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文学と芸術の研究にはどのような社会的意義があるのか
- 大学の研究は学問的意義だけでなく、社会的意義も必要であると考える。
- 文学と芸術の研究には学問的意義があるが、社会的意義が不明瞭である。
- 個人の趣味としての文学と芸術の研究と、大学での研究の違いについて疑問を抱いている。
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>社会にとって意義がないと、それは個人の趣味にすぎない ということですが、厳密な定義を教えてください。「社会における意義」がどの範囲で、客観的に提示できるのかに私は興味がありますので。そしてどこからが一体個人の趣味であるかも合わせて示していただければ幸いです。 というのは、専門である自分にとっても重くのしかかっている問題だからです。僕は逆の発想で、多くの人間にとって社会的意義があるからこそ、国家がこれを保護している、という立場に立つものです。ではこの場合、社会的意義とは何か? 僕はシンプルです。それを必要としている人が多くいて、需要と供給が働いている、ということです。つまり、本を読んで感動し、その根源を知りたい、学問をしたい、そのためにお金を払う、という人がいて、よいでしょう、ではこういう可能性はどうでしょう、という知の提供者が充実している空間が大学である。よってここに経済が成立し、社会的意義が発生しているということです。よって国家は社会的観点からこれを保護しなくてはなりません。 ちなみに、文学・芸術を学ぶ人が少なくなって、文系の予算は年々削られ、教員のポストもなくなっています。ということで経済が成立しなくなり始めております。ということは社会的意義が失われていっているということです。ですが、文学・芸術が衰退した国家はいったいどのようなものでしょう? どのようにお考えでしょうか? そこに国家が税金を投入するのは、ある程度は、守られてもいいような気もします。個人的な感想ですが。 個人の趣味との境界は、なかなか難しいですが、趣味は利益を生み出しません。「知」を研究によって溜め込み、それを例えば学問という形で、授業料を払っている大学生に提供できれば、それは経済が成立しているので、趣味ではなく、歴然とした学問的職業です。また、どんなに優れた研究をしても、それを公的に発表しなければ、それは個人の趣味に留まります。その研究に対する需要と供給の関係が働いていないからです。 どうぞ、あなたの定義をお聞かせ下さい。
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- jojo-jojo-jojo
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>研究の意義が明記されていないことが多いように思います。 そのとおりだと思います。僕はこの質問をきっかけに、自分なりに、ものすごくその意義を考えてきました。文学、芸術研究は、あまりにもその学問的根拠を、提示できていない部分に問題があるように思います。なぜそのような事態を生んでいるのか、いまのところ僕にはわかりません。この先、文学者の端くれとしてずっと考えなくてはならない問題でしょう。 自分も文学の社会的意義について、同僚に問うたこともあります。しかし、その問題はいわば文学研究者にとって禁句、あるいは禁忌の領域です。研究補助費が少なくなっても「少なくなっているねえ」で終りです。「そうだねえ」で終りなのです。かといって、では現状をどのように打開すべきか? ほとんど誰もその答えは持ち合わせてなく、おそらく芸術分野研究はこのさき、どんどん削られていくでしょう。これはたとえば文学研究がいわば、社会にとって不毛なものではないか、と大衆に認識され始めた近代(中世までにはおそらくそういう問いすら存在しなかった、なぜなら文学とは貴族・宗教者など識字者たちの特権的な所属物であったため)から「社会と文学」について、その大衆に、文学者たちが、あるいは貴族的な自意識から説明を怠ったツケが、とりわけ日本社会において顕著になってきているのではないかと思います。 坪内逍遥から始まった本格的な文学研究(この時代からすでに文学者は実学を重んじる福沢諭吉らによって軽蔑されていました。慶応大学には当初文学部はなかったのです。『学問のススメ』に「文学は学問じゃない」とはっきり書いてあります。なのにいまの慶應には文学部があります。おかしな話です。別に慶應を批判しているわけではないのですが)は夏目漱石の英国派遣などを通じて、アジアでも類を見ないほど豊かに進んでいきます。ご存知ですか? 日本における文学研究は世界でものトップレベルにあると言う事を。外国の文学研究の参考文献に、アジアでは日本人しか載っていないということが多々あります。