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昔は早慶もたいしたことなかった?
過去は国立大学と私立大学の学費に3倍以上の開きがあり、一部の金持ち以外は、頑張って国立大学に行くよう努力したみたいです。早慶もいまみたいな知名度などはなかったと言う人もいるんですが、それならなぜOBの実力が東大についで凄いんでしょうか?
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- t-sushi
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早慶はボンボンが多いからな~。 金のあるいいとこの御子息が行く大学の代表格が早慶だよな。 日本に限らず上流階級は閉鎖的だから,金持ちやいいとこの御子息が出世する。結果,早慶卒が出世しているように見える。そうやって意思決定機関を閉鎖的にしておいて,自分達に都合の良い制度にしていく。 いわゆる二世を除外して考えれば,早慶が人材を多く輩出しているとは言えないだろう。 あと,特に慶応は学閥が強いから,実力以上に得している面もあるな。 会社での出世って結局そういうことだから。
- malkiel
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早稲田や慶應には付属の学校があり、(特に慶應には付属の小学校まであるので)オーナー企業の社長さんのご子息が大勢います。そういった方も一応は将来企業の社長さんになるので、確かにOBが活躍しているのにも感じられますね。 例えば、2007年に食品の消費期限偽装事件で有名になった企業に、不二家と老舗和菓子屋赤福があります。不二家、赤福ともに社長さんは慶應大学卒ですが、どちらもお父さんの後を継いだだけであって、本人の実力や慶應大学卒という学歴が評価されたわけではありません。 ただ、時価総額が日本でも指折りとなるような一流企業においては、一族が代々社長をするような企業と違って、早慶卒の方はあまり活躍しているとはいえないようです。時価総額上位企業の社長さんの経歴を調べてみていいただければ分かると思います。
- tatsumi01
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No. 4 の訂正。 約60年前→約50年前。 約60年前だと、終戦直後で学制改正以前ですね。
- tatsumi01
- ベストアンサー率30% (976/3185)
昔っていつごろかによりますが、約60年前も早慶はかなりの難関でした。ただし、早稲田だと政経、法、文、理工(それぞれ第一)、慶応だと経済ですが。他の多くの学部でも(旧帝大や一橋、東工大を除く)国立大より難関だったでしょう。 その頃、東大に平均5名合格する高校で、東大を狙うのは学年10位以上、一橋だと20位以上、早稲田政経で30位以上といった感じでした(狙うレベルで、合格できるとは限りません)。 戦争前だと、6大学野球の早慶戦があったので知名度は抜群でした(現在の巨人阪神戦くらいの人気でした)が、授業料を払えば入れるとの評判はあったようです。ただし、大学の他に専門部(現在の短大相当)もあったので、この評判が大学か専門部かはわかりません。
- hard_drunkard
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官尊民卑の雰囲気の中では「たいしたことなかった」と言えるでしょう。 けれど早稲田・慶應は相応の力(学力・財力)がないと入れませんよ。 MARCHと呼ばれる学校の中では、「野球部・○○」と書いて合格した、なんていう伝説もあるくらい。少なくとも1950年代までは上智にしても軽く見られていた(軟派大学)そうです。 東京教育大が「消滅」したのも大きいでしょうね。 戦前は官立大学卒と私立大学卒では同じ職種でも給料が違ったそうで、官立=優秀という図式になっていたそうです。 地方の実情にスケールダウン(高校の例)すると解りやすいんですが...。 なかでも熊本ってところは、「中央指向」が強くて、地元の公立高に行かず、熊本市内の私立高指向が顕著です。野球をはじめスポーツで有名な九州学院、中小企業の師弟が多く通います(初等部はないけれど中学校はあります)。 これをスケールアップして考えると...。「慶應閥」「早稲田閥」を使って、人脈を生かす、という発想では。
- elecom_elecom
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「金持ちで優秀な人材を集めた」からでしょう。 昔の国立大と私立大の学費の差は昔は3倍どころではなく10倍ありました。 でも慶應は昔から別格でした。 「一部の金持ち」といっても、人口を考えれば一部といっても相当な数になります。 1960年代に日本の人口は1億人突破しましたが0.1%(1000人に1人)が金持ちだったとしても金持ちは10万人いたわけです。 その当時の早稲田の定員は5805人、慶應は2680人です。 (参考:東大2193人、京大1665人、阪大950人、名大930人、東工大465人、一橋440人) 貧乏で優秀な人は国立大を目指すしかなかったのは事実ですが、 早慶レベルは金さえあれば入れたわけではなく、「金持ちで優秀」でないと入れなかったのでしょう。 またOBの実績にしても昔は今よりはるかに階級社会でしたから、政界にしろ財界にしろ金持ちが世襲しながら支配してきた側面もあります。 慶應なんかは当時早稲田の半分以下の定員しかいなかったにもかかわらず社長数、役員数の「数」で早稲田に勝っています。 読売ウイークリーの社長や国会議員の出身高校でも慶應の附属高校がぶっちぎりで1位だったり、 3代目社長の4人に1人が慶應卒などや慶應卒の国会議員の6割近くが二世三世議員だったりしますが 慶應はお金持ちで優秀な人を集めるのが上手い大学といえます。 