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連帯責任について
こども(小6)が 「宿題をやって行かないと 連帯責任で 体育の授業が受けられない」 と 言ってました。 先日 ニュースで どこかの中学でタバコを吸った生徒たちに連帯責任を取らせて坊主にした記事がありました。(検索エンジンで 「連帯責任 坊主」で出てきます。) ==質問========================== 何故、連帯責任では 指導する立場の人が一緒に 責任をとらないのでしょうか? 例えば タバコを吸った生徒がいたら 「私の指導が悪かったので 私が責任をとります」でしょう。 何回言っても わからなかっくっても それでも 責任は大人側ではないのでしょうか? (これが 現行の少年法の考え方にも反映していると思います。詳しくはわかりませんが。) もうひとつ質問があります。 何故 坊主になることが 責任を取ることなんでしょうか?これだけ 髪型や髪色が多様化してて 坊主もひとつの髪型ではないのでしょうか? それ以前に 「人は見かけで判断しないこと」と教えるのに何故? (第一 髪の毛は 半年もすれば 男子ならフツーの長さになるのに・・・。) (もちろん 強要するのは ダメだし、他人の体の一部分ですから 無理に切ったら 傷害罪?) 不思議です。 ================== 私は 40代のオヤジです。 気分でたまに坊主(0.5mm-3mm)にします。 伸ばしてオールバックだったのが 翌日 いきなりってこともあります。 短くすると 電車などで ぶつかられて よく謝られるような気がします。不思議??
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いつも楽しく回答を読ませて頂いています。 >確認ですが、ミソギで坊主にするのが 時代錯誤がはなはだしいんですよね? という一言に思わず吹き出してしまいました・・・(笑) さて、私も基本的には連帯責任に教育的価値はないと考えておりますし、実際にはそうしなかったとは言えその様な発言があったこと自体が残念です。 ただ最近の子供達に多く見られる特徴の一つに、他者への咎めを他人事としか捉えることが出来ないという点があげられます。 例えば授業中に話をしている子供が何人かいたとします。私達の時代であれば一人に注意を促せばクラスの皆がピリッとしたものです。 しかし最近では誰かが注意を受けても自分への名指しでなければ「私じゃないのね」といった感じで再び話し始めるのですよ。 教員によっても確かに子供達の反応は違います。ですのである程度までは教員の指導力を問える問題なのですが、それでもやはり限界があります。 公立の場合は中学、高校になるほどその傾向が強くなります。 個々への対応がより必要な時代になってしまいました。 いわば『連帯責任』で何とかなる時代は既に終わっているとも言えます。 「時代錯誤」というのは的を射た言葉で、坊主頭や軍隊、みそぎ云々という時代的観点からではなく、「現代の子供達の心理、行動面を本当に理解しているか?」という点において正に時代錯誤だと考えます。 今、多くの子供達にとって連帯責任は仲間から反感を買う材料でしかありません。言うまでもなくそこから連帯感など生まれるはずもありません。 教員も本当はそれが分かっているはずです。もし本当に分かっていない教員がいたとすれば情けない・・・。 では何故そうするか、そう言うか?ですが、多くの場合はそれ以上の指導力を持ちえていないゆえの悪あがきでしかないと想像します。 懇談で話をしたくても、本当に来てもらいたいと思う保護者ほど懇談には不参加だったりします。 なので子供達の口から伝わることも十分考えた上での発言であると思います。しかし子供だって墓穴を掘ることはしませんから、本当に宿題をしなかった子供は親に言うはずがないわけで、これもまた虚しい結果に終ることは目に見えています。 以前中学生の息子が「同じ班の誰か一人でもマスクを忘れると全員が翌週も給食当番をしなきゃならない。今週も又エプロン洗わなきゃならないんだ。迷惑かけてごめんね。」と2週にわたり言ってきたことがあります。お陰で3回も洗濯させて頂き、保護者としての連帯責任を取らせて頂きました(笑) 忘れる子供は大抵決まっています。 何故かその後も一緒の班になることが多かったようですが、2週続けて洗うことは以後ありませんでした。 教員も本当に困っていた様で、懇談の際には息子に対して「彼の事で何かと迷惑かけて悪かったね」と言ってやって下さいました。 肝心なのはその後の対処ではないかと思います。ねぎらいの言葉がけを忘れずにすることで、上手くいくこともあるのです。もしその言葉が無ければ息子は恨みの感情を持っていたかもしれません。 教員がどこまで子供の心を理解し、踏み込むことが出来るか?