これを誇りにすべきことだと思いませんか? 150年かけて、日本は豊かな文学者を生み出し、文学研究をはぐくんできたのです。もし知らなければ、それは確かに日本の文学者の怠慢でしょうね。世界的に有名な文学者を日本は輩出しているのです。あるいは村上春樹のように世界的に評価されている作家さえ、「どのように世界で評価されているのか」については知らない人が多い。これも研究者の怠慢かもしれません。(しかし「我が日本はアジア、世界において類を見ない学問成果を成し遂げている」というのはいささか国粋主義的傾向があるように僕にはおもわれるのですが、どうでしょうか。理系のように論文の引用点数で大学の価値を決め、「東大は世界で~番です」「京大は~番です」という数値化できるものが文学にも適応されるとしたら、日本の大学は文学部においてさえも高水準ですが、そんなことをおおぴらに言う文学者はその人格を疑われること間違いない、というのが大体の認識です。) しかし、です。文学者は全員が全員、のんびりとしていたわけではないのです。 ある一人の作家が一生をかけてたどり着いた深き精神的地平に達する喜びと共にその報告をできる誇りこそ、文学・芸術分野なのです。そして唯一、芸術・文学研究のみがその精神と「魂」(美的感受性、とも申しましょうか)を「非ドグマ的に」研究できる学問です。 人間の精神を科学的に分析するのは例えば心理学が、神のもとに研究をするならば宗教学・神学が、あるいは自然と宇宙、人間という枠ならば神秘学が適応されますが、ほとんど残りは文学と芸術に託されているというわけです。 つまりその範囲があまりにも広大で莫大、研究のアプローチも社会学的、心理学的、歴史学的、神学的、神秘額的、宗教学的、哲学的、そしてその複合としての文学的と、もはや手に負えないといっても良いくらいの数々のアプローチの仕方があります。 文学は、およそ文字によって書かれたものを解読するときに生じる諸問題を取り扱う学問領域です。それがさまざまな学問的アプローチによって「読解」されていく作業です。そして究極的には人間の精神と魂の起伏を探求するわけです。 芸術、ここでは絵画とかなり狭めますが、およそイメージによって形成されるものを取り扱う学問領域です。 つまり、文学(にこの先は限定させていただきます)が社会的意義を持つかという問いに対して、いや、そのまえに、「文学とは何か」について問う必要があったのではないかと、僕は考えました。文学とは何か、という問いに対して、それが社会を形成している我々人間の感情なり、精神の推移などをさまざまなアプローチで探求する学問だと答えれば、それは一つの示唆になるのではないか、と愚考した次第です。 そしてどのような本を読んでいらっしゃるかわかりませんが、シェイクスピアから始まって、フロベールやカフカやドストエフスキーやプルーストなどの深遠たる文学の世界を知った者であるならば、それを一生をかけて探求しようと言う人間に向かって『「それは意味があるのか」という問いが発せられるのか』、という問いを、あるいは自分に向かって投げかけるのでした。 ここまで考えると、いや、それに触れた事のない人間は、おそらく『文学など不毛な学問である』という結論を導き出したとしても仕方がないのではないか、という結論にも達しました。 そして村上春樹の言葉を借りるならば、全人口に対して「およそ5パーセントの人間」がその意味を理解し、必要としているので、決して学問としても衰退はしないだろう、と考えるわけです。 そしてその態度が思念的かつ抽象的な研究に陥り、「象牙の塔」に閉じこもっているのだ、という批判を招く結果になっていることも再確認します。 そしてそれになお反論し、「どの学問分野でも優れた研究は一握りのものである」という常識的観点から申し上げれば、高度な文学研究は、確かに存在するのだ、と断言できます。 そしてその高度な文学研究が社会的なリターンを伴うのか? という問いに対して、無形的に伴うものである、すくなくとも、人間精神を物語の力を借りて理解する人間たちには、といいます。 例えば400年にわたるシェイクスピアの研究者、あるいは1000年にわたる紫式部の研究者たちの努力によって、我々の手元に、いま当然のように存在しているテクストが支えられてきたのだ、いるのだ、これからも存続していくのだ、と、文学者たちに僕は敬意を払う者です。 シェイクスピアの文学がなくても我々人間は生きていける、だから燃やしてしまえ…焚書といいますが、それは人間の魂の殺人とまで言います。「本を焼く人間はいずれ人を焼くようになる」というハインリヒ・ハイネの言葉を借りるまでもなく、歴史が、例えばヒトラーが、それを証明しているのです。 我々文学者は、この魂の殺人から、不断の努力によって守る義務を少なからず持っています。それは社会的意義というより、むしろ使命なのかもしれません。人間が歴史(歴史とは、考古学とは少し異なり、文字によって文明が発せられたところからスタートするものとします)に刻み込んだ、精神の営みから生み出された文学の傑作を、守り通さなくてはなりません。 