遊戯とは
念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。
これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。
「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)
したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。
きみが自ら投げるものをとらえる限りは
すべては たくみと任された獲物
きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき
正確に可能にされた飛翔のなかで
神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・
そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----
そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば
いや もっと不思議なことに
勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・
あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を
若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----
そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者
投擲はきみに軽くもなく 重くもない
きみの両手から流星が輝きいでて
自らの空間を駆けめぐる・・・
(リルケ『後期詩集』より) 」
引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書