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地動説は天動説に勝ったのでしょうか?
地球が太陽の周りを回っていると解釈してもいいし 太陽が地球の周りを回っていると解釈してもいいのではないでしょうか? 例えば自転車をこいでいて電信柱にぶつかったとき、 「動いている自転車」が「止まっている電信柱」にぶつかっていったと解釈してもいいし、 「動いている電信柱」が「止まっている自転車」にぶつかっていったと解釈してもいいはずです。 すべての物質は「自分が静止している」と主張する権利があるはずです。 つまり地動説も天動説も両方正しいはずです。 しかし、世の中では地動説が勝った事になっているようです。 これはどうしてなんでしょうか? 僕の言っている事にどこか間違いはありますでしょうか? よろしくお願いします。
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- eporo500
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確かに、あなたの言う事に間違いはないようにも思えます。 現実にこの世に存在していると信じて生きている私たちですが、実は誰かの夢の中の存在で、その人の夢の中の主人公的役割の登場人物に過ぎないのかも知れない。なんて歌うチャゲ&飛鳥の昔の歌もありました。また、意識のみがコンピューターのなかで存在しているだけで、その中に存在する環境は全てプログラムとして構築されていただけの作り物だった、という映画もちょっと前にありましたね。 自分という存在がこの世に存在しなければこの世を知ることも無かったし、自分が死んでしまえばこの世との関わりも無くなってしまう。と考えて物事の全てを自分中心に捉えていけば、 動いている電信柱が止まっている『自分の運転する』自転車にぶつかっていった と解釈してもいいはずです。同様に 太陽(やその他の天体全て)が『自分が住んでいる』地球の周りを回っている と解釈してもいいのです。 ただしこれには、『自分』と電信柱(或いは太陽やその他の天体全て)だけの関係のみにしか注目しない限り、という限定が必要です。 第三者の目が入ると事情が違ってきます。 つまりこれらの事象を観測する者です。 あなたの目の前で誰かが自転車に乗って電信柱にぶつかっているのを見たとします。その時、どう見えるかが重要です。電信柱が自転車にぶつかっていったのでしょうか・・・。あなたが自転車で電信柱にぶつかったとき、それを見ていた人の目にはどう映るのでしょうか。 確かめるのはこれだけ科学的に発達した現代でも不可能ではありますが、太陽系から充分離れた場所で観測を行えば、きっと地球が太陽の周りを周回しているのを確認できるのでしょう。 地動説が揺ぎ無い事実であるのは、私たちのずっと先祖の中に、地動説を発見して何一つの矛盾も無く証明して見せた人がいたからです。地動説を否定するには、何か一つでも矛盾を発見すれば良いのですが、矛盾がどこにも無いのです。 第三者的な観測者の立場の目で見る、という考え方が重要だということです。
- argue
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>僕の言っている事にどこか間違いはありますでしょうか? そもそも、どうして貴方は数ある観測対象のうちのひとつに観測者を固定しちゃうんですか? そりゃ、地球から見れば太陽が自分の周りを回っているように見えますし、その逆もまた然りですよ。ただし、観測者を太陽、地球以外にして物理的にこの動きを記述する場合、「地球が太陽の運動にあたえる影響」は「太陽が地球の運動に対して与える影響」に比べて非常に小さいため、前者を無視して考えることになります。 (違和感があるかもしれませんが、この「影響の小さなものは無視する」という考え方が物理では重要です。小さな影響を考慮しすぎると、それこそ地球上の人間とか何光年も離れた星の影響まで考えなくてはいけません。) そうすると、あたかも地球が太陽の周りを回っているように見えるわけです。 貴方の言う >地球が太陽の周りを回っていると解釈してもいいし >太陽が地球の周りを回っていると解釈してもいいのではないでしょうか? というのは観測者を地球、もしくは太陽に置いた場合(つまり、どちらかを完全に固定した場合)の話で、仮に地動説の立場から惑星の動きを記述する場合、天動説のそれに比べるとそれはもう絶望的な労力が必要になります。 >しかし、世の中では地動説が勝った事になっているようです。 >これはどうしてなんでしょうか? 「勝った」という言葉を「見方、考え方として、そちらのほうが一般的」という意味であれば、地動説のほうが考え方が簡素だからですよ。 別に観測者や考え方が違うからといって、現象そのものまで変わるわけではありませんので、記述などが簡単になるほうがいいに決まっています。