なぜ、しかし、守らなくてはならないのか? それは文学が人間の存在の根源に関わっていると考えるからです。よって次の問いが成り立つ。「我々は文学から何が学べるだろうか?」 例えばシェイクスピアやドストエフスキーの悲劇から、彼らたちが抱え込んだ人間存在としての苦悩、悲しみ、怒り、あるいは矛盾、あるいは生きる喜び、魂の叫び、それらをリアル以上にリアルに提示される。あるいは提示できるものとしている。時代が変わっても人間の抱える苦悩は根源的に変わっていないことを教えてくれます。時代の衣をまとっているだけです。このことを理解していただけますか? 最後に参考文献を挙げておきましょう。入門者用に筒井康隆『文学部唯野教授』、文学研究入門にテリー・イーグルトン『文学とは何か』の二冊です。文学研究がどのような歴史をたどっていったかを知るためのものです。文学研究なんて社会にとって不要ではないか、という問いにおよそ100年前から、文学者たちがその問いに答えようとしていたことがわかると思います。筒井康隆のこの小説はいささか問題があるものの、文学部生が難解な文学理論を学ぶための入門として取り扱われます。 ということでいかがでしょうか。我々の(といわせていただきます)問いは核心に近づきつつあるように思われます。
お礼
おそらく、(少なくとも文学は)簡単には理解できないものであることはわかります。また、人間の精神性は普遍的なものであることも理解できます。 しかし(これ以上はあまり建設的でないと思いますが)なぜ研究の意義を問うことがタブーなのか、よくわかりませんし、そういった慣習そのものが衰退(=国家がスポンサーとならない)へのとつながっているという思いを強くしました。 いくら優れた研究報告であっても、説明できなければただの紙切れである、という思いを強くしました。それは文学に限らず、各種の研究領域でもです。その意味では、小生も大変示唆を得ることができました。本当に何度も感謝いたします。
- jojo-jojo-jojo
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いえいえ、失礼でも何でもありません。なぜならば、これは我々(おそらく議論にすらならないといって逃げているだろう専門家)が真剣に向き合わなくてはならない問題であるからです。あなたのおっしゃるとおり、文学研究の意義はどこにあるのかを、僕自身がしっかり考えたいと思っているのです。 >在野ですばらしい方々がたくさんいるではありませんか。 一体どなたのことをおっしゃっているのかわかりません。具体的に誰でしょうか? その方は本当に自分だけで研究されており、学術的に貢献されているのですか? 文学批評家と文学研究者は似てまったく異なります。例えば、どなたですか? >しかし、国が予算を削減する以前に、そのような現状を生み出す怠慢はないのか これは本当にそのとおりなのです。怠慢以外何物でもない。しかし、です。理系だってどこだって、それは現状として同じだと思うのです。怠慢でないところもあるし、怠慢であるところもある。しかし研究成果はそんなにすぐに出来上がるものではありません。 「文学・芸術が衰退した国家はいったいどのようなものでしょう? どのようにお考えでしょうか?」 私はこう答えます。精神の非常に乏しい人間が跋扈し、想像力の欠如した人間が、実益だけを重んじる世界へとなるのだと。じっさいにいま、そうなりつつありますが。 さて、しかしそれとはべつに、国家の税金投入の妥当性が問題でしたね。どうもあなたの「文学・芸術とは何か」の問題になってきそうです。哲学をよしとするのならば、文学のどこが問題となるのか。もしかして文学研究を「読書感想文」の類とお考えなら、私はもはや答えを持ち合わせておりません。そういう研究が確かに存在する事実はありますが、どの分野でも同じことです。高度な文学・芸術研究は「人間の精神性」を深く追求する学問です。文学の専門書を読んで理解するのには、相当の学習と理解力を必要としますが、それに見合う人間精神の奥深さを知ることができるからこそ、文学・芸術研究がやはり残っていると思うのです。お聞きしますが、文学・芸術研究の実態はどのようなものであると思われますか? 何度も何度も回答をして申し訳ありません。しかし、この問題は、繰り返しますが、我々…私には決して避けて通れない問題なのです。相応しい回答であるか自信が持てませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
お礼
