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プラスのイメージが持ちにくい
こんばんは タイトルにもあるように、私はいま自分自身について将来的なプラスのイメージが持てずにいます。 理由として考えられるのは「容姿の変化」「学力(意欲)低下」と思われます。 まず容姿の変化ですが、私は成長盛りの小学校・中学校の時からダイエットに執着していて高校時に初めてダイエット成功しました。(痩せすぎでしたが) 小中の写真を見てもそんなに太っていなかったりして、おそらく幼い頃に言われたことを根に持っていたのだろうと思います。しかし、大学に入ってから部活で多大なストレスを経験して以来食べることでストレスを発散していくことを学んでしまい、高校時にやせたにもかかわらずリバウンドで今に至ります。 そういう自分に対して、嫌悪感を感じています。過去は痩せていたのに現在の自分はあきらめているように思われます。長い目で見ていこうと思い、こつこつダイエットした時期もありましたが、ストレスがたまる時期(主に生理前)に過食傾向に陥った後は体重を計る気もしなくなります。 思い当たる節は、高校の万能感を未だに捨て切れていないために現実を受け入れるのが難しく、これからどうするのかという明確なビジョンが立てられないのかと・・ これは勉学に対しても同じです。学業も同様に高校時代に最も頑張っていました。先にも述べた万能感が残っているのか、そんな時代と比較して今の集中力のなさに対して落胆しています。 高校時代は自分の容姿と偏差値がアイデンティティだったのもあり両方ともに必死でした。それに比べて現在は他にも将来にわたってやっていきたいスポーツも見つかり、心の余裕はできたのですが、自分がまだ気にしている部分として「容姿」「学業に対する意欲」の自信がありません。学業は現在大学院生ということもあり、気にせずにはいられないところです。 長文でわけわからなくなってしまいすみません。 おねがいします。
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- ts3759
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>思い当たる節は、高校の万能感を未だに捨て切れていないために現実を受け入れるのが難しく、これからどうするのかという明確なビジョンが立てられないのかと・・・ 「楽しく生きる」「やりたいことをやってみる」と言うプラスイメージを持つことは出来るかと思います。 それを絶対に見失わないようにしてみるのはどうでしょう。 >これは勉学に対しても同じです。学業も同様に高校時代に最も頑張っていました。先にも述べた万能感が残っているのか、そんな時代と比較して今の集中力のなさに対して落胆しています。 集中力は落ちていても、受験勉強と大学院ではやっている内容は当然違いますよね。 全く違う勉強に似合う取り組み方(スタンス)を体が勝手に覚えたと思って良いんじゃないでしょうか? 集中力をそれほど必要としなくても、自分が思っている以上に実力を発揮できるのかもしれません。 明らかに転換期に入っているのでしょうし、受け入れ難い一面もあるでしょう。しかし、それは全てあなた自身なのです。今まで自分の良くないところが見えてこなかったものが見えてきただけでしょうし、容姿や学業に対する意欲は、今後のあなたの進路にどれほど必要なのでしょうか。 あなたの人生は、見た目と数字だけで判断されるはずはありません。 どんな人間にも欠点や短所は存在します。それが無い人間はもはや人間で無いか、死んでいるかのどちらかでしょう。
- rattan3
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No.2のお礼文中のお返事となります。 評価を受けることも、今の社会では日常のサイクルとして、システムとして成り立っている様に思います。 評価を気にしなければ、社会生活になじめなくなる怖れも出るでしょう。 少なからず影響を受けるものですが、少なからずでも意識の持ち方で過剰な自覚を生むものです。 むしろその問題に対する取り組みが、方向として望ましいかどうかとの判断も必要でしょう。 >本当はあまり納得していないにもかかわらず社会的な価値観を取り入れようとしているのでしょうか。 自分自身を評価する基準にしても、周りに同調していくことと協調していくことでは違いますし、周りからの評価を優先するのなら妥協も生まれようモノです。 良さを伸ばしてくことで協調も生まれるように思います。 周りからの評価は気になるものですが、気にしすぎて我を忘れることもあり得ます。 ネガティブな評価は、自らが価値を感じない限りはよい結果は生まれないでしょう。 一所懸命のサイクル、価値のあるモノへの取り組みが日常にとけ込むことがまず必要と思いました。
