• 締切済み

一部の受験熱と学歴(学校歴)

この前日テレの「今日の出来事」で、中学受験のご家庭が放送されていました。それを見ていて思ったのは、 (1)中学受験は一部(富裕層?)では過熱しているのかな?ということです。お金があるから、教育にも投資が出来るし、ある雑誌では企業の幹部など(富裕層の人たち)が他の企業の方たちとの間で、塾や学校などの教育についてがよく話題に上がるそうです。これが進むことで、教育格差が生まれるという学者の意見もあるようです。 このことから、(2)彼らは、なぜ中学受験をさせるのか?ということです。なぜそこまで教育に投資するのか。色々と考えられますが、「良い教育を受けさせ、子供の力を最大限に引き出したい」と「学歴を手に入れたい」というのが挙げられます。前者が成功すれば自然と後者に行き着くかなと思います。 そこで思うのが、(3)彼らは、「学歴」をどう考えているのか、ということです。「一つの付随物でしかない」、と考えているのか、「日本社会でより上層に行くにはやはり持つべきもの」と考えているのか。「学歴の価値は必要ない」という話を聞く一方、このような受験熱が発生しているという現象は、どのように説明できるのでしょうか。 最後に、(4)教育の格差は何をもたらし、自分の子供に教育格差が発生するのならば、何か子に対して不幸をもたらすのでしょうか。 市場主義のアメリカのように(?)、国家を担うのは一部の優れた人材であるとすれば、日本でも富裕層には日本を引っ張るような人材へとなるための投資はぜひしてもらいたいと思いますが、自分のような凡人がその足となるのかと現実的に捉えてしまうとどこか悔しさのようなものが、顔を出したりもします(笑)いやそれは諦めでしかないので、努力を怠る言い訳に過ぎませんが。 皆さんどのようにお考えでしょうか?ちょっと深く考えたいと思いますので、ご意見お聞かせください。よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.20

自分なりの考えでは 中学受験については・・・  父親的には 暮らしていくためにはお金が必要。 お金を得るには働くことが必要。 そこで、多くの人は会社勤めをすることになる。 皆が皆、希望する会社に入れるわけではない。 そこで競争が起きる。 競争を勝ち抜くために、評価の高い大学に通う動機が発生する。 そこでも競争が起きる。 評価の高い大学に入るために、評価が高い高校に通う動機が発生する。 またまた競争が発生する。 評価が高い高校に通うために、評価の高い中学校に通う動機が発生する。  母親的には 早いうちに済ませておけば(エスカレーター校の場合は)母親も本人も後々苦労しない。 そして、母親が子に対して主導権を握れるのは小学生くらいまで(中学生だと精神的、身体的に成長して手に負えない。それに思春期絡んでくる)。 それに子を通した自己実現(子供は自分の分身)。 といったとことなのでは。 学歴については・・・ ホワイトカラーのサラリーマンとして生きていく上では、大卒の学歴は必須のものとなっていますね。 それが社会の共通認識だと思います。 サラリーマンにならないのであれば、必ずしも必要ではないですね。 昔先生に言われたのが、「学歴は手段。学歴が飯を食わせてくれるわけではない」です。 正直、名前も聞いたことない、評価の高くない大学を出て就職するよりは、実務系の専門学校に通って資格を取って就職するほうがマシと思ったりもします。 教育の格差については・・・ 少子化社会により、少人数に多大なエネルギーをつぎ込む教育になっていくと思います。結果、エリート教育とそうでない教育に峻別される時代がやってくる。他の方も書いているように、貧富の差の拡大や階層の固定化が考えられると思います。 駄文失礼しました。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も学歴を手段と考えていますが、そこにあぐらをかいてしまう甘さを時には持ってしまいますね^^; 大学受験はその学歴を得る小さな関門ですが、そこを目指して子に投資する親は少ししか居ない、なんて言えないかな。というか、学歴で飯が食えると考えてるのは、親だったりして?? まぁ社会をよく知る大人が、そんな甘いことを考えるはずは無いですよね^^; 教育の格差で、貧富の格差が出始めると、例えば社会保障の面で、全国民に負担が押し寄せるのでは??と考えてしまいます。今若い人を中心に年金を払えない人が多いですが、年金制度自体が崩壊して、貧しい暮らし、医療費も払えない家庭、なんていうのは例外ではなく、日本での存在の常態化なんてなるのかな??と曖昧な考えをめぐらします。「人それぞれ」であり、「自分のことだけはまず」しっかりとすれば良いのですが、今後の日本はどうなっていくのか、やっと社会に目を向けるようになってきましたので、勉強していきたいと思います。

