋がりがある以上、静かに見守られているのです。  ”あなたのお気に召すような”とまで言われるようなことを言っている自覚はありませんね。  僕は限定的な信頼にとどまるということを言っているのです。真に困難な局面に立ち会ったとき、本当に頼れる人はなかなかいないというところを言いたかったのです。そこは説明不足だったと思います。  しかし、”あなたのお気に召すような”と、そこまで言われるような限度を超えたことは言ってないはずですね。勘違いから、思い上がるという典型なパターンですね。まともな事を言っているのかと思ったら、そこには上から下を見ている感覚で物を言っているというね。  メンタルなコーナーにしては感覚的に雑だとは思いませんか?

noname#193263
noname#193263
回答No.9

はじめまして。 頼りに出来る人がいなくて一人で戦ってきたというkumosuke32さまは強い人だなぁと感じました。家族や医師、他人に依存し過ぎてしまうよりは、一人でもやれるという心の強さをお持ちなのですから、今はそれでいい、っで良いのではないですか?  いつの日か、kumosuke32さまが心から信頼できる人が現れると良いですね。

noname#57613
質問者

お礼

 はじめまして。  お名前なんて読むんですか?  強いわけではないですし、限定的とはいえ信頼はしているんです。ただ、精神病で生き残る、生きていくには非常にシビアな戦いになるんですね。そういうことをしていると家族といえど、その考えの甘さが見えてしまうわけです。たとえば、医療機関に丸投げ的なところとかですね。 引用させていただきます。 > いつの日か、kumosuke32さまが心から信頼できる人が現れると良いですね。  そう、これが今回のテーマというか、今の自分ではそれは難しいかなというのがありました。それでいいのかなというところを問うてみたかったんですけれど、僕の質問の仕方が悪くて失敗しました。  お気持ちはありがたくいただきました。ありがとうございます。

回答No.8

周囲の人間には基本的に期待をしない、ということですよね。私も同じような結論に達した者です。しかし、どことなく寂しさを心の中に抱えていませんか? 私は、ある意味正しくて、ある意味間違っていたと思いました。 私自身の話ですが、救いの手を求めても、空ぶりを続ける家族や友人に、あきらめの境地にいたりました。頼りにはしない、しかし彼女たちなりに、私のことを想ってはくれるから、その部分は感謝して受けとめよう、という結論をだしたのでした。 夫に「彼女たちのことは、今後もう頼りにはしない」と打ち明けました。すると夫のアドバイスは、こうでした。 「あんたは頑固や。極端すぎるんじゃない?決めつけすぎよ。」 多少自分の希望や期待が通らなくても、それはそれで、他の事で甘えられるかもしれないし、その人を否定することからはじめるのは、柔軟性がないということらしいのです。人間関係はそんな白黒はっきりと分かれるようなものでもなく、いろんな形があるから、自分でこうと決めつけすぎて型にはめるのはよくない、と。 彼の言葉は頭では理解できますが、心からの理解はできません。 彼と私の心のスタンスのちがい、が原因ではないかと思います。 彼は精神的に非常にタフです。しかし彼は自他認める自己中男なのです。 彼は、自分のしたいこと、望むことを瞬時にイメージできるようですし、それを肯定的なものとして捕らえていて、ストレートに話をすることが出来ます。相手が要望をかなえなくても、まぁいいか仕方ない、と、切り替えが早いです。 しかし、私は、まず相手の意向を考え、自分がどうしたいか、というイメージを持つことが苦手、自分の欲求が拒絶されないかという不安、こんな要求をして相手が迷惑でないか、とか無意識に常に否定的なものと考えてしまうんです。そして、実際相手がこちらの希望を無視したときなんて大変です。全部自分を否定されたような気分にもなりかねません。だから、人に期待はしない、という結論に導かれたのです。 これまで歩んできた環境で、過保護にされて自分の要求を先回りしてかなえられていたり、反対に要求というものを認めてもらえなかったりということがあったので、自分の本当の欲求というものが、あいまいになったり、欲求をもつことに罪悪感を感じたり、と、不健全な状態になってしまったんだと思います。 自分のように、本当の欲求を隠す、開き直る、という原点がおかしいのでしょう。 夫のように、自分の要求をストレートに表現し、それに罪悪感をもたない、というのが健全と思います。 友だちがほしい、話をきいてほしい。家族にやさしくしてほしい、もっと心配してほしい、甘えたい。普通の欲求じゃないでしょうか? ですので、相談者さまも、人を頼りにしない、と決めつけないで、 家族に頼りたい、甘えたい、医師や看護士とも深い話がしたい、友だちがほしい、彼女がほしい、そう思うことは当然のことですから、それを否定せずに、かといって、相手のあることですから相手の都合を考えるというクールな部分はそのままで、そういうスタンスがとれるようになるとよいのかな、と思いました。 自分を許す、というのはこういうことなのでしょう。難しいですね。わたしも理屈で言えても、心で心底理解できてはいません。 長文失礼しました。

