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水子のご祈祷
水子のご祈祷に行こうと思っています。私は関西に住んでいます。どこの神社やお寺に行けばよいのでしょうか?
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- takenon
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私も昨年、ご祈祷をしてもらいました。 その時、とても辛い思いも心救われる思いもしました ので、参考になればと思い、書かせていただきます。 同じ辛い思いをして欲しくないので・・・。 最初に行ったお寺は最悪でした。四天王寺の近くにある 某お寺です。(看板もたくさん出ているので、すぐに 分かると思います)ここは、下記の方が書かれていますが 商売のための供養って感じでしたし、供養に来た女性を 散々罵ったあげく、(ナゼか男性には罵らない) 「俺様が供養してやるから、毎月これだけの金をもって、 供養にくるんだぞ。」と言われました。 その場にいた何組かの人も怒りに震えていたと思います。 私のダンナは、何度殴りかかろうかと思ったそうです。 (笑) 私達はどうしても、自分の大切な子供の命をこんな ところで供養して欲しくない!と思い、違うお寺を たくさん探しました。 そんな私達が、供養しなおしてもらって、今も手を 合わせに行っているお寺は、阪急宝塚線曽根駅にある 「東光院 萩の寺」です。 (下にURLを記載しておきますね) ここは、対応もあたたかく、小さなお寺なのでひっそりと していています。 秋にはたくさんの萩の花が咲く事で有名なので、少し 人がいるかもしれませんが・・。 そして、下記に書かれているお坊様と全く同じことを、 おっしゃっていました。 供養も電話で予約するので、他の人と重なることも ありません。(前者のお寺は、めいっぱい詰め込まれた) 私達は、何かある毎に近況報告をしに、このお寺を 訪ねますが、とても落ち着いた気持ちになりますよ。 亡くなった赤ちゃんと、ゆっくり対話してあげて下さい。
- 参考URL:
- http://www.haginotera.or.jp/
- jun95
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すでに、専門家の方からの回答がありますが、さらにご供養されたいというのであれば、そういうこともよいのではないかとわたしは考えています。私が行ったことがあるところでは、箕面の勝尾寺もいいとおもいます。
- amida3
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祈祷ですか?もし、仏教徒でしたら「供養」ということになります。宗教行事ですので、まず、ご自身の宗教を確認しましょう。仏教でしたら家の宗派を確認し、その宗派で行うのが普通です。 さて、ご相談の水子についてですが、実は、最近では本来の水子の意味ではなく、中絶堕胎から流産まですめて水子と言っているようですね。(本当はちがいます) 最近、水子の霊がいろいろな障りをもたらすと言って、その供養をさせる寺や宗教が盛んに流行し、マスコミにも取り上げられたりしています。 ご貴殿が流産なのか、堕胎なのかわかりませんが、流産なさる方、他方無軌道な快楽の果てにおおっぴらな妊娠中絶をなさる方、さまざまでありますが、これらの昨今の事情も手伝って水子供養なるPRが一部では一層盛んになっている状況です。 では本当に水子の供養が必要なのでしょうか?(水子という理由で特別な供養が必要なのでしょうか?)よく考えてください。 たしかに仏教では生命の誕生は受胎の時にあると考えます。ですから水子といえど も、この世に姿を現さなかっただけで、生命をもった立派な人間であるとみなければなりません。仏教では満年齢よりも数え年を用いるのも、こうした理由があるからです。したがって、私たちが人の生命を大切に思うと同じように、流産や中絶した未だ見ぬ赤ちゃんの「いのち」を重んじなければなりません。それにしてもその水子を供養しないと、私たちに祟(たた)られるなどということはあるのでしょうか。いえ、断じてありません。祟るのは自分自身、障りの原因は全て私たち自身の心の中にあるのです。 なにかあると水子に責任転嫁するかのように、水子がたたるが如くいうのは大きな間違いです。「水子のせいで」とわが子である水子を悪者にしてしまっているのは、私たち自身なのです。 水子という用語も、本来、江戸時代の飢饉などで、出生後、口減らしで故意に殺害した子供に対する用語だったのが、現代(もっともこの20年前ごろから新たに生じた言葉ですが)では、主に人工中絶した子を指し、その後流産した子をも含むようになってきています。 現在、浄土真宗以外の特に新興宗教的寺院等で行われている水子供養というのは、わずか20年ほど前からできた新しい風習です。水子が「タタリ始めた」のもその頃からのようである。単なる迷信、いや、単なる脅しでもあります。 先祖供養と同様、世間一般でなされている形の水子供養など、仏教では本来必要のない世界です。その点に関しては、水子供養寺や霊能者と称する者たちによる「霊感商法」でしかないことを強調しておきます。 ただ、いわゆる「水子」をつくると(自然な流産などの場合もそうですが、特に、人工的な堕胎を行った場合)体調が崩れたり、人間関係などに亀裂が入ったりすることはあります。 これは、タタリではなく、自らがなした行為の結果であったり、自然の摂理として縁無く命終わっていくにすぎません。 堕胎の場合は、理由はともあれ、ある意味、最も自分に近い生命である子供殺しで ありますからその理由が自分の快楽のため・・・などの場合、そのような意識が自分の中に存在していないかどうか、もう一度見つめ直すべきであります。 親の側の理由によって子供を「殺した」ことがあるならば、形ばかりの「水子供養」など、何の役にも立ちません。子供殺しの罪の償いこそが本当は必要なのです。 結論から申しますと、亡くなった水子が迷っているのではなく、生きている私たち が、実は迷いの存在なのです。人の言うことが気になり、直ぐに迷ってしまうので す。人生順調に行っているときは、自分は偉く強いつもりでおりますが、人間とは、非常にもろく弱い存在です。車で道に迷っているごとく、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、いつ事故を起すかわかりません。 私たちは、しっかりと地に足をつけて人生を歩んでいるつもりですが、そうでもな いようです。特に、この目には見えない悪霊には、現代でも多くの人々が苦しめられているのです。それは、亡き方を悪霊にしてしまっている私の側に問題があります。 人間は、順調なときは、すべて自分の手柄にしますが、ひとたび、うまくいかなくなると、何かのせいにするのです。悪いことがあると、先祖のせいにしたり、自分がおろした水子のせいにしたり、墓が悪いとか、仏壇の向きが悪いとか…、きりがありません。それを「迷い」と言います。 しかし、どうしたら、この弱い存在の私が、人生を迷うことなく、生ききることができるのか。それは、「どんなことがあっても、あなたを捨てることがない」と、わが「いのち」を支えてくださる「まこと」なるものに、出遭うしかありません。その「まこと」とは何かを明らかにして下さる教えが仏教です。 私たち、弱い人間が、強がるのでもなく、居直るのでもなく、弱い自分の存在をそのまま受け入れ、弱いなりにごまかさず生きていく、そういう人生へと導いて下さる「まこと」が仏さまなのです。ただ、上記を読んでもそれでもといいますか、考えを新たに、通常の死産した子供と 同様に通常の仏事を営みたいとお考えのようでしたら、それはそれで、ご自身に縁のある宗派の寺院を訪ね相談しましょう。 単に「水子供養」を商売としているところに出向かれても、それは供養ではなく、単なる自己満足に終わってしまいます。 合掌 (お説教になってしまい、申し訳ありません) 以上、amida3@坊さん でした
ここが有りますが、参考にしてください。 通 称 円 満 寺 http://www.enmanji.com/