  • overtone
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回答No.19

へい。 >overtoneさんのお子さんも、開成中は楽々だった 楽々ではありません。私は 合格ライン(当時 偏差値による判定が無かった) 小6のときに合格ラインにのったことがありませんでしたし、こどもも 偏差値が 平均だと 70を切りますので・・。 (中学受験は 精神状態や 健康状態が 大きく影響するのかもしれません。こどもは、毎日 8時間半以上は 寝ていました・・。一番 少ないときで 22:30-07:00 で寝てました。) >「なぜ開成中なの?」という質問にはどんな答えがありますか? そんなに 特殊なんでしょうか!? 私の場合は、単に (実)家が近かったからです。 上野の近所でした。 (天気が良いと学校から歩いて帰ってました。) こどもは、最初は 私が出た学校と言うことで興味を持ちました。 どちらも 大した理由ではありませんね・・・。 ご期待に沿えず、すみません。 ================== 一部の人たちかもしれませんが、自分だけがよければ となってしまっているのかもしれませんね。 憲法第十二条が 好きです。 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、 これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、 常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 です。 当たり前のことなんですが 実践はむずかしいような・・・。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 素晴らしい、受験に対して力みすぎない感じが回答から想像されます。まるで、全国の公立中に通う感覚で、まぁ入学するには受験が必要なだけ、なんですよね^^ 受験に対するそのリラックスした感じは、お子さんにも素直に伝わっているのかもしれませんね。見習たいなと思いました!