noname#57613
質問者

お礼

 ああ、きちんと僕の言った意味が伝わっていますね。ほっとしました。説明不足でしたので。  そうですね、僕の言った限定的な信頼という言葉が、頼りにしないと決め付けない部分なんですね。  寂しいという感覚は、なくなってしまったんですね。今感じることはまったくありません。同じように、以前のようにポジティブな感情にも鈍くなってしまっています。でも、”限定的な信頼”は僕の中で今の人生におけるポイントだなと思ったんですね。  自己中というのもどうかと思いますが、欲求に素直になるというのは大事なポイントですよね。状況によってそれを抑えられたり認められなかったりしたのは不幸なことです。  僕は自分を許すというか、自己受容はできたんです。人生30にしてやっとですね。localtrain470さんにもそういう時がくることを祈っています。  今回はありがとうございます。

  • kanna_ch
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回答No.7

No.3です。再投稿になります。 前回は、少し的外れな回答になってしまったようで申し訳ありません。 >一人がいいとは言ってないつもりでした。 >限定的な信頼ということです。 すみません。「このままでもいいようにも思うんですが(別につらい事はないのですから)」という記述から、迷いはあるものの、一人でもいいかも・・・と感じているのだと思ってしまいました。 それは、人生における選択肢のひとつであるので、他人と距離を置いて 付き合い、唯一の友人以外とはわかりあえなくてもいい、と思うのなら それもアリだと思ったわけです。 もし、恋人や友達と信頼関係を結びたいと考えていらっしゃるなら、 自分を理解してくれる人、というだけでなく相手を理解したいと思える人を探すことをオススメします。「人生=彼女いない暦だから」なんて言い訳は通用しません。だって、恋人と信頼関係を築くためには「愛」「高揚感」などととともに「絶望感」「嫉妬」「悲哀」を味わうことは確実で、それを乗り越えた人たちだけが「信頼」を勝ち取ることができるのですから。 「自分をわかってもらえない」などとあぐらをかいていては、恋人を作るのは難しいと思いますよ。 >ピンチのとき、その人が尽力してくれることを望むのは”当てにできる”と相手に思うことと同じではないですか? 違うと思っています。↓の例は極論ですが・・・。 100万円の工面に困っている私が、1000万円の貯金がある友人に借金を申し込んだとします。相手が1万円しか貸してくれなくても、1円も貸してくれなくても、私のことを思ってしてくれたことならそれでOKということです。 >職種とか、親だとかで、そういう部分で、まだできることはいっぱいあるのにと思うことはいくつもあったものですから。 正直、してほしいことをちゃんと伝えればいいのでは・・・と思ってしまいました。うつ病の人に対してはどうやって接していいのかこちらだって悩んでいるのです(私の友人も5年くらいうつ病に苦しんでいます)。 勝手に期待して、勝手に絶望しているのはちょっとズルくないですか? 「申し訳ないんだけど、今こういう状態だから話を聞いてくれないか」って言えばいいのだと思います。相手だって、時間さえあればちゃんと向き合ってくれると思いますよ。 ただ、自分以外の人にも「生活」があるので、時間が合わないことだってあると思いますから、その辺は許してあげてくださいね。

noname#57613
質問者

補足

 えと、また、的外れな回答になっています。 引用させていただきます。 >もし、恋人や友達と信頼関係を結びたいと考えていらっしゃるなら、 自分を理解してくれる人、というだけでなく相手を理解したいと思える人を探すことをオススメします。  僕もそう思えるところです。 >だって、恋人と信頼関係を築くためには「愛」「高揚感」などととともに「絶望感」「嫉妬」「悲哀」を味わうことは確実で、それを乗り越えた人たちだけが「信頼」を勝ち取ることができるのですから。  えと、味わっていないと思っています?僕もいい年ですから、それぐらいは通過しているのですが。 >「自分をわかってもらえない」などとあぐらをかいていては、恋人を作るのは難しいと思いますよ。  ”「自分をわかってもらえない」”などと言ってますか?もうちょっと踏み込んでほしいとは言ったけれども。あぐらをかいているようなことを言ったつもりはないですけれども。 >正直、してほしいことをちゃんと伝えればいいのでは・・・と思ってしまいました。  伝えましたが、伝わらなかったのか、話を受け止められなかったのかはわかりませんが、効果がなかったということです。 >うつ病の人に対してはどうやって接していいのかこちらだって悩んでいるのです(私の友人も5年くらいうつ病に苦しんでいます)。 勝手に期待して、勝手に絶望しているのはちょっとズルくないですか?  そういう捉え方だから、うまくいかないんじゃないですか?先入観が先にたっていますよね。”勝手”にしてるわけではないというのは今回の補足で伝わったと思いますが、どうでしょうか? >「申し訳ないんだけど、今こういう状態だから話を聞いてくれないか」って言えばいいのだと思います。相手だって、時間さえあればちゃんと向き合ってくれると思いますよ。  言ったし、時間もあったのですが、向き合ってくれなかったということなんです。このケースは、”僕の場合だけかもしれないけれど”と書いたのですが、それも、きちんと書けばよかったですね。そこは、説明不足です。申し訳ないです。 >ただ、自分以外の人にも「生活」があるので、時間が合わないことだってあると思いますから、その辺は許してあげてくださいね。  もちろん、そこは考えています。どうでしょう、今回は伝わったでしょうか?

