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意見の相違に気が付いたときに、自分の誤りを認めたことはありますか?
議論やちょっとした諍いから、お互いの意見の違いに気が付くことはあると思います。 そうしたときに、自分の誤りに気付いて認めたことはありますか? 「ある」と答えた方は、そこに至るまでの経緯(思い出など)も教えてください。
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回答から言うと、あります。 口論の最中に指摘されたり自分で気づいたら、そこはいつも訂正して話を進めてます。気分は複雑でも、そうしないと互いがおかしいとわかっている事を論ずるという無意味な状況になってしまい、話が進みませんからね・・。 私見ですが、自分の誤りに『気づいていれば』それは誰でも認めるのが一般の常識で、気づきながらも自分が正しいと言う方は世間のマナーから大きくずれた人達だと思ってます。 ただ、感情的になっていると自分の意見や考えを見つめ直すというのは人間なかなか出来ないもので、誤りに気づけるかどうか。相手に指摘されて自分の意見を考え直せるかどうか。というのが意見の相違においての問題点だと思います。 見た限りではaqucentさんは普段感情的になりがちのようですが、自分の誤りを認めて話すことが出来ているなら必ずしも『相手を認める』事は無いと思います。 自分が間違っているのは相手が正しいためとはなりませんし、相手を認めることで正しかった自分の意見をも見落としてしまう事ってあると思うので。
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- Gantz10
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No.10 のお礼 > 「正しい」というのはある方向から見たときの主観であって、 > 別の側面から見れば違った考え方(正しい)があると考えています。 > だからこそ、ある意見が絶対的に正しい、という事はあり得ない > と思います。 そこは「正しい」の意味が違いますね。正誤とは「ある方向から見た」という話も前提条件に含めて考えるもので、絶対的に正しいということはいくらもあります。 つまり、前提条件の選択は主観であっても、一旦条件が明確になったら、そこから結論へいたる論理構造の正誤は主観とは関係なく判定できるということです。 > 「誤りを認める」は、私の考え方よりも相手の考え方に共感or > 理解できる性質を認めた時、という意味で表現しました。 共感と理解は、私は全く違う意味で使います。 今の例で言えば、前提条件の選択に「そういう選択もあるなあ」と思えることが「共感」で、前提条件を知り結論を導く論理構造を把握できるようになることが「理解」です。 つまり、共感はできなくても理解することはできますし、理解できなくても前提条件や結論に共感することもあるでしょう。 今回私が述べているは、この意味の「理解」においてのみのことで、「共感」については何も述べていません。というか、共感に関してはまさに主観ですから正誤という話にはなりませんし、従って誤りということもあり得ません。
お礼
何度も回答ありがとうございます。 回答いただいたことについて考えるところはあるのですが、議論になりそうなので、私からの意見は控えさせていただきます。 ご了承下さい。
- domaine-espoir
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こんにちは。 認めることは、とてもよくあります。 自分という人間は自分が生きている限り少なくても存在はしていて、 自分が存在することは自分以外の人が存在している証明にもなる、 自分だらけの社会や自分だけがいる社会はまったく機能しないだろうと思っていること、 違う意見に注目するかしないかは全くの自分の自由だということ (気づいていない視点だったと思うかどうかも含めて) などが、理由にありますねぇ・・・。
お礼
こんばんは。 哲学的な考え方をされているのですね。 私が私であることの証明(存在意義)は、「私が私の存在を認めること」「私が他の人に認知されること」かなと思います。 そうしたときに、私が他の人(考え方)を認める事は、私の存在をより強く、より認知される事に繋がるのかもしれませんね。
- Gantz10
- ベストアンサー率17% (20/117)
No.1 のお礼 > 論理的にはそうなりますが、自分が誤っていることに気が付 > くでしょうか。 気づきますよ。事実と自分の主張の間に矛盾があればすぐ分かります。 > そして、気が付いたときにそれを認めるかどうか。 認めない方が、難しいですね。 整合性が取れない主張を延々と続けるなんて、とてもとても。 > 人として、ある程度は自分の正当性を信じるところはあるの > で、私には難しい問題のように思えました。 なんとなく、他の回答との対応を見ていると、あなたは100%正しいと100%間違っていると2パターンしかないように感じているように見えますね。 よほどの馬鹿でない限り100%間違うのは難しいことです。 間違っている部分だけ修正するのは、たいていそんなに難しいことではありません。
お礼