回答No.18

>回答文から「幼少者が一休さんを知らないこと自体、何の問題もありません。」と「私は年少者が一休さんのお話を知らないことは異常だと言わざるをえない」。矛盾していませんか?? 矛盾していません。このように一部分だけをとると確かに矛盾していますが、文全体を読んでください。私は幼少者が一休さんを知っているか、知らないかに価値を置いているのであって、一休さんを知っていたところで(人間的に陳腐になる可能性を抜きにしては)具体的に何の問題も発生し得ないということを述べたつもりです。 「一休さん」だろうと「ももたろう」だろうと、そのような知識をを知らない子供と対面した時、あなたはどんな感情にかられますか?「人間的に豊かでない子だな」或いはもっと直接的に言うと「何も知らない子供だな」と言う感情を抱きませんか? あなたには独自の観念があるらしく、そう思わないかもしれませんがきっと世の中の大半の人は私の述べる感情に駆られるとは思います。 そのような御伽噺をしらないところで実生活には何の問題も発生し得ないと私が譲歩しただけです。もう少し文章をしっかり読んでほしいです。 >ある一時点での「知識の有無」による、その人間への評価は、回答者様の主観的判断でしかないのではないか。 (知らなかったら、教えれば良いし、本当に必要ならば自分で調べるでしょう。その程度で終わる話ではないかな?と思いまして。) それでは、どうして就職の時には学歴や各種資格(司法試験、公認会計士試験、TOEICなど)が作用するのですか?本当に知識を逐一教えればいいのならば企業はそのようなたぐいのことにはこだわる必要がなく、人間的に魅力のある人『のみを』適当に採用すればよいのです。人生八十年といわれますが、やはり人は死にます。ある一点、一点で人間は知っておかなければならない最低限の知識というのはやはり存在するのだと私は考えます。 以上のことからもし私が企業の人事部に所属したら、逐一必要最低限のことすらも知らない社員に教育しなければならない状況はやはり避けたいとの一心から人事にとりくむと思います。 >回答者さまは、特に幼少期のお受験を問題視されているのでしょうか? (私が取り上げたのは中学受験で、議論対象がずれてるなと感じました。) まず、私は高校受験は世の言う「お受験」ではないと考え、高校に入学するためにはむしろ当然の行為であると考えます。 一方、中学受験についてですが教育格差の観点からお受験教育は中学受験のみではないはずです。もちろんお受験教育には中学受験も入りますが、質問者の主張する「所得差から教育格差が生じるという問題」については中学受験に限ったことではありません。 >中学受験する人は、必ず幼少期からのお受験教育をしている、とお考えですか? 考えていません。中学受験でお受験デビューする子はたくさんいます。むしろそれ以前のお受験の方がマイナーだと考えます。しかし、中学受験をする子は小学生期を勉強に費やしているわけで、その意味で小学受験や幼稚園受験とほぼ同様に位置づけています。 >「お受験するおやほど、子に冷たい」というデータはありますか?偏見ではないですか?また、中学受験する子の親も冷たいですか?高校受験する子の親は冷たいですか? 「お受験をする親ほど子に冷たい」と私が述べたのはデータではありません。何をもって冷たい、暖かいとするのでしょうが、年齢の幼いものにする偏差値云々についての会話になにか暖かいものがあるでしょうか。お受験する子供は常に勉強を続けていないとなりませんから(少なくとも難関に入るためには)おのずから偏差値云々の会話が増え、暖かくない話題が増えてしまうのは火をみるよりあきらかでしょう。 >幼少期にしかできない事を体験させるべきだ」というご意見(考えに同意ですが)ですが、それをしない人間は異常ですか?受験勉強と並行して行えませんか?(知っている/知っていないか、した/していないかが、回答者様の評価の分かれ目ですが、その判断の仕方は妥当でしょうか?) 全国にはお受験をする子供は増えてきているため異常ともいえなくなりつつありますが、全く通常とはいえないでしょう。また、勉強と遊びを両立させることが不可能かどうかを私に聞かれてもわかりません。しかし、やはりとリビアの泉の例からそれは不可能である可能性が高いと思います。 >昨晩のNHK「プロフェッショナル」という番組で、ある弁護士が登場していました。東大卒ですが、口下手(コミュニケーション能力低?)が災いして若い頃事務所を首になったそうです。しかし、後に大成され、このようにTVに取り上げられるまで活躍されているようです。例えば、回答者さまは「首になった」時点を見て、「このお方がそれまで受けた教育は不必要だ」と思いますか?(2番目の質問と関連) 少なくともこの「お方」についてはムダだったとは思いません。なぜなら弁護士などというのは特殊な資格だからです。資格試験は学歴を超越するものがあります。しかし、教育格差の観点から私はこの論点こそ「脱線している」と考えこれ以上はのべないこととします。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 度々出てくる「教育格差の観点から…」により、回答者さまがテーマから逸脱しないようにと配慮していただき、ありがとうございます。私があまりに自由に議論しようとしているので、自分が問題提起した「なぜ中学受験させるのか」「教育格差による子供の不幸」という質問から出てしまいますね^^; 文章を読んで、納得するところもあります。私は、ずっと公立で来て、受験は高校受験と大学受験しかしていないので、幼少期の受験などどれほど大変かは分かりません。回答者さまがおっしゃるように、幼稚園・小学校受験なんて別に必要ないと思って、私は子にさせないだろうなと思います。全体的な主張はわかりますが、細かなところで何点か議論したいなと思います。 ・対象とする受験として、幼稚園・小学校受験・中学受験を「お受験として」同様に位置付けしていますが、高校受験は普通であるとの意見のように、中学受験とマイナーなそれ以下の受験というように分けて考えるべきではないか、と思いますがいかがでしょうか。 文章中で、幼少での受験はマイナーと書かれております。私も、もし子が出来たらさせないと思います。中学受験はお金があればさせるかもしれません(勿論偏差値だけで考えたりしません)。マイナーな幼少の受験を中学受験と一緒に考えることは、「早期受験」自体の批判をしたいために行ったことなのでしょうか? ・中学受験は、小学校での貴重な体験を奪うものだという認識かと推測しますが、やはり勉強一色で友達との関わりが全く無く、本のみが友達、という子供が多いという印象があるのでしょうか?小学校なんていうのは、学校の宿題くらいをやって、友達と遊びまくるべきだ、というお考えですか?(私がそうでしたが^^;) (続く)

