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ホームレスの方々と お乞食さん
「乞食と同等に扱った」と言ってホームレスの人たちが小泉首相に抗議しているニュースが流れました。ホームレスと乞食の違いを意識していなかった自分に吃驚しております。自覚の為にも教えてください。 歳と共に、寒くなると、橋の下にいる自分を幻想するようになりました。老妻が寒いよ寒いよと震え、自分は北風を背に妻を抱えその背中をさすっている図です。 「お乞食さん」と子供の頃大人たちは呼んでおりましたが、軽蔑感は無かった様に記憶します。貧乏でしたが、入り口に立つお乞食さんの手に食べ物とか小銭とか渡すのは子供の役でした。托鉢僧に渡す時と同じ感覚でした。お乞食さんがホームレスの方々を“自分たちを下に見た”と言って抗議しないかなとさえ感じました。 ある人はどこかの政党が金を払って仕組んだのだと言います。或いは、被害者の煽り立てを得意とする新聞社がお膳立てしたのだとも。エッと思いました。ホームレスの人って教養高い人が多いいと聞きます。難しい本を読んでいるのを何度も見かけました。「その様な人ばかりではない、今は」とも言われて納得もしそうなのですが。
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現代の日本では自由経済社会の中で同じ人間とはいえ経済的に差が生じたり、今の制度から脱落してしまった人々をどう扱うかという新しい倫理観が確立されていません。人をリードする立場の人は一般の人以上に、人間を経済面ではなく人間として見ることが必用とされるわけです。このような問題が生じるひとつの原因は日本人に宗教が欠けているからだと思います。昔の日本人はもっと宗教心があったので、無意識に人を経済面から差別することがいけないことだと理解していたと思います。神や仏の前では裕福な人も乞食も皆平等という考え方が広く受け入れられていたわけです。ホームレスの人に教養があるかどうかは問題ではなく、ホームレスの人を人間として扱うかどうかが問題なのです。 経済競争、社会競争で成功したかどうかが論点ならホームレスの人は敗れた人かもしれません。しかし、彼らは同じ人間です。制度が変り、社会のルールが変れば又 立ち上がる力を持っていると思われます。 欧米ではキリスト教を中心に神の前の人間という考えが確立しているために、人間的に平等に扱うという習慣があります。日本人から見るとダブル・スタンダードのように見えますが、大会社の社長でも、一歩事務所を出て私人になれば、貧しい人とも平等に接する技を身に付けています。この面で遅れをとる日本人は、海外でつまらうことで従業員とトラブルを起こすケースがあります。使用人は職場でこそ上司や雇い主に敬意を表し指示に従いますが、私生活ではまったく対等に振る舞います。教授と学生の関係も同じです。残念ながら日本人が変るのは今の10-20代の人が社会の中心を占めるまで待たざるをえないような気がします。
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- nonkun
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ojin60さんが子供の頃見たのは幻です。なぜなら「乞食」は放送禁止用語であり、禁止の理由が『日本という国は日本でも有数の福祉国家である。失業者や病気で働けない人などに対して国が保障を行っている。つまり日本の社会において”乞食”というのは存在しない。したがって”乞食”という言葉を使用するのは好ましくない』ということらしいのです。 ですから総理が「乞食でも字が読める。」と言うのは間違いです。日本人には乞食はいないんですから。(^^; と、屁理屈はここまでにして。σ(^-^;) 乞食は学校に行っていない可能性はあります。子供の頃から乞食の可能性があるわけです。しいていえば生まれながらに乞食の可能性もあり得るのです。 しかしホームレスの人は過去は家を持ちもしくは親の家に住み、どこかの企業で働いていたり、自分で商売をしていたり、またはどこかの学校で勉強している途中で、その後本人あるいは家族が失業したり多額の借金をしたりしてホームレスとなることが多いのです。ホームレスの人は生まれながらにホームレスではありません。 そのためホームレス=字が読めないという理論は成り立ちません。ホームレスの人たちは乞食と同列に見たことに怒っているのではありません。字が読めないほど無教養だと言われたことに怒っているのです。
お礼
ありがとうございました。 含蓄のあるご説明 良く理解いたしました。 皆様にも感謝いたします。 閉じます。
- biginer
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>ある人はどこかの政党が金を払って仕組んだのだと言います。或いは、被害者の煽り立てを得意とする新聞社がお膳立てしたのだとも もしそれが本当なら事実が表ざたになった時は「やらせ」として大問題になるでしょう。 そんなリスクをおかすことはどこもやらないでしょう。 そういう意見を鵜呑みにすることはホームレスの方々に失礼だと思います。