>自分の容姿と偏差値がアイデンティティ 容姿は違いますが、僕も偏差値はアイデンティティでした。 これは、学校が悪いというか教育が悪いとしか言いようがありませんよね。 教育は価値ある贈り物でなければならないというアインシュタインの言葉が僕の辞書の指紋が多くついているページに書き込まれました。 今の世代は、学歴社会と実力社会の境界を体験した世代だと思います。 学歴ではなく、実力、つまり、学校で認められても仕事をしたときに認められるという保証は無いということですからね。 何も知らない子供達は、学校の勉強をがんばることによって親から、先生から褒められる。何のために勉強するかも教えられずね。 と、教育の愚痴はここまでにしてと。 ―――――――――――――――――――――――― まず、人は働かなきゃ食糧を買うお金は手に入れられないですよね。食糧が買えなきゃ、食べるものはありませんよね。食べるものがなきゃ何も食べれませんよね。何も食べれなければ生きていけませんよね。 あくまで「生きるため」の勉強ではなく、「人生を楽しむため」の勉強なら、マイペースの勉強で良いと思います。 しかし、「生きるため」の勉強なら、しっかり会社に就職し、そこで価値を生産できる基本を身につけなければなりませんよね。そのために勉強をするのです。 そして、学校で学ぶことが勉強ではありません。学校で教えてくれないことは自分から別のところで学ぶしかないのです。これは「現実」です。 勉強するという考えの目的を「アイデンティティのため」ではなく、「自立して人生を送るため」と改めて見てはどうでしょうか? さて、ここのポイントなのが、「今必要か?」ということです。 人は「時期(場合)」によって求めるものが違います。働く必要がない時には「楽しむことができる何かを」、就職する時には「就職することを」、働いている時は「結果を残すことができること」を、時期によって違います。 今は勉強しなくてもいいかもしれません。しなかった場合、その結果を負うのは自分自身です。良くも悪くもです。 今は必要に迫られていないかもしれません。必要に迫られてからでは遅いこともあります。 アリとキリギリスです。 これは、「容姿」の方にもいえることです。必要に迫まれればやる気を出します。 ――――――――――――――――――― 「明確なビジョンが立てれない」とありますが、無理して立てる必要もないでしょう。最低限しなければならないことを基本として立てればいいのです。 その上に、自分の人生においてなんとやらが思いついた時に付け加えればいいだけのことです。 ――――――――――――――――――――――― たぶん、vorticeさんは「他人の評価」で自分自身を確立しているのだと思います。日本の教育を受けていればこうなる人は多いですけどね。 これを「他人の評価」ではなく、「自分の評価」で自分自身を確立できればもっと楽というか、別の生き方が見えてくるのではないでしょうか? もちろん、仕事をすれば、自分の評価ではなく、「他人の評価」で自分自身を見られます。 でも、いつも、仕事をしているわけではないはず、上手に「自分の評価」と「他人の評価」の区切りをつけることができればいいのではないでしょうか? 集団の社会の中で生きる上では「他人の評価」を気にしないで生きることができないと思います。 でも、自分の人生を楽しむためには、自分でがんばったと褒めるとか、これが楽しいとか、これが幸せとか、自分で自分自身を気持ちに素直にならないと楽しめないのではないでしょうか? 「他人の評価」=「自分の評価」が悪いと言っているのではありません。でも、これだと「自分の本心に偽って」他人の評価を求めるのではないでしょうか? うーん、言葉で説明すると難しいですね。 過去は過去であって、今は今、未来は未来なので、未来と今のために生きるというように考えていかないとあとあともっと後悔するような気がします。 という僕も、小学生に戻りたいと思う今日この頃です。でもそれじゃ駄目です。何を言っても、辛抱する時期だと思います。よく解らないけど、僕の経験からすると、今考え方がいけないのは解っているけど、なかなか変えられなくて「焦りや不安、自己嫌悪」など気持ちでいっぱいだと思います。今の辛い状況を乗り越えた時、きっと「生きるって素晴らしい」と思うと思うので何とか乗り切ってくれればと思います。 若いうちは悩むものです。 以上、参考にならないような回答だと思いますが、少しでも参考になれば幸いです。