yourvoice
質問者

補足

(続き) ・回答者さまにとって、「人間的な豊かさ」とは何ですか? 「一休さん」を知らないことは、人間的に陳腐(人間的に豊かの逆)になるとおっしゃっていますが(可能性の有無を言えば、幾らでも言えますね。例:「ずっと公立校ならば将来非正社員の可能性大」…否定できない…)、 なぜ「知る/知らない」だけで、「人間的な豊かさ」を判断できるのですか?私は出来ません。 ・「一休さんを知らない」ことで、「人間的に豊かでない子」だと判断するのは、あまりに短絡的で偏見に満ちてると思います。また、なぜ「何も知らない」とまで言えるのでしょうか?評価の行き過ぎな気がします。 ・どうでも良いのですが、私は「一休さん」のタイトルやシンエモンサン、テルテル坊主くらいしか知りません。細かなストーリーを覚えていません。これでも「一休さん」を知っていると言えて、「人間的に豊か」ですか? (文章から、回答者さまはそのように評価・判断する過程を辿ると考えています) ・幼い年齢の子に偏差値云々について話をすれば、何とも悲しい光景ですよね。それは納得です。しかし、どの家庭も「偏差値の高いところに行くのよ!」が「毎日」話題に上るということでしょうか? こちらの勝手な単語選択で意味が変わることを避けて、なるべく回答の中にあった言葉を使うようにしました。 各論的な展開になってきました。 どうぞ、脱線しても全く構いませんので、色々と話をお聞かせください。

  • overtone
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回答No.17

No.16です。 >もしかすると、教育投資として、それが「受験対策」でしかない(否定的ニュアンス)、とお考え ごめんなさい。 私の理解が悪くて、ご質問者様が そう考えられているのかと 勝手に勘違いしていました。 私も (たぶん)ご質問者様と同じような考え方だと思います。 私が、教育格差を学歴格差と同意としているところが勘違いの原因と思われます。 教育→学歴 とつながると どうしても、受験教育と私の頭の中では 連鎖してしまっております。 >義務教育は、民主主義を維持するためにある と考えております。 と書かせて戴きましたが、 ・対人関係 ・国の仕組み ・情報の集め方、精査 ・法律を知り遵守すること ・もちろん 技術もある程度知っていること などな 個々人が知っていて 使えないと 現代の民主主義は維持ができないと考えております。 (もちろん 全部は ひとりでは できません。信頼関係のある相手には 任せられます。) あと 教育に投資するのは、こどもが未来そのものであり(順番では親が先に死ぬ。親死に 子死に 孫死ぬ はハッピーです!)、お金などと違って なくならないからです。逆に考えることができれば、何かを創造できるかもしれないし。 (私の場合はそう考えて こどもへの教育に対して投資したり、時間を割いたりしています。) この場合の 教育は、学校に限りませんし 学科に限る狭い意味ではありませんが。 でも 廻りは 違うようです。 偏差値を重視してしまっているような感じです。 大学は、研究する場です。 >それはそうですね)。 ならば、そのような意識を持つのがよろしいと思います。 もちろん、他の人は 大学をレジャーランド(古いっ!)や就職のためのツールとして考えているのかもしれませんが、ひとり ひとりが 意識を変えることが 重要と考えます。 学校教育法(教育基本法は 間違いでした。申し訳なりません。)に 各学校の目的が書かれていますが、これは 当然ですが、こどもを学校に通わせていて 何を目的にカリキュラムが作られているかがわかります。 >国家を担うのは一部の優れた人材であるとすれば これは 民主主義の考え方ではないですよね・・。 取り留めない アドバイスで 申し訳ございません。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「教育」というものを定義付けるとすれば、おっしゃるように「民主主義の維持」ですね。でも、大学の話で言いたかったのは、「大学での教育」、特に「旧帝等で学ぶ」ということは「自分がこの国を良くしよう」(官僚でも、議員でも、どこかのメーカーでも、全ては国の発展と無関係では無いという意味で申しております^^;偉そうですね...)と考えても良い、そんな意識であっても良い(べき論ではなく)と思うのです。それは、本人でも親でもそう考えて生きたり、育てても構わないと思うんですよね。そのように私が考えているだけであります。 親はやはり偏差値で志望校を見てしまいますよね。自分たちがそうだったということも考えられますし、出来るだけ偏差値が高い方が「なんか良い」のかもしれません^^; overtoneさんのお子さんも、開成中は楽々だった、というお話がありますが、「なぜ開成中なの?」という質問にはどんな答えがありますか? 「校風」もあれば、「優れた教師」もいて、そこに集まる人は多く、結果的に偏差値も高くなってしまう。周りの親御さんたちは、あまり学校そのものを見るのではなく、学校のランク付けを気にしてしまうんですね。そこには、学歴信仰と他人の目を意識する、があるのかな?と想像します。もし後者が正しいならば、ホント小さなコミュニティでの意地の張合いを密かにしているかもしれません、親の間で(?)。すみません、妄想的になって、どんどん脱線してしまいました...

