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花(桜)とは?
良く『花は散ってこそ花』等など聞きます。 昔の武士の潔さ等を言い表しているのだと思いますが、散ってしまう寂しさはどうなるのでしょう? 確かに散り際の桜の美しさは素晴らしいものです。ですが、散る為に咲き誇るなんて悲しすぎるとも思うのです。 やはり花は『散ってこそ』なのでしょうか? 『咲いているのが花』なのではないでしょうか? 質問している自分も何が聞きたいのか良く分らないのですが、是非教えてください。
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私も何を答えればよいのかよく分かっていないのですが。 生花と造花を比べてみればどうでしょうか。 私は造花を見て「よくできているなあ」と感心することはあっても、その美しさに心を奪われた経験は今までになかったように思います。 でも生花には蕾の頃、満開の頃、爛漫の頃、散った後、それぞれに美しさを感じてきました。 散ってこそ花、散らずに咲き続ける造花は私にとっては所詮心をゆさぶる存在になり得ません。 人間も同じこと。死というもの終わりというものがなければ、一生懸命生きることもなく、一生懸命生きることからにじみでてくる美しさもうまれてこなくなるのではないか。 我ながら陳腐な文章になってしまいましたが、そんな風に考えています。
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- yu-taro
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こんにちは。 >昔の武士の潔さ等を言い表しているのだと思いますが、散ってしまう寂しさはどうなるのでしょう? 武士が命を掛けるのは主君のためと家族のためです。 もともと武士は主君に絶対の忠誠を誓い、主君のためならば命を捧げても惜しくないという主君は絶対的な存在であります。 その主君は、命を捧げてくれている家臣のために、生計を成り立たせるために政治を行っていたものでした。 そして、他の勢力からの反乱があって身の危険が及びそうなときには戦いをしたことは分かると思います。 主君に忠誠を誓うということは、散ってもそれは本望であるということで、散ってしまった場合、残された家族や親類は寂しさを堪えるのですが、主君のために命を捧げた行為はむしろ誇りに思うものです。 これが武士の本望であるという武士道精神によるものです。 誰もが散ることを望んではいませんし、それは現代でも同じですが、武士の時代から、戦前の日本の兵隊がお国のために命を捧げるということにも通じています。 生きて恥をさらすよりは、お国のために見事散りますという精神を桜の花びらに例えたものでしょう。 花のことでいえば、咲いている時は誰しもがきれいだと思いますが、ずっと咲いているのではなく、咲いた花は必ず散るという悲哀を、武士や戦争中の兵隊のぶつけどころのない本心に例えたものではないかと考えられます。