たびたびの回答の感謝とともに、お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。 どうも文学研究について、わかるようでわからない、少なくとも自分の理解が至らなかっただけと思ってもいいかなというのが現状です。正直音楽や絵画等芸術分野についてはまだ理解できません。 小生門外漢ですので実態について、専門家のjojo-jojo-jojo氏に意見できるものではありません。小生も研究論文を目にすることが多い仕事ですけれども、文学や芸術分野には、研究の意義が明記されていないことが多いように思います。それがこの質問というか疑念のきっかけでした。 人間の精神性を追求するとのご指摘は、なるほどとも思いましたが、ある作家や作品を取り上げることの必然性にはないと思っています。「読書感想文」とまでは言いませんが、どう好意的に読んでも意味が見出せない研究というものがあまりにも目立っていたということなのです。そういった研究の必然性の不在やわかりにくさが、小生の質問・疑念を生み出したのだと思います。
- jojo-jojo-jojo
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「知」を積み重ねていくために、どれほどの時間とお金が必要かご存知でしょうか。若いときはほとんど寝ずにそれに時間を割きます。奨学金などをもらったり借金をしたりしつつ、研究を重ねていきます。カルチャースクールでいったいどれだけのそれに見合う「リターン」がその人にあるか、僕も知りたいところです。 >国家繁栄に絡むそれ相当のリターンがあること 一体いくらの額を提示できればそれが「そうとうのリターン」ですか? 例証しなくてはならないのなら、それはほとんど不可能ですね。時間がなさ過ぎます。簡単に言えば、「人には等しく美徳を享受したい」という本能があり、これの内的欲求に答えるために、外的な「資料」が必要ですが、この資料を作るのに莫大な経費がかかっております。特に文学においては「「物語」を人間すべてが抱いており」、この物語の解析が科学的にもいかようにもアプローチ、アクセス可能となっています。大学人は研究により、優れた文学を、どのように優れているかを提示し、それによって文学を保護しなくてはなりません。その結果、社会にはそれによって間接的なり直接的なりの影響を受けて、出版社や作家の創造の主体になっている。例の一つですが。 >定義といわれても厳密な説明には時間が必要 ここでリターンについて答えられないように、我々にも時間が必要なのではないでしょうか。 >素人に説明できなければ、個人の趣味と揶揄されても仕方がないと思いますし、それがその学問の弱さなのだと感じています。 そのとおりだと僕も思います。どんなに素人の方に説明しても「一体それがどんな役に立つのだ?」といわれて説明し、失礼ながら理解できる教養がない方には、何の役にも立たない学問であることはまったくの同感です。これは「文学が役に立たない」という意見から離れようとはしないからです。たぶん、一生かかっても無理だろうな、と思います。だって専門である僕にさえ懐疑的であるからです。文学は社会の役に立たないのではないか? でもいいましょう、この世は文学以外の何物でもない。あとのものは付け足しに過ぎない。 しかし文学はそうやって後ろめたい思いをしながらごそごそと研究し、税金の無駄遣いと後ろ指を差されながら生きてゆくのです。迫害的強迫観念の元に、素晴らしい研究が生きて行くのです。理系分野でどんどんくだらない研究のせいで文系をはるかに超える税金の投入で、一体どれだけのリターンがあるか、僕も知りたいところです。 しかし文学は古代ギリシャから西欧社会においてずいぶんと国家に保護されてきたはずですが…先進国で日本だけでしょうね、こんなに予算が削られているのは。 ちなみに僕の言うリターンとは「知の蓄積」であり、誰もが自由にそれをアクセスできる状況を生み出すこと(大学・研究機関)が社会への莫大なリターンだと思っています。これを管理し、かつ集積するのは、カルチャースクールという機関では不可能です。ただし、大学がカルチャースクール化している事実も一方であり、学者が嘆いているのもまた事実です。 ということで、あなたのおっしゃるとおり、今後は大学の税金投入をやめ、文学部は廃止し、すべてカルチャースクールで文学を趣味として学ぶべきかもしれません。ただ単に、優れた研究者は海外へと流出するだけの話ですね。何も損はないような気もします。 でももう一度これだけ、お聞きします。 「文学・芸術が衰退した国家はいったいどのようなものでしょう? どのようにお考えでしょうか?」
お礼