回答No.16

こんにちは。No13の者です。 教育を受けている私が自らの教育観を述べるのはなんだかむず痒いですが、私にとっての教育とはどのようなものであるべきかと申します。 それは、「感受性豊かな人間に育て、将来豊かな人生を暮らせるように導く」ことです。 大学教育は主に、専門的な職業に就いたときに生かすためや教育を受けたことを人に認めさせるためにあると考えます。つまり後者はいわゆる学歴というものですね。 その大学に入るために高等教育があります(人によっては高等教育で終わるひともあるが、ここでは教育格差の観点から大学進学を前提にして書きます)。そのため高校で習う内容は「役にたたない」という声をよく聞くのだと思います。例えば「sin180度=0」や「徳川家康は1603年に江戸幕府を開いた」ということなどが生活に役立つことはあるでしょうか。中学高校における英語教育が日常英語にはあまり役立たないというのもこれに尽きると思います。 一方、初等教育は将来の日々の暮らしを豊かにするためにあると考えます。小学生期に学ばなければならないと私の考えるものは教科教育では「掛け算99」や「漢字」くらいだと思います。どちらも日常生活には必須だからです。 ですが小学生期に「鶴亀算」や「植木算」などを将来の大学進学に向けて覚える必要はないと考えます。なぜなら大学受験に「鶴亀算」や「植木算」は必要がないからで、両者ともに方程式などで簡単に片付けられます。 このことから、小学生期に「鶴亀算」を教えるということは、大学へ入るための手段を勉強するための練習を小学生から始めさせられているということになります。 私はこの「鶴亀算」の勉強をしている間にたくさんの本(どんな本でもいいです)を読んだり、友達とゲームをしたり、友達と秘密基地をつくったりなど幼少期にしかできないことにより、コミュニケーション能力をみがくべきだと思うのです。このような経験は大きくなった今、私にとって大変有用なものとなっています。将来、幼児期にすべきことをしなかったことで何か自分に問題が降りかかったときに後悔しても遅いです。 幼少者が一休さんを知らないこと自体、何の問題もありません。しかし、一休さんは特定の子が知っている特別な知識だとは思いません。テレビ番組でおもしろおかしく取り上げられているということから判断して、私は年少者が一休さんのお話を知らないことは異常だと言わざるをえないと思ったのです。そのとき、テレビに映っていたある女の子の例で一休さんのことをしらなかったのでお母さんに怒られると思ったらしく、母親が来るや否や泣き出す子供がいました。 質問者さんはお受験教育が机上の勉強ではない。といった趣旨のことを言われていますが「鶴亀算」や「植木算」を教えてくれる塾はいちいち鶴亀算を教えるために鶴や亀の模型をもってきて逐一説明しません。黒板に解説を書いて、説明するだけです。植木算も植木をいくつも用意して、「なぜ」植木算が成り立つかを全く教えずに解説だけして公式を覚えさせます。これを机上の教育でないとするならば、いったい何なのでしょうか。私には理解できません。 最後に私はお受験教育をする親ほど、子供に対して冷たいと考えます。7歳児に将来、程度の高い大学へ入学させるため、偏差値云々で叱るようなことをする親が暖かい親なのでしょうか。幼少期には幼少期にしかできないことをするべきで、またそれができるように親は見守ったり、時には援助することが正しい教育なのではないでしょうか。 よって私は子供に過度の干渉は不要だと考えています。 質問者の質問にすべて答えられたかはわかりませんがこれでよろしいでしょうか。 質問事項を箇条書きにしていただけるとわかりやすいです。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 イマイチ噛み合っていない気がします。お互い、論点がぼやけているかもしれませんね。つまらない質問が多いかもしれませんが、よろしくお願いします^^; (質問事項) ・回答文から「幼少者が一休さんを知らないこと自体、何の問題もありません。」と「私は年少者が一休さんのお話を知らないことは異常だと言わざるをえない」。矛盾していませんか?? ・ある一時点での「知識の有無」による、その人間への評価は、回答者様の主観的判断でしかないのではないか。 (知らなかったら、教えれば良いし、本当に必要ならば自分で調べるでしょう。その程度で終わる話ではないかな?と思いまして。) ・回答者さまは、特に幼少期のお受験を問題視されているのでしょうか? (私が取り上げたのは中学受験で、議論対象がずれてるなと感じました。) ・中学受験する人は、必ず幼少期からのお受験教育をしている、とお考えですか? ・「お受験するおやほど、子に冷たい」というデータはありますか?偏見ではないですか?また、中学受験する子の親も冷たいですか?高校受験する子の親は冷たいですか? ・「幼少期にしかできない事を体験させるべきだ」というご意見(考えに同意ですが)ですが、それをしない人間は異常ですか?受験勉強と並行して行えませんか?(知っている/知っていないか、した/していないかが、回答者様の評価の分かれ目ですが、その判断の仕方は妥当でしょうか?) ・昨晩のNHK「プロフェッショナル」という番組で、ある弁護士が登場していました。東大卒ですが、口下手(コミュニケーション能力低?)が災いして若い頃事務所を首になったそうです。しかし、後に大成され、このようにTVに取り上げられるまで活躍されているようです。例えば、回答者さまは「首になった」時点を見て、「このお方がそれまで受けた教育は不必要だ」と思いますか?(2番目の質問と関連)

