「正面」と「処理」、どちらか?と聞かれたのならば私は「正面から受け止めること」だと思います。
たとえば地球の誕生って無数の隕石がぶつかりあったその塊だという説がありますよね。たとえるならそういうものだと思います。
苦しみから逃げていることに罪悪感があるのですよね。
私は少々心理学をかじっていますので、こちらの方から説明させていただきますと、この場合心の世界では「超自我が強い」という見方をします。超自我、つまり自分の良心や理性のことで、これは両親からの厳しい躾を甘んじて受け止めてきたけれど、真実の自分とのズレがあると感じるとき、意識的、無意識的な領域での葛藤が強すぎると心身共に身動きができなくなったり、強迫観念などの神経症にかかります。
この強すぎる自我をやわらげるために例えば認知療法などの心理療法があるのですが、もし興味があるのでしたら、セラピストやカウンセラーを訪れることもよい経験のひとつだと思います。
実は私も「~せねばならない」という自分への課題が多すぎて苦しんでいます。これも強迫観念の一つですよね。人は多かれ少なかれこのような観念や義務感をもっていますが、世界の中でも特に日本人って生真面目ですよね。だからこれだけの経済と産業が発達してきた。でも精神疾患を患う人々が増えています。サラリーマンの90%以上は何らかの精神疾患を抱えているそうです。これも強迫観念のツケかもしれません。
前世紀にこれからは「心の時代がくる」と予言されていましたが実際このように実現されました。「癒し」のツール、たとえば瞑想、ヨガ、ホメオパシー、そして身近なところではマッサージやエステなど、癒すための産業が取って代わっているかのように大盛況ですよね。すでに時代が「休む」ということを認めています。そんな時代背景からみても、罪の意識を感じることはありません。むしろ大歓迎なのですよ。
個人の人生に視点を戻すと、そうはいってられない。苦しいことに対する耐久力がなければ身体は力がなければ支えられないように、人生の道に立てることすらできません。でも休まないとその「力」も「力」をつけられない。心も身体も活動と休息を繰り返す過程において、強く、そしてしなやかになっていくのだと思います。
ANo.5さんが「筋肉」と喩えられていますね。次に私は「骨」を連想しました。骨折すると骨はますます丈夫になるといいます。また身体は無菌状態でいると逆に免疫力がつかなくなり病気に対する抵抗力がなくなります。身体と心は反映しあうので、喩えられることは全て、相互で成されうることなのでしょう。
その「苦しみを処理しているであろうほとんどの人」も実は皆不器用で、それぞれの悩みがあるかもしれません。これは一見要領のよさと同義語であるかと思います。苦しみを真っ向から受け止めてひとつづつ乗り越えて、そのつどカタルシスを得て、また大きくなることができるかもしれない。でも「苦しみから逃げた分の貯金」は不測の事態にどれだけ払えるか、だと思います。そのための持久力。でも休息も与えなければなりません。
「>私は些細なことでも傷つきやすく、あまりにも心が弱いです」
傷つきやすいのは心が弱いのではなく、繊細だからです。繊細って言葉とはウラハラに、繊細な人というのは芯から強い人が多いような気がします。実際そのような人は存在します。そういう人たちをみると…繊細じゃなくて素晴らしく太い神経の持ち主だなと思います(笑)。
「>心の強さってなんですか」
私は心の強さは優しさに直結・・・いや最近までそう思っていましたが、自分の痛みを知るのが他人の痛みも知るとは必ずしも思えないと考え方が変ったので、直接ではなく「間接的」に優しさも強くなると思います。
本当の優しさは強さに裏打ちされているのであって、それは苦しみを処理し続けたことによるのではなく、不器用でも正面から受け止め続けてきた強さに育てられたものだと思います。本当に逃げるときは、その優しさを捨てるとき…であると個人的には思っています。
だから頑張って・・・じゃなかった!
お互いほどほどに。( ^-^)_旦""
私こそ「ストレス発散、ガス抜き、癒し」が必要ですもの。
PS.下に参考になるスレッドを挙げておきます。ANo.4さんのご意見が参考になるかと思います。