- N64
- ベストアンサー率25% (160/622)
あのアインシュタインも、どちらが動いていて、どちらが止まっているのか、判別できない、と言っています。でも、それは、慣性系、すなわち、等速で直線運動をしている、もの同士の間でのことです。星の周りを回るということは、もう等速直線運動ではないのです。お互いの重力で、影響しあって複雑な運動をしているのです。
- chuuchuu07
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全くの初心者で申し訳ありませんが…。 確かに自転車が等速運動しているならば成り立つと思いますが、自転車をこぎ始めたときや、途中で速さが変わると自転車には力が働きますから、その力が加わるのは自転車に乗っている人だけになります。でも電柱は力を感じません。 ニュートンの運動の法則にも出てきます(F=ma)。他にもアインシュタインの相対性理論でも出てきます。 地動説と天動説はNo5さんの意見だと思います。
- tadys
- ベストアンサー率40% (856/2135)
ガリレオの時代の天動説ならば確実に間違っています。 例えば、遠くの星は光速以上で動くことになります。 そこまで行かなくても遠心力の影響でその場に留まることは出来ません。 >すべての物質は「自分が静止している」と主張する権利があるはずです。 これはある程度正しいと言えますが、自由に主張できるのなら一番簡単なものを選ぶのが正しいやり方です。 月にロケットを送る場合ならば地球を基準にすればいいのであって、火星を基準に選ぶのは間違いです。 小惑星にロケットを送るのであれば太陽を基準にするのが正しいのです。
- gulgul
- ベストアンサー率33% (56/166)
物理学には門外漢なので、変なことを言ってたら申し訳ないのですが、 地動説が出てきた背景というのは、つまり、観測結果と合わない、ということだったのではないかと。 「解釈」「権利」など、どう考えてもよいとは思いますが、 そう考えることの実益は何か、ということです。 地動説に沿って考えると、観測結果によく適合して、予測にも役立つということではないでしょうか。
- enigma88
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「動いている電信柱」? 電信柱が勝手に動いたら、いたるところで電線が切断されているはずですが・・・ 「止まっている自転車」? 自転車を漕がずにじっとしているだけで、どこでも好きなところに行けるということですか?
- Kon1701
- ベストアンサー率24% (1445/5856)
”狭い範囲で運動”を考えるとき、何を基準にするか、によって表現が変わってくるのはそのとおりでしょう。たとえば一定速度で走行中の電車の中でのボール投げ。電車の車内での運動を考えた方が良い場合もあります。地球上での運動もそうですね。 では、天体の場合は? 宇宙には絶対的な座標はまだ定義がないですが、太陽と地球の公転(太陽系程度の範囲)を考えた場合、太陽の動きよりも地球の動きの方がはるかに大きいです。やはり、地球が太陽の周りを回っている、と解釈するのが自然ではないでしょうか? 柱時計の振り子をみて、振り子の周囲で時計が揺れている、と考えるのはやはり不自然だと考える人が多いでしょう。 また、物理の法則に勝ち負けの表現は不適当だと思います。
- bullfrog
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あなたの言う天動説が正しいとして、天体がそのような複雑な動きをする理由がつきません。物理法則に照らして、それは不可能なのです。 それに対して、地動説については天体がそのような動きをする理由がはっきりわかっていて、物理的に軌道計算ができ、その軌道のズレから未知の天体を発見することさえ可能になっています。 物事を相対的に考えるということは素晴らしいことですが、逆もまた真とは限らないのです。
- ipa222
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間違っていますよ。 太陽(だけでなく全宇宙)が地球の周りを回っているという状況ではありませんから。 地球は自転も、公転もしていなくて、静止していて、全宇宙がきわめて複雑な動きをしているとは、とても言えません。 自転車をこいでいるときに、その自転車は静止していて、地球がその自転車に近づく(又は遠ざかる)と言うためには、膨大な複雑な運動をしているということを証明しなければなりませんが、不可能でしょう。