すみません。誤解があったようですが、私や相手のどちらかが100%正しい事があるとは思っていません。 「正しい」というのはある方向から見たときの主観であって、別の側面から見れば違った考え方(正しい)があると考えています。 だからこそ、ある意見が絶対的に正しい、という事はあり得ないと思います。 「誤りを認める」は、私の考え方よりも相手の考え方に共感or理解できる性質を認めた時、という意味で表現しました。 Gantz10さんのように「全てが間違っているわけではない」と考えれば、案外、簡単に認められるのかもしれませんね。
- fallen_angel
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【有り】ですね。 自分としてもある程度の知識や情報を得た上での議論において、【相手側の主張の方が優れていたり適切な場合】は、【自分の意見に誤りや落ち度】が有ったと感じます。 その場合、相手の主張に乗っかり更に議論をエスカレーションして良いモノにするか、撤退するかは、議論の内容によります。
お礼
状況に応じて柔軟に対応する、ということでしょうか。 『相手を認める』ことに拘りすぎていてもいけないのですね。
#6ですが、何が何でも、誤りを認めないという趣旨で書いたのではないです。 基本的に誤りという形で指摘されることが、人間は嫌いだということを書いたのです。 ですから、 >言い方を考えて、あまり誤りを「指摘」という形にはしないと思います。 これは、私の文ですが、誤りを指摘するというのは、自分が正しい位置にいるということですよね。これがある限り、対立構造は外れないので、ますますそっちこそ誤りだろいういうことになるということです。 誤りを直してやる、という上からの視点が、人の自尊心を傷つけるということを書いたのです。 コミュニケーションが採れないとか、疑心暗鬼のことを書いたわけではありません。
お礼
失礼しました。 読解力不足ですね…。 誤りを指摘されたときに、それに反発する気持ちが生まれることは、確かにあると思います。 その結果、人の自尊心を傷つける、という話も頷けます。 「誤りを指摘するというのは、自分が正しい位置にいる」は面白い考え方ですね。 相手が正しい位置から主張すれば、こちらも正しい位置にいようとバイアスがかかるものなのかもしれません。 興味深いご意見でした。こうして考え方が広がっていくのは嬉しいですね。
なんだか皆さんの回答を見ていると、私の見ている人が悪い人ばっかりに見えてしまいますが、基本的に認めない、謝るのはもっとしない人が多いと思いますけど・・・。 というか、小さなことなら認めるし、謝るんですが、大きなことほど謝りませんね。間違いを認めてさらに建設的にというのは、理想論で、実際はそうはいきませんね。そういつも言っている人で、人に指摘する人でも、自分がされると血相変えて怒りますよね。自分がやってるからやられたときに受けるかといういうと、逆です。普段、そういうことを言っているほど、受けなかったりすることは、たくさんあります。 ていうか、そういうやり方でうまくいったことがほとんどない。「指摘」とか、「誤り」って、自我を傷つけますので、本能的に避けるんじゃないでしょうか? 人のばかり言ってますが、質問者様は、そんなことを聞きたいのではありませんよね。人がどうではなくて、質問はこちら↓ですよね。 >そうしたときに、自分の誤りに気付いて認めたことはありますか? あんまり認めたことがないと思います。でも、そもそも事実を重視したことしか言わないので、論争にならないんです。 そういう機会がないです。論争になる人は、だいたい持論や我論を立てて、譲りませんよね。自己主張が強いです。自己主張に沿って、論理を組み立てるので、どうしてもごり押しが出てきますから、似たもの同士ではそういうことになりますけど、自己主張をあんまりしない人は、認めがたくなるまで、論争をしないです。相手が違うと思うことはあっても、あぁそうですかと適当に引き上げてしまいますし、引き上げられない場合でも、言い方を考えて、あまり誤りを「指摘」という形にはしないと思います。それに我を張って主張しないので、用心深く調べてからものを言いますから、無理な論理は少ないですよね。人の指摘をすぐする人は、リサーチがものすごく少ないです。間違って指摘していたら大変失礼になることです、どうしようっていうのがないんですよね。最初から、間違ってるのは相手と思いこんでますので、調べもしないで指摘しちゃうのですが、誤解や勘違いも多いし、言い方も失礼なのに、勢い込んだ分、余計に認めないし、謝りませんね。こういう間違った指摘を、ここのサイトでも時折受けますが、そういう勢いで指摘してきた人に謝ってもらったことはほとんどありません。逆に指摘されても、非礼をとがめても知らない顔していますね。 基本的に人間は、認めない・謝らないんだと思いますよ。認めなくてはいけない場合ほど、認めないし、謝らなくちゃいけない場合ほど、謝らないと思います。ちょっとした文字の綴り間違いとか、肩が触れたようなことは謝っても、相手が本当に怒ってるようなことは謝れないのだなと思っています。 そういうシチュエーションにならないように、よく考えて発言する人は、自分が間違うことも考慮に入れて発言するので、誤りもわりと認めますが、よく考えて言わない人や指摘することしか頭にない説教屋タイプは、指摘される・謝るなんて、考えてもいないと思います。
お礼
そうですね…。 論争をする方は、争う姿勢を見せていますので、敵味方を区別して論議する傾向がありますね。 その場合、敵性を認めた方に対しては、自分の意見を剣として、相手を納得させようとする、ということはあると思います。 しかしながら、双方の意見が100%重なり合うことはまずありませんので、意見の応酬から、水掛け論に発展することが多いのが悩みどころです…。 異を唱えるのは心苦しいのですが、「人間は、認めない・謝らないんだ」のところは、私は認めたくはないです。 これを認めてしまったら、私も認めず、相手も認めず、お互いに疑心暗鬼を胸に抱いて生活することになってしまいます。 理想論でも良いので、「人は認め合うことが出来る」(いつも出来るわけではないのは承知の上で)を信じて生きていきたいと思います。
