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顔の部分と植物の部分

目は芽、鼻は花、口は茎、耳は実、頬は穂、歯は葉、このほか、額はヌカともいうがこれは米ヌカに通じ、眉は繭と通じる。このように、日本人は、顔の部分名という日常生活に重要な単語と、同じく農耕民族にとって重要な植物や農作物の単語とを結びつけて考えてきた。というような説を聞いたことがあるのですが、安易に信用していいものでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Sasabuki
  • ベストアンサー率50% (79/158)
回答No.2

質問の文中にあげられているものが全てそうだとは確認できませんが、古代の日本で、メやハというのが人間の身体と植物で同じ言葉というのは、こじつけではありません。 古代の日本で一般の人が文字を知らずに生活していたころの言葉を想像してみましょう。文字を知らずに、音だけの言葉の世界で、人間の身体の部位と植物の部位を同じ言葉で表していたという事実はあったであろうと思います。 これは、哲学や原始宗教などと結びつけて考えずとも、 「パンの耳」とか、「台風の目」などのような表現はけして異様な比喩には聴こえませんね。同じようなことだったのかもしれません。 人間も植物も根が同じであるというような思想が古代日本にはあったような話も聞いたことがありますが、そこまで行くと、わたしの知識では確証をあげられません。 これ以上詳しくはお答えできませんが、参考になれば幸いです^^; また、 漢字を使う前から、日本人(?)は言葉を話していたでしょうから、漢字のルーツを考えることは別の問題になるかと思います。

kokutetsu
質問者

お礼

アニミズムというものと関係あるかもしれませんね。わかりやすい回答ありがとうございます。

その他の回答 (3)

回答No.4

 大嘘です。大きい辞書を引けばわかるでしょう。  ちなみに「台風の目」「パンの耳」は、端的にいえば、台風やパンを擬人化したところから起こった表現であり、目=芽説の傍証にはなりません。万葉集の段階ですでに鼻、花には使い分けがあり、文献的に実証可能です。

kokutetsu
質問者

お礼

みなさん、いろいろ教えていただきありがとうございます。万葉集も勉強してみたくなりました。

回答No.3

目的次第ではないでしょうか。目的論ということばがありますが、目的論が軽視されるのは誤りであると同時に応用が効かないからだと思います。つまりだからどうなのですかと言われてしまう場合も多いと言うことです。月は暗い夜道を明るくするために出てくるということを信じてもよいですが、あまり応用は効かないと思います。たとえば、それでは太陽は?と言われると直ちに困ってしまいます。  発音の違いなどからも証明されるかもしれませんが、顔以外のところではどうなのでしょう。ももは桃などはありますが、私はむしろ台風の目とか、パンの耳とか、ポットの口とか釘の頭とか、こういう言い方の始まりが関係していることではないかと思いました。

kokutetsu
質問者

お礼

哲学的な回答ありがとうございます。日本語は、たとえば「る」で始まる語が少ないなど、語頭に使える発音が少ないので偶然に一致しただけかもしれません。

回答No.1

後世の人間のこじつけです。 漢字発生のルーツである象形文字をみれば、全くあてはまらないことがわかるでしょう。

kokutetsu
質問者

お礼

さっそくのご回答ありがとうございます。私としては、こじつけでなければいいなあ、と思っていたのですが、現実は厳しいですね。

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