  • dadachan
  • ベストアンサー率50% (195/386)
回答No.6

kumosuke32さんは一体何を言いたいのですか? 文章を読んでいると、結局みんなに気にしてほしい、みんなに自分の方を向いてほしい、としか感じられないのですが。 もしそんなに周りを信頼できないのであれば、自立してみてはいかがですか?そうすれば周りの皆さんの大切さがわかると思うんですけどね。 私は、医師の指導を超えた治療法を医師に提示し、この方法でお願いします、と頭を下げた事があります。 また、家族として自分の中で出来る事を出来るだけやり、会社にも理由をきちんと説明して、そして心のもやもやした部分をスッキリ出来るように勤めてきました。 時間はかかりましたけど、それはそれでよかったと思ってますし、良かったといわれます。 ようするに、もっと甘えたいんですね。 でしたら、もっと素直になればいいんじゃないですか? 世の中、それほどみんな客観視してませんよ。 特に家族の思いなんてすごいですよ。 あなたが気がついていないだけですよ。 悪いですが、自己中心的な考えでそう思い込んでいるだけだと思います。

noname#57613
質問者

補足

引用させていただきます。 >私は、医師の指導を超えた治療法を医師に提示し、この方法でお願いします、と頭を下げた事があります。 また、家族として自分の中で出来る事を出来るだけやり、会社にも理由をきちんと説明して、そして心のもやもやした部分をスッキリ出来るように勤めてきました。 時間はかかりましたけど、それはそれでよかったと思ってますし、良かったといわれます。  同じようにしてきましたよ。 >ようするに、もっと甘えたいんですね。 でしたら、もっと素直になればいいんじゃないですか? 世の中、それほどみんな客観視してませんよ。 特に家族の思いなんてすごいですよ。 あなたが気がついていないだけですよ。 悪いですが、自己中心的な考えでそう思い込んでいるだけだと思います。  いい家族に恵まれたのじゃないですか?素晴らしいことです。それと、僕の言っていることが伝わっていないことは明らかなので、そこは僕にも落ち度があったので、申し訳ないと思いますが、なぜ”もっと甘えたい”、なぜ”自己中心的な考え”につながるのかわかりません。きちんと、わかるように説明してくれれば反論しますよ。  ここで、自立というのがでましたが、家族のお金で自立するんですか?自分のお金で?経済的に自立できていない状況で、自立することは無謀ではありませんか?”経済的に自立できていないじゃんか、十分お世話になっているじゃないか”みたいな批判がくるかもしれませんが、精神病で経済的に自立できている人ってそういませんよ。継続的に、フルタイムで、普通の人のようにストレスにさらされながら働く条件でないと、経済的な自立はいじできません。この困難さはわかりますか?それと、家族は経済的なサポートをしていれば、いいというわけではないですよね?僕も家族を心身両面でサポートしていますし。  以上を踏まえると、精神病の人に”自立すれば”ということが、いかに暴論であるかが少しは伝わったんじゃないだろうかと思います。  dadachanさん、あなたは専門家って何の専門家なんですか?精神病にかかわる人だとすると、とても乱暴で、雑な感性なので、おやめになったほうがよろしいですよ。あなたのフォローしている周囲の人間に迷惑をかけないためです。もし、精神病にかかわる専門家だったらですが。  それに、専門家でしたら、もうちょっときちんと説明を加えた文章を書かないと。感情的に箇条書きにすることが専門家のすることではないと思います。ところで、本当に何の専門家なんですか?