  • overtone
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回答No.15

No.16の アドバイスについてですが、 特定のご回答者様に 向けたものではありません。 ご質問者様の 「お礼欄」の コメントから 気になったところを ご質問者様へ向けて アドバイスさせて戴きました。

  • overtone
  • ベストアンサー率22% (191/833)
回答No.14

横からすみません。 教育と受験対策が一緒になっていませんか? 教育に投資するのは、こどもが 学問に興味があったりすれば当然でしょうし、「思考力」のもとにもなりますので それは 身につければ 一生 こどもについてゆくと考えます。 (教育しなければ 思考力が身につかないわけではないですし、教育したから思考力が身につくわけでもありませんが・・。)←矛盾しててスイマセン・・・。 スポーツなどで有望なこどもに また スポーツなどに興味があるこどもに スポーツに関して、投資をしているのと 保護者の感覚は同じだと思います。 問題視すべきは、 「みんなが行くから」 「偏差値が高いから」 「就職に有利だから」 などで 大学を決めることと考えます。(自省) 大学は 研究をする場と考えます。 (卒業して 院生の時に気がつきました。) 「お前バカかよ」と言われそうですが、 教育基本法 第52条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。 なのですから・・・。 義務教育は、民主主義を維持するためにある と考えております。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 教育と受験対策は、一緒に考えていませんが、教育の範疇に受験対策が含まれていると考えています。それ以外にも、代表的な教育として、しつけやマナーがあると考えています。 もしかすると、教育投資として、それが「受験対策」でしかない(否定的ニュアンス)、とお考えかもしれませんが、それ自体を善悪で捉える必要はないと思います。 しかし、そこに「親の強制」「子の希望を無視」という状況がある!!(断定)とお考えゆえの問題視なのかな?と想像しました。 また、おっしゃるように、元々大学は、学問を探求する場でありますね(それはそうですね)。 しかし、実際の大学は…遊び場??(学生側の問題)、大学教育って??(大学側の問題)がある気がします。 それが時代の流れなのかもしれない、という見方もあるかと思いますが^^;

