社会問題のカテゴリなので、社会問題としてちょっとお固く攻めてみたいと思います。
taro-jiro-saburoさんのお知り合いの方が、そうであるかはわかりませんが、大学生にも不登校的な現象は見られます。ただし、不登校ではなく「スチューデント・アパシー」あるいは「退却神経症」と呼ばれ、通常の不登校とはいくつかの点で異なるようです。
以下は、斎藤環さん(精神科医)の『社会的ひきこもり』に記された「スチューデント・アパシー」の特徴の引用です。
*中心は大学生年齢で、男性に多い
*無関心、無気力、無感動、また生きがい、
目標・進路の喪失の自覚、アイデンティティの
不確かさを訴える
*不安、焦燥、抑鬱、苦悶、後悔などといった
苦痛感をともなわないため、みずからすすんで
治療を求めない
*自分のおかれている状態に対する深刻な葛藤がなく、
その状態からぬけ出そうという努力をまったくしない
*自分が異常であるという自覚がないわけではなく、
対人関係に敏感で、叱られたり拒まれたりすると
ひどく傷つく。自分が確実に受け入れられる場面以外は
避ける傾向がある
*苦痛な体験は内面的な葛藤などの症状には結びつかず、
外に向けて行動化される。すなわち、無気力、退却、
それによる裏切りなどの行動としてあらわす。
暴力や自殺企図などのような激しい行動化は少ない
*学業などの無関心については部分的なもので、
アルバイトには熱中するなどのいわゆる「副業可能性」が
高い
*優劣や勝ち負けへの過敏さがあり、敗北や屈辱が予想される
場面を避ける傾向がある
斎藤さんによれば、このスチューデント・アパシーからはじまって、深刻な「社会的ひきこもり」にいたる事例は稀ではないということです。ただし、他の人格的な障害や精神病と同時に発症する場合もあり、たとえば対人困難が強い場合は、強い葛藤を訴えるということです。斎藤さんは『社会的ひきこもり』の中で、スチューデント・アパシーを社会的ひきこもりと区別することは「積極的な意味がない」ように思うとしています。
このような事例に対し、「みっともない」とか「甘やかすな」とか「厳しく接するべきだ」とか「根性が足りない」など「正論」で正面切って渡り合っても意味がないのは、小中学校の不登校と同じであろうと思います。
理由のはっきりしない(つまり非行やいじめが原因でない)、現在もっとも多いか形態を持った不登校(文部科学省の調べでは半数近い)は主に戦後のどんよりした敗戦色がようやく薄らぐ昭和30年代に小学生において表れたのがはじまりだとされています。精神科医の滝川一廣さんによれば、「能力も関心も多様な子どもたちをひとつの大集団にして全員に同じ内容、同じ進度、同じ期限で一斉一律に教えていく」(滝川一廣「不登校はどう理解されてきたか」佐伯他編『いじめと不登校』岩波書店)という学校制度が先天的に方法論的に無理を抱えていたことを指摘し、同じ時期に不登校が中学生であまり観察されなかったのは、農業国から工業国へと産業構造を変化させる途中の日本において戦後導入された新制中学がその産業構造の変化の中心的回路を担っていたためだと述べています。つまり、そのような「聖性」とでも呼びたいような日本の未来への期待や夢が、当時の新制中学には託されていたため、中学校での少しの負荷や違和は「耐えるに値する」負荷や違和だったのでしょう。
今日は中学校における不登校の方が小学校より多いみたいですね。もはや中学校に夢や希望が託されなくなったということでしょう。その必要がなくなったのかもしれません。だって、日本はいまや「成熟社会」と呼ばれるようになり、復興も成長も終り、これ以上何を成長させればいいのかわからない社会になったといえます。他方で、環境問題も叫ばれ「成長の即時停止」も叫ばれています。このような社会を成熟と同時に「閉塞」的な社会であると捉える見方もあり、新しい生き方をめざす若者が担い手となり1980年代にはオウム真理教などの新・新宗教や自己啓発セミナーが流行ったとも言われています。
その意味で、大学生の不登校を社会問題と見るtaro-jiro-saburoさんの見方は、確かなものだと思います。いまや大学すらも「耐えるに値する」負荷でなくなった、ということなのでしょうか。
追伸:もし興味がおありでしたら、前述の斎藤医師の『社会的ひきこもり』はオススメです。わかりやすいし、おもしろいので。
お礼
ありがとうございます。では読んでみます。 小、中学生でも、サボり型の不登校があると思いますが、大学生だと殆どこのタイプで"退却神経症"のタイプは少なそうな気がします。でも、 >*学業などの無関心については部分的なもので、 > アルバイトには熱中するなどのいわゆる「副業可能性」が > 高い このタイプも多そう。