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『司法のしゃべりすぎ』への評価

ジャンルがここでいいのか少し悩んだのですが…… 最近、この本を読んだ所、非常に論理的で分かり易く、 素人ながらにこれに論理的に反論するのは難しいのではないかと言うのが感想です。 しかし、現状を否定する内容である事から多くの批判を浴びているとも思われ、 司法の素人である私個人の感想では心もとなく、 実際司法に関わる人達の間ではどのように評価されているのかが気になり投稿させて頂きました。 賛否両論、どのような論理により評価されているのかを教えて頂けると助かります。

みんなの回答

noname#41546
noname#41546
回答No.5

>>論理的に理由になっている事のみを書けという主張でした。  馬鹿げた話です。結論を知っているから、これは不要だとかそういう話になるんです。私が書いた、判決理由の制度趣旨を考えれば、結論から見て論理的に必要な理由では足りず、実際に考察したことをなるだだけ忠実に再現することが望ましいことがよく分かるはずです。  今回の靖国違憲判決は、蛇足でも何でもありません。実際に審理し、裁判官が考察したから書かれたのです。

noname#41546
noname#41546
回答No.4

>>たとえば、上記違憲判決にしても、判決主文で国は勝訴していますから、上訴の利益がなく、たとえ判決理由の説明に不服があっても上訴できないわけです。 そのように、当事者に、司法の場で争う余地を与えない形で司法が意見を述べてはいけない、がかねてからの井上裁判官の主張です。  他の回答者のレスを引用して言うのも何ですが…。  民事裁判の争点は、大きく分けて事実についての問題(例:借りた金を返したのか)と法律についての問題(例:小泉首相の靖国神社参拝は違憲か)があります。この両者は、訴訟法上の取り扱いが全く異なりますので、明確に区別して論じなければなりません。  事実については、当事者に争いがなければこれを当然の前提としなければならず、また争いがある場合にはどちらかが主張している事実しか採用してはいけません。つまり、当事者に十分な手続保障が要請され、また現に保障があるのです。  しかし、法律については別です。法律についての当事者の主張は、民事訴訟において単なる参考意見に過ぎません。裁判官は当事者の主張に全く拘束されることなく、事実を法律に適用することができます。手続保障は、必要ではなく、現にありません。憲法判断もこの一例で、裁判所は、適用しようとしている法律が違憲であると思料した場合には、自らの職責で憲法判断を行わなければなりません。  ですから、不法行為の民事訴訟で、除籍期間を適用しつつ殺人の事実を認定するのは大いに問題だとしても、靖国訴訟で請求を棄却しつつ参拝が違憲であると判断するのは基本的に問題ありません。  さらに言うならば、判決理由の制度趣旨を考えるべきです。判決に理由が付けられるのは、どうしてこのような判決主文に至ったかを明らかにし、事後的に判決を検証可能ならしめ、もって当事者が不当であるかを確かめ上訴するかどうかの判断に資するものです。とすれば判決理由は、現に訴訟において争われ、裁判官が判決主文に至るまでに考察した思考ルートをカバーしていなければなりません。  殺人の不法行為訴訟でも、殺人行為を行ったかをめぐって現に訴訟が審理され、判決を書く論理的思考ルートにのっていた事項であれば、殺人行為を認定することもあながち不当ではありません。また靖国訴訟の場合でも、現に参拝が違憲かが訴訟で審理され、裁判官も判決主文を導く論理過程に入れたのであれば、そのとおりきちんと書くべきです。    制度には必ず趣旨があります。判決に対し、なぜ理由を付けなければならないのかという趣旨に立ち返って考えるべきだと思います。

haroeris
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 この本では、 事実についての問題と法律についての問題の扱いの違いというのは分からなかったのですが、 今回の靖国裁判にこの本の主張を当てはめてみると 判決は「棄却」 棄却理由は「原告に損害を与えているとは言えない」ということ。 そしてこの棄却理由は憲法判断をするまでもなくすぐに分かる事なので 「参拝が違憲か合憲かは判決主文の棄却を導く為に論理的に繋がりがなく理由とは呼べず、そもそも考える必要がない蛇足」 という事になると思います。 理由を書く事を否定している訳ではなく、論理的に理由になっている事のみを書けという主張でした。