お礼
お叱り頂きまして、ありがとうございます。 リスクの無視はしませんよね。 ホームレスの皆さんごめんなさい。 関係者の皆さんごめんなさい。 ある人が取材で他のホームレスから聞いたと言うのも今は嘘だと感じました。不確かな事を元に質問した事を心より反省いたします。読まれた皆様お許しください。
ホームレスのプライドというのは、「物乞いはしないぞ」という点にあるのではないでしょうか。乞食というのは文字通り「食を乞う」のであり、「食べ物を恵んで下さいとたのむもの」であるとするならば、ホームレスは他人の恩情にすがったり物乞いしたりはせずに生活しているのだという誇りがあるのでしょう。 資本主義の競争社会で落ちこぼれたドロップアウト組になってしまったという自虐的な感覚はあるにせよ、人様にすがって生き長らえているわけではない、というのは重要なポイントなのかもしれません。 政治的な謀略というのはあり得る話でしょうが、「失言」をほじくり出して小泉首相の人間性に疑問を持たせよう、という作戦かな、という気がします。あまり効果は期待できないのではないでしょうか。「それが事実なら、断じて許せない」と感じる程のインパクトもないように思いますが。乞食と呼ばれる人がいるなら、彼らの人権問題はどうなるのでしょう。 差別用語などを問題にすると、あらたな差別を作る事にも繋がりかねないと思っています。
お礼
ありがとうおございました。 読んで字のごとくでしたか。質問が恥ずかしくなりました。でも、明日はわが身といつも感じている自分としては、崇高を維持できるか不安です。伴侶の為ならプライドを捨て食を乞うだろうな。 以前ニュースでマンホールの中へホームレスが病死した妻を弔ったと言う記事がありました。二人暮しの老夫婦の餓死発見ニユースなどもですが、責任者たる夫の無念の心情を推察するに、感極まる思いがします。 下品に脱線お許しくだし。
- searchingboy
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言葉だけをを捉えて,差別とかいうことについてはいつも疑問たを持っています.乞食がわるくて、ホ―ムレスがいいといいますが,何が悪いのでしょうか,かってルンペンということばがありましたが,差別だといって使わなくなりました.その当時としてはルンペンはハイカラ(いわば高級な)ないい方でした.それが時と共に差別といわれて来ました. こらように言葉尻だけを捉えて。なんでも差別では差別はなくなりません。言葉の中の感情が問題です.その感情の表現で差別かどうかでしょう.いくらとかホームレスの言葉がいいといっても,侮蔑していうのと,しないでいうのとで、違いが大きいと思います.一方は差別している人,差別とていない人です.これはその人の発言か,あるいは,文章の表現の全体でで捉えないといけないと思うのです. 今使っている言葉が時が経つに使いなれて.差別という事になっているとなります.そうなれば、また新しい言葉を作ることになりますが、差別はなくならないでしょう. 「かたわ=片輪」「めくら=目暗」という言葉のどこが差別でしょう.「かたわ=片輪」は 車の両輪が1つ(片方)に残った状態を、直接に「1足なし」より優雅に言い換えたことばと思います.「めくら」は目が暗くなった人のことと思います.こんな言葉だけを捉えても,絶対差別はなくなりませんでしょう.今使っている「身障者」「ハンディキャップ」という言葉も差別という人がでてきます.それこそ差別をあおっている人に思います. 大切なのは人に差別するなという人自身が差別しないことです. 「差別しない」という啓蒙も大切だすが,自分自身人が差別しない信念と行動がが必要です.そして自分以外の人がそれを実践してこそ、そのことで差別がいけないという事に気がつけば次第になくなると思います.この問題は,人がいる限りなくならない問題です.
お礼
ありがとうございました。 ルンペンって懐かしい感じです。戦地から帰還して身よりも職も無く闇市などで屯している元兵士だと思ってましたが、いまMSのBookshelfBasicで引いて見たら、ぼろ・古着の事。ですって! かように自分は無教養なんだなと、感心して居ります。そんな私ですが、おっしゃる事に、ご無礼ながら同感いたしました。 差別って、ある一面では、被害者が加害者になるための武器かしらと感じます。、、、危険だな、こんな発言は利口な方はしないものでしょうし。
お礼
ありがとうございました。 このようなすばらしいご意見を書く方を心より尊敬いたします。羨ましくも感じます。一字一句私のようなものでも染み込むように判るのです。 PC関係の書物もこのような方が書いて下されば理解できるのに、、、。最近ウスウス感じていますことは、飛びぬけて優勝な方の文章は自分にも理解できると言うことです。感謝を込めて。