回答No.13

No.9です。 回答者さん同士で盛り上がっているようですね。 私は質問者さんに頂いたコメントに対して補足します。 >大学受験を目指しているんですね。 当方某国立大を卒業しました。 >その先も考えての、大学受験ということでしょうか? 受験時は漠然とした進路しか思い描いていませんでした。 >そして、セーフティネットになりうる大学に行くことが、人生の安定度が幾らか増す(程度が微妙ですが)という考えがあるわけですね。 正直受験時は受かりさえすれば人生勝ち組だと思っていました(恥)。 学歴自体にはセーフティネット程度の意味しかないと気づいたのは入学以降です。ただし同時に、成功への大きな機会を得るチャンスでもあることにも気付きました。私がそれを生かしたかは、まだ答えは出ていないはずです。 >学歴は、一つの要素に過ぎない(特に重視していないというニュアンスでしょうか?)もしそうならば、「親として教育に投資せざるをえない」というのは、「??用いる言葉としては、強い言い方では??」と感じました。 確かに文章の流れおかしいですね、申し訳ありません。 私の意図した所は、「学歴は一要素、しかし一般的にはとても大きな一要素なので無視はできない」というイメージです。親としては、子供に学歴以外の要素があるかどうか分からないうちは(本当にやりたいことの意思表示など)教育投資をせざるを得ない、ということです。 >優れた教育を自分の子供に先行投資し、その中で日本を引っ張っていくと>いう人材が生まれていくと思うので、国家的にもその人たちには頑張って>ほしいという思いをもって、見守っているのかなと勝手に想像していまし>た。 なるほど、興味深い考えですね、あるかもしれません。 ただ国家を引っ張って行く様な人材は、画一的な教育とは離れた所から生まれる気もしますが・・・。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >>学歴自体にはセーフティネット程度の意味しかないと気づいたのは入学以降です。ただし同時に、成功への大きな機会を得るチャンスでもあることにも気付きました。 そうですよね、学歴をセーフティネットと弱く捉えるのと、成功への大きな機会を得るチャンスと強めに捉える見方があるのが面白いなと感じます。なぜ、このような二つの見方が存在するのか。それが、簡単にいえば、言い訳と本音に当たるのかなと考えます。 「学歴問題」を注視すると、しばしば「学歴は一つの要素に過ぎない」と言われます。しかし、大卒を例にとると、その言葉は概ね大卒の人が言う言葉であり、大卒の人がそれ未満の学歴の人にいう慰めに似た言葉にも思えます。 しかし、実際大卒の学歴を持つと、選択肢の人はそれ以外の人よりも程度の差こそあれ、何かしら有利です。本音では、大きなチャンスがあるんですよね。それを利用するかどうかは、本人次第で、学歴が無くても成功するかしないかも本人次第ですが。 このことから、「早期教育」の推進には、直接結び付けられませんね^^;