  • nep0707
  • ベストアンサー率39% (902/2308)
回答No.3

井上薫さん自身、現職の裁判官ですね。 その著書は読んでいませんが、 これまでの井上裁判官の主張からして、想像に難しくない内容です。 簡単に言えば、判決理由には「必要十分なことを書け」が その著書に限らない井上裁判官の主張です。 つまり、 ・余計なことを書く ・必要なことを書かない の両方を批判しています。 …その著書は、タイトルからして前者に着眼した内容なのでしょうけど、  批判対象とした判決は、たぶん数的には後者のほうが多いと思う… たとえば、先頃の首相の靖国参拝への違憲判断なんかは 間違いなく井上裁判官によれば批判の対象のはずですが (実際、地裁レベルの他の判決は批判されている) これを批判している最大の理由は 「この部分について、判断されたほうに争うすべがない」 ことです。 たとえば、上記違憲判決にしても、 判決主文で国は勝訴していますから、上訴の利益がなく、 たとえ判決理由の説明に不服があっても上訴できないわけです。 そのように、当事者に、司法の場で争う余地を与えない形で 司法が意見を述べてはいけない、がかねてからの井上裁判官の主張です。

haroeris
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 この本に関しては「余計な事を書くな」だけにしぼられている様に思います。 靖国玉串料などもこの視点での記述でした。

回答No.2

 論理のお化けで下らない本だと思いました。  裁判というのは,大変人間くさい営みです。時に判決で結論にかかわりのない言及をすることはあり得ることで,それに対して批判が加えられることもあります。  しかし,なぜその判決が,そのような説示をしたかにまで立ち入って,いわば判決をした「心」の部分を読み解かなければ,裁判の意義の奥深いところを知ることはできないと思います。これは論理で割り切れる問題ではありません。  彼は,最高裁判決までをも俎上に載せて,ばっさりと切り捨てていますが,例えば,朝日訴訟の最高裁判決において,最高裁が生活保護制度について言及したことは,その後の社会の安定に大きく寄与している訳で,当然最高裁としては,そのような言及の必要性について十分検討した上で,そのような判断を示しているわけです。勿論反対意見があることは説示されたとおりです。このような判決の機能は,論理で割り切ることのできないものであるし,裁判制度が,究極的には社会の安定を目指すべきものであることからして,無視することができず,必要に応じて行使することは当然のものと私は考えています。  論理的に反論は難しいかもしれません(考えたことがないので)が,裁判を動かすものが,単なる論理だけであってはならないように思います。

haroeris
質問者

お礼

論理的であること自体の否定はちょっと想像がつきませんでした。 裁判は論理だけではないという事は、素人の私にはよく分からないのですが、 「論理的に憲法違反である可能性を示唆さされている以上は、それを論理的に返している意見もあるはずだろう、なければ大きな問題だろう」 と思いながらも、私には思いつかなかったという事が質問させて頂いた経緯だった物で。 御回答ありがとうございました。

noname#41546
noname#41546
回答No.1

 何をもって「司法のしゃべりすぎ」と称しているのか、まずはそれを明らかにして下さい。

haroeris
質問者

補足

御回答ありがとうございます。 説明不足でしたね。申し訳ございません。 井上薫著 新潮新書刊 の本なのですが、 「判決理由には判決に必要な理由以外の事は書くな。それは蛇足である。この蛇足を許すと、裁判所による人権侵害、三審制度の否定、政治介入により三権分立を侵す(憲法違反)等様々な問題を起こす事になる。」という事を一貫して主張している本です。そしてこの蛇足がしゃべりすぎであると。 典型モデルとして Aは20年前容疑者として疑われながら不起訴になった殺人事件について、被害者の息子から損害賠償を訴えられた。 判決は「殺害したのは事実だが、除斥期間を過ぎているので損害賠償は認められない。」 殺人を認定された事が不服で上訴しようとしたAだが、裁判自体には勝っている為、受け付けてもらえない。 マスコミでは「殺人事件認定、損害賠償は認められず」と大々的に報じられ、裁判には勝ったにも関わらず様々な社会的損害を被る事になる。 この訴訟の場合、殺人事件の認定はしてもしなくても判決は変わらないのだからする必要はない蛇足だと。 という物をあげていました。

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