で、その価値は多少変わってくるのかもしれません。 >何回言っても わからなかっくっても それでも 責任は大人側ではないのでしょうか? 仰る通りです。 叱られるより、親が自分の為に頭を下げている姿を見せる方が余程子供の心に訴えかけるものがありますよね。 それと同じで、「誰かが宿題を忘れたら私が一人で教室の掃除をします」と宣言し行動すれば何かが変わると思いますし、そうあってほしいと願います。 同じような事ですが、過去にクラスで物が無くなる事件が相次いだ際、教員が警察に通報すると言って初めて名乗り出た子供がいました。 その時に教員が「名乗り出てくれるまで毎日先生が教室の掃除(←また掃除・・・笑)するよ」と言って頑張る姿を見てることで名乗り出させた方が、より良い結果に繋がったかもしれませんね。 しかし最近の子供達だと「ラッキー」という感じで流されそうな不安も無きにしも非ずですが。 余計なお世話かもしれませんが、 >短くすると 電車などで ぶつかられて よく謝られるような気がします やめた方がよいかもです。ファッションの一部にはあまりなってなさそうですし・・・。 それにスケベオヤジに見えなくもないので、電車に乗る時には別の意味でも注意してください。 ということで、 >何故 坊主になることが 責任を取ることなんでしょうか?これだけ 髪型や髪色が多様化してて 坊主もひとつの髪型ではないのでしょうか? 見かけで判断する人間が多いことを教員自身が分かっているからですね。 再生するという点で言えば、爪でもよいわけですね。 「それでは連帯責任で全員爪を切るぞ!」と言って一人づつちまちま切ってる姿を想像すると「なんだかな~」と思いますし、実際聞いたことありませんね。 やるからには大きめのパフォーマンスも必要なのでしょうか。 「やってやった」という満足感が欲しいのかもしれませんね。 可哀相な人達です。
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- yenzifei
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こんにちは。 私は教育界の人間ではありませんが、刑法史に関して少々学んでいた者です。その視点から書かせていただきますと、以下のようなことが言えるのではないかと思います。 >連帯責任 それは、おそらく江戸時代の名残で、生徒間で相互監視を促すためのものであるかと思います。 江戸時代は密告社会だとも言われていたと思います。 自分が罰せられないためには隣の家を覗き見、壁に耳を当てて盗み聞きします(実際そこまでしていたか知りませんが…)。 ただ、こうした相互監視が現代社会でどの程度実効性があるかは、不明です。 >坊主 私は、このように強制的で、かつ誰の目にも明らかな“刻印”を施すことは、これまた江戸時代の(いれずみ刑のような)刑罰の名残ではないかと思います。 ファッションでやる分には強制という要素がありませんから、刑でなありません。 昨日まで長髪だった人が、突然坊主になっていると周囲の人間はその理由を聞いてきますし、それでなくても学校あるいはクラスという狭い社会では、その生徒たちが坊主になった理由がすぐに知れ渡ります。 坊主という刻印は、他の人間への見せしめ効果を生みます。 本人の意思を問わない「強制」、外見上だれが見ても明らかな「刻印」、そして相互監視効果が生み出す周囲への波及効果を狙ってのことではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 こどもも言ってましたが「5人組」でしょうか? 相互監視は いらないと思います。 「見せしめ」ですか・・・。 教育に則さない気もしますが・・・。
- makochi
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>こども(小6)が >「宿題をやって行かないと 連帯責任で 体育の授業が >受けられない」 >と 言ってました。 基本的に、疾病や特別な事情を除いて、どんなことがあれ、義務教育においては条件を課して教育を受けられるもの、受けられないものを差別することは、教育基本法のみならず、日本国憲法においても禁じられている行為です。 教師の指導上の方針だとしても、それが言葉だけ(脅し?)なら教師にも弁解の余地はありますが、実施に行なわれていることだとしたら、事件になりますね。 マスコミに言えば、すぐに記事にしてくれますよ。 さて、ご質問の件ですが。 >何故、連帯責任では 指導する立場の人が一緒に 責任をとらないのでしょうか? 厳密に言えば、タバコが発覚したクラスの担任は、校長教頭、或いは教育委員会から監督不行き届きを指導されるでしょう。つまり、事件を起こしたクラスの担任も、内部でですがそれなりのペナルティは受けるものです。