- akihime-ichigo
- ベストアンサー率27% (153/560)
自分が間違っていた=正しい知識・考え方etc.を相手に教えて頂いただけのことですから、謝ると言うよりは「教えてくれてありがとう。勉強になりました」という言い方の方が多いと思います。 間違った理由は、自分の知識不足、思いこみ、間違った情報を仕入れたなど様々な状況がありますが、 間違いを認めて自分を正すことで、それを自分のものにすることが出来るのですから、間違えを認めない方が損です。 理性としては間違っていると理解できるが、感情で認めたくない場合も稀にありますが、 そういうときは、間違いを認めるか否かではなく、その背後に別の問題が潜んでいるように思います。 感情として認めたくない場合、自分では気づかない何らかの問題がある、と考えるキッカケにまりますので、 やはり間違いを認めることは、自分にとってメリットが多いことだと思います。
お礼
なるほど。 感謝を表すことで相手の方を認める方法もあるのですね。勉強になります。 確かに、相手の方を認める事とは別の問題が私の内面にはあるように思います。 それを探していく事で新たな道が開けるかもしれませんね。
- Rose-quartz
- ベストアンサー率17% (205/1162)
私は、気づいた時点で認めて謝ります あまりにアッサリ謝るので、謝る事ができない友人は それまで意見の相違で怒っていたのに 「そんなスグ、よく謝れるね・・・」と怒るのを止めてしまいました 性格の違いで、出来る人はサラッと出来ちゃうし、出来ない人には難しいですよね 私は、相手が謝りやすいような環境と雰囲気を作ってあげる事はあります 何回か経験すると、サラッと謝るのが私の性格に合ってるなぁと思うし 何度でも出来てしまうから、経緯と言ってもたくさんありすぎて 特別な事ではないので、思い出せないのです 実は、関係を切りたい時、謝れない人にわざと謝らずに関係を止めた事もある 両方のタイプが存在するから、世の中回ってるんでしょうね
お礼
サラッと謝る事の出来る性分、羨ましいです。 確かに、Rose-quartzさんのように素直に謝っている人がいるために、謝れない人でもコミュニケーションが取れているところはあるかもしれません。 謝る人と謝れない人のバランスが上手に保たれていれば、皆が幸せになれるのかもしれませんね。
何度もあります(笑) 仕事上、プレイベート、恋愛相手、夫婦間、etc……。 自分の誤り(「思い違い」「いたらなかった部分」「見識不足」も含めた広義と捉えます)を認めることは 誰にとっても辛いことだと思いますが 人間には、生きている限り、少々の勘違いや思いこみ、知識不足は 日常茶飯時的に起こるわけで、 「誤る」こと自体は何ら悪いことだと思いません。 自分の「誤り」に気付いたら素直に認めること、 そして、相手がいる場合は、 その相手に「自分が誤っていたことに気付いた」事実を 卑屈になることなく伝えることが大切かと思います。 その後で、どこが誤っていたのか、何故誤ったのかについて 考えていけば良いと思います。 (↑私の高校時代の恩師が身を以て教えてくれました) 「そこに至るまでの経緯」はごめんなさい。自分の匿名性を破らないと 書き込めない内容になりそうなので省かせてくださいね。
お礼
とても誠実な方なのですね。 率直に誤りを認める姿勢、羨ましく思います。 私は卑屈にはならず、誤った事実は認めますが、それを「相手を認める」という形で表現しないところに問題があるのだと思いました。 こうして平静な時には、素直に相手の方を認められるのですけど…。
ありますけどなかなかハッキリとは相手に対して白旗をあげられないですね。 「君子は豹変す」といいますが、私は君子と呼べるほどの徳や人格が出来てないので「そう言われればそうかもしれない」という風に婉曲的に誤りを認めるのがせいぜいでしょうか(笑) でも自分の考えに固執するタイプではないので、意思表示の際には抵抗があっても、誤りを受け入れたり、別のより妥当と思える意見に乗り換えたりすることにはあんまり抵抗がありません。
お礼
アドバイスありがとうございます。 私も徳の高い人間ではないので、白旗をあげにくい気持ちわかります。 私は思考しているときに、一種の興奮状態になっていて情緒不安定な気がします。 そういう時には、認めることは認めますが、謝るという形ではなくて、「~なんだね」と事実確認で終わってしまうところがあるんですよね。(考えるので手一杯になっているのかも) きちんと相手の方を認めた方がコミュニケーションが円滑になることは頭では理解していても、なかなか難しいです。
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お礼
そうですね…。気が付いた時に考え直すかどうかは、1つの節目ですね。 『相手を認める』はケースバイケースで、必ずしもそうする必要はないというのはわかっていたつもりでしたが、 苦手意識から拘っていた面はあったかもしれません。 『相手を認める』に拘りすぎると、いわゆる宥和型と受け止められて、私がどんな考えを持っているか分かりづらいと思わせてしまうのかもしれませんね。 #5の方のように、感謝を表しても良いですし、認め方にはいろんなやり方があるのだと考えさせられました。 バランスが大切なのだと思います。