- rattan3
- ベストアンサー率35% (5/14)
少し辛口になるかも知れません。ごめんなさい。 >将来にわたってやっていきたいスポーツも見つかり、 これはプラスのイメージだと思いましたが、どうですか? アイデンティティということは、かみ砕いて言うと『自我』ともとれます。 『容姿』と『学業に対する意欲』は、現時点では執着心のようです。それらはマイナスのイメージととれます。 プラスのイメージとして何を持とうとするのかにもよるのだと思います。 今は情報によってなんでも理解に及ぶ時代ではありますが、極端に言えばプラスという言葉のイメージでさえ情報として得られるのです。 ただ、情報というのは得てして発信する側の意図や感情、思想に影響を受けやすいモノです。 あなたの主観と情報源の主観との相違点があれば、論理は組み立てられますが、結果が伴わなくなります。 結果が伴わなくなれば、仮定から発展しなくなり、自らの結論に不安や疑問を持ってしまいます。 何かを見つけようとする意志をお持ちでいらっしゃるようですし、見つかったことを一所懸命取り組むことによって雑念や、雑念と化した論理をうち消し、良いサイクルをも生み出せるでしょう。 良いサイクルは発展性を持つものです。そこから将来への夢や希望も生まれるものと思います。 嫌悪感への取り組みよりも、見つけ出したものやこれから見つけようとする気持ちを大切にしていくことが結果を生むことになるでしょう。 気になることを放置するようで心苦しいと思います。 放置するのではなく、方法として後回しでよいと考えて差し支えないと思いますよ。 結果を出すことが肝心。 結果は発展の先にあるもの。 改善とは違うようですよ。 発展を心がけて、頑張ってください。
お礼
ありがとうございます。 >嫌悪感への取り組みよりも、見つけ出したものやこれから見つけようとする気持ち この考え方はポジティブ心理学ですよね。マイナス面に囚われているだけでなく、自分の持っているプラスの面を強化させようということですね。 >『容姿』と『学業に対する意欲』は、現時点では執着心のようです。 その通りです。また、容姿に関しては、社会的な価値観と自分の価値観がずれており、本当はあまり納得していないにもかかわらず社会的な価値観を取り入れようとしているのでしょうか。 重ね重ね質問になってしまい申し訳ありません。
こんばんは。お悩みですね。気持ちはわかります。 僕もどうすれば自分に優しくできるか?その具体的 方法を知りたくて質問中の身ですしね。 ただ、つたない経験ですが、 「能力万能主義」は危険だと思います。 偏差値も容姿もスポーツも優秀な人間。 世の中にはそういう人もいるでしょうけれど(正確 にはそう見えるだけでしょうけど)、 現状に満足せず、自己向上を目指して自分を磨き 続けると、最後はどうなるとおもいますか? 僕は自分が神様になるしかない!事に気づきました。 その時から、僕の目標は少しずつ、現実味を帯びる ものになってゆきました。 「時々(苦笑)」自分に優しくできるようにもなった よ。参考文献はふたつあります。 自分はタダの人間なんだ!と現実に立脚したい気持ち が強いならば、『自信』加藤諦三(確か文庫本有) 自分の生きているプロセスそのものが実は人生であり キャリアである。つまり、目標をあらかじめ設定する のも考え物だ、という発想の逆転を考えたいならば 『スローキャリア』高橋しゅんすけ(漢字忘れた) あなたなら、きっと理解できると思います。もしも 納得できたなら(=心が同意したなら)あなた流に アレンジして、是非実行に移してみてください。 参考になれば幸いです。
お礼
ありがとうございました。 参考文献も目を通してみようと思います。 『自分に優しく』ですが、自分に甘くとは異なり加減が難しいものですよね。 おっしゃっていただいたように、自分は一人の人間なんだということを忘れずに生きて行きたいと思います。
お礼
ありがとうございます。 本質をつかれているようなところがありました。 >自分の人生を楽しむためには、自分でがんばったと褒めるとか、これが楽しいとか、これが幸せとか、自分で自分自身を気持ちに素直にならないと楽しめないのではないでしょうか 自分自身の気持ちを素直に受けとる、ということでしょうか。『このように感じてよいのだろうか・自分に甘くないだろうか』等、批判的な目で見てしまう癖がついていると思います。 >未来と今のために生きる きっちり文として提示されると、自分の中で漠然と考えていただけでなく身に染みやすいです。 自分の人生を生きているのだから、ある程度は自分で評価していかないとしんどいですね。