ただし、そのペナルティが口頭で注意なのか、指導なのか、減俸なのか、懲戒免職なのかは、ケースによると思います。恐らく多くが口頭での注意に収まっているのでしょうが。 >何故 坊主になることが 責任を取ることなんでしょうか? 反省=坊主にするというのは、諸説あるのですが、古くは仏教における僧侶の剃髪(ていはつ)に由来していて、髪の毛を剃って丸坊主にするということは、出家して俗世間を離れ、身を清めるというところから、事件を反省して再出発するということで行われているともいえます。 また、丸坊主は軍隊の象徴でもあり、戦争中は兵隊の多くが入営時に坊主頭にしたものです。 つまり、高校野球に代表されるように、メンバー全員が丸坊主にするという行為は、仲間の連帯意識を再度自覚させて、軍隊式の上下関係にはめ込んでいこうとする意図があるようにも思います。 いづれにせよ、丸坊主など時代錯誤もはなはだしいのですが、一部の体育会系教師や、年配の教師には、「頭を丸めれば心も入れ替わる」という迷信が、自分の実体験と共に頭にこびりついているのだと思います。
お礼
ありがとうございます。 こどもの件は 調査中です。 学校対応は慣れてます。 ====================== そうなると この 福岡県の教師は 坊主を強要して ダブルペナルティなわけですね。 現在のUSの入隊でも 0.5mmは 使ってるようですよ。 まぁ 平和主義と言いながら 軍国主義を取込んでいる教育現場ってすごそうですね! または 仏教をとりこんだ教育方針なのかも?公立校で? 確認ですが、ミソギで坊主にするのが 時代錯誤がはなはだしいんですよね?
- ozisan
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親は、教育を受けさせる義務があるのに、授業を受けさせないのは、 ある意味、教師の職場放棄だと思います。 連帯責任・・・軍国主義の名残のような気もします。 坊主・・・刑務所で服役している受刑者のイメージが有ったのではないでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 こどもの件は、事実確認から行っております。 また これは 導入部として書きました。 ========================== なるほど 平和主義の憲法の下の 行政の教育者が 軍国主義の名残を 実践したわけですね。 坊主は 受刑者のイメージなんですね。
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お礼
ありがとうございます。 そうですね。発言があっただけでも遺憾なことですね。 「連帯感を持つ」と「連帯責任をとる」とは違うことですよね。 >教員がどこまで子供の心を理解し 理解=連帯感(=communication) なのかもですね。 (相互理解がcommunicationだから当たり前か・・。) 「ラッキー」は大人であり過ぎなのでは?と感じてます。自省を含めてですが、大人気(だいにんきではない)とは自制心を持っててコントロールできることだと。公共の福祉を考えてみるとか。 >見かけで判断する人間が多いことを教員自身が分かっているからですね。 自分が見かけで判断するからなんだと思いますよ。 私は こどもに 罰で坊主頭にしようとは考えません。だって自分が 罰でないのに坊主頭なんだし。 「爪でもよいわけで」と読んだとき、「爪をはがすのかぁ。過激だなぁ。」と思っちゃいました。 >「やってやった」という満足感が欲しい・・・。 この質問にご回答を! http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1728669 ========================= えっ 「ぶつかられて」ですよ。自分からはぶつかったりなんかしませんよ。 スケベオヤジには見えます!もしかして 私のことを知ってるのですか!? ==坊主の話====================== 坊主(丸刈り)にしたのは、高校のときに運動会の棒倒しで負けて 次の日に坊主にしたのが初めてでした。前髪がないと自分を隠せる?感覚がなくなり、気分が前向きになります。 サッカー選手やお笑いの松本やタレントさんでも坊主頭(剃ってはいません)おおいと思うんですが・・。 洗髪時にシャンプーやお湯の量が少ないので環境にやさしい髪形ですし、セットも整髪料も要らずで 寝癖もつかないし。それに おでこをぎりぎりまで洗えますし。 とにかく 否のない髪型です!! でも 雨粒が痛かったり ちょっとものに当たると痛いのが難点ですね。髪の毛が頭が保護しているのを実感できます。
補足
補足です。 質問とは関係ないですが・・・。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1729465