慶大の世帯年収は早大のワンランク上 http://www.geocities.jp/plus10101/keiosetainennsyuu.html 出世できる大学ランキング http://www.geocities.jp/gakureking/dai051015.html 国会議員の出身校(解散前) http://www.geocities.jp/gakureking/kg.html 2世3世 全体 2世率 慶應 39 69 57% 東大 27 152 18% 早大 20 94 21% 慶應ジャーナル 「三代目社長の4人に1人が慶應卒」 http://www.keio-j.com/tanntei/4family.html http://www.geocities.jp/gakureking/keio-fuzoku.html Qなぜ、三代目社長に慶應の卒業生が多いのでしょう? いくつかのケースが考えられると思うのですが、親が慶應を出ていないから、息子には苦労をさせたくないというケースがありますね。 これは下から来た人が多い。幼稚舎からとったり高校からとったりも含めれば相当な数になる。創業者は苦労しているから中高一貫で楽をさせたいと考えるケースです。 もう一つは、親が慶應を出ていて気に入ってるから息子も通わせたいと。私たちの世代でも今でも誰々の社長就任祝いだの何だのと 集まってくるんですけど、学生時代お互い何やっていたかというと実は思い出せない。でも、みんなバラバラかというとそうでもなくて、 グループでつるんで遊んだり、本を読みあったりしていて仲間意識を感じながら楽しんでいた。そういう経験から自分の子供にも同じ体験をさせたいというのがあると思います。 最後は、そういうのに関係なくて偏差値が良い、いわゆる世間的に一流大学だったという理由です。 自分の後継者にも一流大学に出て欲しいという時に、大学ならどこでも良いという中、たまたま慶應だったというケースですね。 慶應自体が富裕層のコミュニティーとして機能している側面はありますか? その役割は大きいでしょうね。今日本の50億100億持っているような富裕層は邦銀ではなくスイス銀行に預けたりしています。 それは、家のローンを抱えているようなサラリーマン銀行員では、自家用ジェット持ってるような顧客の気持ちは分かりません。 だからJPモルガンなどでは、担当者は頭取以上に何億もする年収を貰って、そのコミュニティに入り、別荘を買いヨットを買い 同じ生活水準をして、同じレベルの金銭感覚だから分かる顧客の悩みに応えます。そして、何十億も資産を持つ顧客を引っ張って多額の収益を上げています。 慶應もそれと同じことで、ファミリー企業の子息が、同じように家を継ぐべきものの悩みを、同じ世界の住人として相談し会える 友人を作る場として機能している側面はあると思います。 さらに昔にさかのぼって明治・大正の時代でも慶應は別格でした。 明治・大正時代の学歴 http://www.geocities.jp/gakureking/mei-tai-gakureki.html 一部抜粋 ~明治時代~ (『学歴の社会史』天野郁夫著) 帝国大学を筆頭に官立の東京高等商業学校(現在の一橋)、高等工業学校(現在の東工大)、それに私学の早稲田、慶應といった序列がすでに形成されており、就職に有利な大学としての地位を築いていたのだ。 帝国大学-官立専門学校-早慶-五大私学(明治・中央・日大・法政・専修)-その他専門学校-実業学校・各種学校という序列が、明確に意識され、記述されているのである。 私学でも当時から慶應が圧倒的な優位性を持っていたことである。三井物産は慶應だけは帝大や高等商業学校(一橋)と並んで無試験で採用していたという。 他の私大出身者が財閥系企業になかなか入れなかったことがわかる。 当時、他の私立大学出身者の大多数は、ワンランク下の企業か中位の企業くらいにしか入れなかった。 慶應は現在でも三井系に強く、その伝統は堅持されている。三井の中核である三井銀行に福沢諭吉の甥である中上川彦次郎が招かれたことから三井銀行は慶應義塾出身者を積極的に採用し、後に彼らは会社の重職を担うことになった。 ~大正時代~ 『大学と人物 各大学卒業生月旦』(大正3年出版 ) 「 いやしくも第一流と称せられる大会社大銀行の重役連は大抵慶応と赤門(東大)出を以って占めて居る 今日処御気の毒なのは早稲田や明治の商科出身者ないしは、神戸長崎山口辺りの高商連でマー平社員と云う処に働いて居る。」 大正時代になると、すでに学校暦で出世するかどうかが分かれていた。 さすがに役員になれるのは私学では慶應だけだった。 これに対して、一橋は中堅幹部クラスで現状より評価が低い 早稲田や地方の学校出身者などは、なかなか出世もおぼつかない状況にあったようだ。 帝国大学を頂点とする出身大学の序列化、それによる就職先の決定と出世の可能性という学歴社会は、明治時代に確立し、大正時代に入って日本全体を覆っていくようになる。 この時代、地方の地主階級など富裕層の子弟が東京の大学を目指して大量にやってくるようになる。 就学人口が増加するのにともない、当然ながら明治のころ以上に受験競争に拍車がかかった。
- toridon311
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首都圏の国立大学でトップは東大ですが、それに次ぐハイレベルな国立大学が東京近辺にないからじゃないんでしょうか。あと、早慶のOBが、会社の重要な役職につく場合が多かったから必然的に実力や知名度が高くなったとも言えるのではないかと思います。 早慶も、昔は今ほど知名度がなかったといいますが、それでも知名度は高い大学であった事は確かです。ただ司法試験の合格率が昔は、国立では東大、私立では中央大学が圧倒的に多かったそうで、その当時は早慶より、中央大学の方が有名だったという話は聞いた事がありますが、時の流れとともに中央の合格者も減り、早稲田や慶応出身の合格者が増加したというのも一つの要因かもしれません。 確かに昔は私立の学費が高かったようで、金持ちじゃないと私立に行けなかったので、敷居が高く、なかなか優秀な人材が集まらなかったため、当時はさほど有名な大学ではなかった、とも言えるかもしれません。