noname#160321
noname#160321
回答No.5

ちょっと不謹慎かもしれませんが、kumosuk32様は他人に踏み込んできて貰いたいのでしょうか。 私は絶対にイヤです。自分と他人の一線は死守したいです。 統合失調の患者さんのように「あいつはいつも俺のことばかり見てる」「みんな私のことをあざ笑っている」「あの医者は陰で俺のことをバカにしてる」なんて思い出したら私は生きていけません。 仕事と自分は別、他人と自分は別、その上で関係を持ちたい人、近づきたい人におずおずとほほえむのが通常の考え方ではないでしょうか。 アメリカの冗談に「おーい昨日のパーティーのジョーだがナァ」「どのジョー?」 連中はファーストネームでしか呼ばないので部外者が居ても気がつかなかったりします(爆笑) 踏み込まれないのは基本。こちらから声をかけてほほえむのが基本です。 私も友達居ませんよー、大学博士課程の時の仲間+五人(爆笑) m(_ _)m

noname#57613
質問者

補足

引用させていただきます。 >統合失調の患者さんのように「あいつはいつも俺のことばかり見てる」「みんな私のことをあざ笑っている」「あの医者は陰で俺のことをバカにしてる」なんて思い出したら私は生きていけません。  ここの意味がよくわからなかったのですが、どういうつながりだったのでしょうか。  えとですね、doc_sundayさんは生命の危機的状況におかれたときの話をしていますか?それとも、普通の生活のときですか?  後者なら、それでもいいと思いますよ。それと、”自分と他人の一線”というところで話しているわけでもないと思うんですよね。友人が死に瀕しているときに、doc_sundayさんは自分の生活を守るのですか?ちょっと意味合いが違いますよね。そこが伝わらなかったところだと思うんです。  どうでしょう。

noname#20102
noname#20102
回答No.4

質問者さまのおっしゃる通りです。 精神的な病気で苦しんでいるときに、本当に人はあてにならないものだと痛感します。 でもこれは、病人の方がないものねだりをしているだけであると、私は思います。 まず医師や保健婦は病気に関しては素人です。 病気に苦しんでそれを完治した経験もない彼らに、病気の治し方を聞くのは、犬に道を尋ねるようなものです。 家族は、無償の愛を注ぐ才能については、この人に勝る者はいません。 が、彼らも病気に関しては素人であると同時に、あなた自身を理解するという点については、これもまた最高の資質をもっているわけではないのです。 親子といえども別の人間です。 親子は理解というより愛情でつながっているものでしょう。 友人もそうです。人が人を理解するというのは、できる場合とできない場合があって、理解して欲しい、助けて欲しいと叫んでみたところで望むとおりの理解や救助を投げかけてくれるわけではないのです。 つまり病人の方が一方的に相手に依存心を持つことから、依存したのに答えてもらえないという、「不信感」を自ら作り出しているのです。 >限定的な信頼の上で付き合っています。こういう考え方って不健康というか、おかしいのでしょうか? おかしいかおかしくないかと聞かれれば、おかしいと思います。 精神的な病気が完治して、家族や友達と「対等」につきあい、相手も同等の人間として認めることができれば、100%理解しあえなくてもいいと思えるようになります。 いつも自分の求めるものを相手が返してくれるという一方的な依存は持たなくなります。 人間関係はgive&takeですから、自分だけが相手に与えてもらおうという意識があると、相手に対する信頼ももてなくなります。

noname#57613
質問者

補足

 気になったので書いておきます。引用させていただきます。 >つまり病人の方が一方的に相手に依存心を持つことから、依存したのに答えてもらえないという、「不信感」を自ら作り出しているのです。 とのことですが、僕は依存で相手に望みを持つということを言っているのではないんです。そこをもうちょっと踏み込んでほしい、というところまでも踏み込んでこない人々に限界を感じたのです。 >いつも自分の求めるものを相手が返してくれるという一方的な依存は持たなくなります。 人間関係はgive&takeですから、自分だけが相手に与えてもらおうという意識があると、相手に対する信頼ももてなくなります。  ”いつも求めているものを相手が返してくれる”ということを求めているのではではないんです。だから、”自分だけが相手に与えてもらおうという意識”でもないわけですね。相手も要求していて、僕も要求している、僕はかなり頑張って応えているのに、相手はそんなに頑張らずに返してこないという現実を目の前に出されてくるわけです。give&takeでいえばtakeが勝っている状態ですね。  中にはそうでもない人もいるのかもしれないけれど、精神病の人は周囲の要求に本当に苦しい中、頑張って応えているんです。そうしていると、周囲はそれほど頑張らずにいる状況が見えてきてしまいます。意識の差というものですね。    どうでしょう、伝わったでしょうか?

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