失礼な質問におつきあい下さって感謝します。 小生、文学部が不要とは言っておりません。文学部に存在する学問のうち、一部には意義を認めています。例えば、哲学は「何だかよくわからない」と指摘されますが、学問の根幹を担っている部分があり、哲学を避けて他の学問の理解には至らないと感じます。 では文学や芸術はどうか。 無理に大学院等で勉強せずとも、在野ですばらしい方々がたくさんいるではありませんか。その方々は大学を経ずとも、研究費がなくとも、すばらしい研究をしています。 完全に不要だ、無意味だというつもりは全くないのです。門外漢の小生が至らないばかりに、理解できないだけなのでしょう。しかし、国が予算を削減する以前に、そのような現状を生み出す怠慢はないのか、ということです。 最後に、「文学や芸術の衰退した国家」について。過去にそれが現実になったのでしょうか?どんな時代であれ、貧しくとも戦乱にあっても、人々の生活にそれらは残っていました(記録になくとも)。ですから、あり得ない話だと思いますし、想像すること自体に意味を見出せません。むしろどのようにお答えになるのかお聞きしたいところです。
- sakura4531
- ベストアンサー率12% (2/16)
人文諸科学に対する批判としてよく聞く質問だと思います。 一般的に文学や芸術は、人生に対して深みを与えてくれますね。 人間を理解するための基本的な想いや感情、価値観等について、とりわけ前者は言語的な極限を目指し、後者は未言語的な表現の極地を目指すものであると理解しています。 そして、それらの存在は、過去、現在、未来に渡り、人がある時代の社会制度や科学的技術をどのように捉え、またそれらによってどのように規定されてきたのかを示す重要な参考資料にもなり、それを通して現代を照射しうるものでもあるでしょう。 文学や芸術の研究は、そのようなトピックを焦点化し、提示する作業に従事しているのだと個人的には思います。それが広い意味での社会的意義であると思います。 私は、直接目に見えるもの、役に立つものだけを社会的価値があるものとは考えていません。それらの土台を形成し、あるいは土台自身(パラダイム)を見据えた大局的な研究も意義あるものと考えています。 もちろん、どのように婉曲的に捉えてもどう役立つ可能性があるのかすら理解できない研究も存在しているのも事実だと思いますが。
お礼
ありがとうございました。 小生も、確かに直接目に見えるもの、役に立つものだけが社会的価値を有するわけではないと思います。もちろん、芸術や文学作品を否定するものでもありません。 でも、文学や芸術分野の研究者が、あえて大学等研究機関を設置してまで、例えばある作家や作品を提示する作業をしなければならないのか、その必要性や意義を社会的に十分に説明しているとは思えないのです。 > どのように婉曲的に捉えてもどう役立つ可能性があるのかすら理解できない研究も存在 研究能力の如何にかかわらないのだとしたら、そのような研究が存在する事自体、社会的意義がないことを象徴しているような気がしました。
- jasko
- ベストアンサー率24% (478/1966)
実はそこに純粋な学問があるのですよ。 外国の偉い学者さんがどこかに書いていましたが、 理系や工学系のスポンサーと直結して功利を生む学問は 利潤を追求する為の研究であり、 スポンサーがある限りは学問の自由がないのです。 スポンサーを優先するあまり、研究者は 学問的良心を平気で捻じ曲げてしまうのですね。 薬害エイズ問題や耐震構造疑惑には 最高学府を出た博士号の持ち主が絡んでいるわけですよね。 社会的意義の捉え方「功利」と考えるのはだけでは 文化は育たないのですよ。文明は便利だが文化ではありません。 文化は尊重し、守るだけではなく、新しく作っていくものでもあります。 文明と文化の違いを考えてみてください。
お礼
ありがとうございました。 おっしゃる内容もわからなくはありません。でも、趣味としてエッセイを書いたり演奏活動する方々への応援であればいいわけで、あえて学究的存在をおく必要があるのかまで理解することができませんでした。そもそも純粋な学問などあり得るのでしょうか。
補足
需要と供給のバランスから指摘されているのですが、知的生産物を提供できるなら、カルチャースクールで十分です。講師は講演謝金はあっても、その知識を生み出すための資金は個人持ちです。 大学では研究費や研究室という資源を利用して、知的産物の創出と公開が求められています。そこに税金が絡むなら、国家繁栄に絡むそれ相当のリターンがあること、あるいは個人レベルでは追求できないことを説明しなければなりません。私は文学や芸術分野のリターンが何か、カルチャースクールや趣味とどう異なるのかを知りたいのです。 文学や芸術が不要であると思っているのではありませんが、どんな趣味も完全に消滅することがないように、少しずつ変化しながら必ず残っていくはずで、完全に無くなることは考えられません。 定義といわれても厳密な説明には時間が必要なのですが、「リターン」の説明ができない学問領域を国家が保護できないのは仕方が無いと思うのです。そして文学や芸術の多くの分野は、それを説明しきれていないとも思うのです。 それは他の領域で、社会的意義に直結するとは限らないが基盤となる意義を有している基礎研究であっても、素人に説明できなければ、個人の趣味と揶揄されても仕方がないと思いますし、それがその学問の弱さなのだと感じています。