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外国人の異宗教への意識

外国人の異宗教への意識は一般にどうなのですか? 異宗教遺跡への観光などにたいして、抵抗感があるのですか? 宗教による戒律の違いなどで意識は違うのでしょうか? 私が体験した例ですと、タイでは西洋人が普通に観光していました。仏教遺跡観たり写真撮ったり普通に。 また、日本に留学していたアフガニスタン人は、神社の鳥居は決してくぐろうとしませんでした。

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  • wellow
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回答No.6

仰られている例で言うと、 西洋人は他宗教施設を「観光地」として楽しみ、本に留学していたアフガニスタン人は「他の宗教施設」として避けていた ということです。 ムスリムは宗教的シンボルを「偶像」として忌み嫌います。敬虔な人ですと、特にその傾向は顕著でしょう。 他方、タイの仏教寺院で見る西洋人は、恐らく西洋人でも理解できる宗教的タブー(土足で寺院に入らないとか、肌の露出の大きい服装で行かないとか、果ては敷居を踏まないとか)にさえ、全員ではありませんが、注意を払っていないようには見うけられます。まぁ、これは日本人も同じですが。 他宗教を軽視しているか、重視しすぎているかだけのことでしょう。傍で見る分には、日本に留学していたアフガニスタン人の方の方が清廉に思えます。

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  • mn214
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回答No.5

外国人だからどうこうというよりも、人によってその人の信じている宗教によって違ってくるのではないでしょうか? >日本に留学していたアフガニスタン人は、神社の鳥居は決してくぐろうとしませんでした。 別に外国人でなくても、日本人でも例えば創○学会の熱烈な信者さんは他の寺社には入らないようにしますよ。 キリスト教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、仏教徒であろうと皆が一括りに同じ考え方、同じ行動をするものではないと思います。 その人の信じる宗教、宗派の教えやその人自身の信仰心のあり方によって異なると思います。

  • Geelong
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回答No.4

個人の宗教に関しての関わり、考え方によって違うと思いますよ。 私はキリスト教系のミッションスクールに通っていましたが、生徒の中にはイスラム教徒やヒンズー教徒、仏教徒などがおり、熱心なイスラム教徒の子などは教会には絶対には入らなかったですし…でも他のイスラム教徒の子は聖歌隊にも入ったりして…普通にキリスト教徒を受け入れていました。 アフガニスタンのバーミヤン遺跡などは…イスラム政府によって仏教遺跡だからイスラム教にとっては悪だと言って爆破したのも同じようなものだと思います。 最近は文明がごっちゃになって、心も豊かに戦争も少なくなったので異教に対して昔のように敵対感が無いと思います。

noname#118466
noname#118466
回答No.3

一神教の人々は多神教の人々に較べて批判的に見たり、距離を置く傾向があります。しかし、そこへ足を踏み入れたくないという人は教養がないか狂信的な人で例外に属します。 多くの外人は他国の宗教施設に敬意を払い、古いものなら芸術的に鑑賞する目を持っています。仏教徒は多神教に近いので他国の宗教施設などに寛容ですね。 しかし、例えば江戸時代の庶民ならバテレンのお寺などには行きたくない、興味がないという反応を示したかもしれません。 宗教を語るとき外国人だからという発想は適切ではないと思います。日本人と外国人という比較は出来ません。外国には3000にも及ぶ民族がおり、190カ国があり、多数の宗教があるわけですから。

  • ryur1000
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回答No.2

 私自身詳しい方ではないのですが、異宗教の遺跡への観光には抵抗感は無いと思われます。実際、アメリカ人を東京観光に連れていった際、明治神宮を案内しました。アメリカにはこのような公園形式の寺院や教会は無いらしく、「すばらしい」と言っていました。また、最近では座禅をする外国の方も増えているという話をよく聞きます。  仕事上のつきあいのある韓国の方に話を直接聞いたわけではありませんが、テレビのニュースを見る限り、日本の神社に関し、一般的に韓国の方は良い印象を持っておられません。むしろ、怨恨の念を持っておられる模様です。実際、第二次大戦中に日本は韓国に精神的にも肉体的にも被害を与えたのですし。

回答No.1

「外国人」と一括りにすると答えるのが難しいですね。それぞれがあまりに違うので、一般化できない問題かと思います。 宗教(宗派によっても違う。場合によっては戒律)にもよりますし、そのお国柄にもよるでしょう。 また、その方の信仰の熱心さによっても違うのではないでしょうか。