回答No.12

No.11のものです。 実は私も学生です。大変えらそうなことを書いていたのであまり言いたくないのですが、実はあなたとあまり年齢は変わらないです。 そもそも、私がどうして高額の投資を必要としないかというかというと、やはり「トリビアの泉」のお話にもありましたが、あのような無理強いした「教育」はもはや「教育」とはいえないと思うからなのです。幼児が「一休さん」のお話も知らないのというのは、サラリーマンが「敬語」を知らないのと同様です。年齢に応じて人が学ばなければならないことというのは存在します。私は教育を無価値とはいっていません。学歴をつくる教育にもそれ相応の価値はある戸思います。ただ常識をしらない人になるというリスクを背負ってまで大成するかどうかが不明な、幼児からのエリート教育は価値が少ないというだけなのです。 私は中学までは公立、高校は私立に行きました。確かに私立学校は教科教育はみっちりしてくださいましたし、また環境も十二分、いや十五分にそろっていました。 私の学校は6ヵ年進学校でしたので中学受験をした方たち(中等部)も同じ学校にいましたが、最初は「中等部の人たちって本当に(大学受験に)有利だなぁ。うらやましぃ。」と思っていました。しかし、小さいときの遊んだ経験、肌を通してした経験がかなり不足しているように感じました。高校2年の途中くらいになると「これでは社会にでてから駄目になりそう(な人がおおいなぁ)。」と感じ、お受験教育のむなしさを感じました。 私個人の経験では(勉強に関して)私と同じ環境或いはそれ以下の環境の学校(公立学校)に通っていた人と、6ヵ年コースの人の学業成績はあまり差はないように感じました。要はどれだけ学校で努力したかで成績がすべて決まっているように思いました。つまり人には器があり、いくら先取り教育を施してもあまり大きな価値はないのだと思うのです。 「教育」とあなたが定義することは勉強だけですか?いくらよい大学に出ていても、プレゼンテーションができない人間は全く使い物にならないということは周知の事実ですよね。文部科学省の言う「ゆとり教育」 は確かに行き過ぎていますので私は反対ですが、あの方向性はあながち間違っていないのではないでしょうか。幼児期には幼児なみの教育があるのです、それを逸脱することは私はよいとは感じないのです。 あと、ご質問にあったように自分の子供が将来ニートになったならばどうするか。という質問ですが、そもそもこの質問はあなたが最初に書いた内容と少々矛盾すると思います。ニートのような子供は家にある程度お金がある御家の子ですので(最近は一部例外はあるそうですが)、そもそも教育にお金がかけられない御家の子ではありません。ニートを助長している教育こそ幼児期からの陳腐な教育だと私は考えます。ですから教育格差とニート問題はまったく異次元のお話だと感じます。 このことを述べた上で、もしも私の子供がニートになったらどうするかを述べますと、私はニートになった子供には一円の支援もしないでしょう。まずそうならないように私はそのように子供に予め「ニートのような人間になったなら、お前には一円もやらない」と通告するでしょう。その上でニートになったのなら、親である私にこれ以上干渉することはできません。自己責任でその道を選んだのですから。ニートにお金を援助することが「愛情」だと思うかもしれませんが、はたしてそうでしょうか。子供が自分で自分を養えない状態で放置することは親である私が死亡した後は子供が生きていくことができないという意味で、親がニートにお金をあげることはこどもの社会的殺害であると思います。 そもそもニートとは(Not in employment,education and training)教育にも職業にも職業訓練にも無関心な人のことである人のことなので、ニートであるひとには憲法に規定された日本人たる義務を負わない、責任を負ってもらいたいです。 (ただし自己責任でない場合で就職浪人をしている子供には援助をします。) 異議があればどうぞ討論しましょう。では、また。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 文章を読みますと、回答者さまの「教育観(教育とは何か)」がどのようなものかを知りたくなりました。もしお時間ありましたら、お答えいただければ幸いです。自分のために参考としたいと思います。 ご意見としては、常識の蓄積を損なうような早すぎで、かつ強制的な教育はいかん!ということ、で宜しいでしょうか? 早くから塾通いさせると、その年齢でするであろう経験はしないことは、後々高い確率で何か問題として浮上する。そして、親の主導で物事が推し進められているのは、子供の考えを無視していて問題だ、ということでしょうか。 つまらない突っ込みをします^^; 塾通いをしている子が、「一休さん」を知らないことは、どれほど問題なのか。つまり、中学受験での勉強に時間をほぼ使ってしまい、その年齢で経験しておくべき経験をしない、というのは、どれほどの問題なのか。本当にその人は机上の勉強しかしていないと言えるのか。そして、それが後に自分の元に何か問題として降りかかる時、それを乗り越えることを考慮しないのか。 人間は何か問題を感知し、それを乗り越えるか挫折して前進しない行動をとる。これは、どこの学校を出ても不変な事柄かと思います。その上で、ある人が挫折するような体験をすれば、それはその人にとって次に成長する出来事とプラスに取り、またそこで頑張れば良いと思います。社会で「常識がない」と注意されたら、それを自分で何とかする動きか、それ以外の動きを見せるでしょう。ゆえに、例えば大学の授業で「プレゼンテーションの上手さ」を評価して「社会で使えない」から「早期教育は価値が無い」とは、論理的に結べないのではないか、と考えます。 そこで興味深いのは、回答者さまが教育を何と考え(勉強+年代に応じた様々な経験)、親としてどうあろうとするのか、ということです(偉そうな書き方になってしまいましたが、ご了承ください)。子供には冷たく、ほぼ不干渉なのかな?と偏り気味な想像しましたが、いかがでしょうか?

回答No.11

No1,No10のものです、追加です。 >>もし自分の子供が「できない子」だとしたらどう世間を渡らせますか。 との質問がありますが、私には子供はいません。私に子供がいたらという仮定で書きます。 子供がどのように社会に出るかということはその子供の素質、性格によりさまざまな方法があると思います。 ですから私は手助けはしますが強制はしません。同時に子供がどのように社会に出ようと、すべて本人の責任で行ってほしいと私は思います。 (学歴は大切なものの一つかもしれませんが、学歴がない人は駄目なのだということはないとおもいますが。)  ちなみに元首相の田中角栄さんは中卒です。高校、大学には進学できませんでしたが彼には能力がありました。  さいあく、良い大学に入れなくても個人の能力の発揮の場はあると思います。ですから「できない子」か「できる子」かわからないうちから子供に投資するのは私は賛成できません。

yourvoice
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 個人の能力の発揮する場。そうでうね、何事も、どんなシーンでも、ポジティブに捉え生きていこうとすることが、人生を輝かせるかもしれませんね^^ そのようなお考えを持つ回答者さまにぜひお聞きしたいことがあるのですが、 もし、自分の子供が、ニートとなってしまったら、生きる気力がなくなってしまったらどうしますか? もし宜しければ教えてください。