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卑しい心根

幼稚園の頃、敬老の日に参観日がありました。終わりの時にあんこのお餅を各園児が祖父母にお礼を言って手渡す場面があったのですが、私は大々好きな祖母に「これ、食べんとってや」と言って渡しました。祖母は笑顔でうんうんと頷いてくれました。帰宅して「あれ、どこ!」と聞いた時、神様みたいな祖母の笑顔が薄く感じたのは罪悪感があったからでしょうか。美味しくなく後悔しました。 この思い出は何十年経ってもわすれません。それなりに世間に揉まれ、簡単な仏教の本なども読んで精進しているつもりなのですが、先日、あんこのお餅を買ってきて、祖母の写真の前に置くこともなく、勇んで食べている自分に気付いた時、愕然としました。幼稚園のままなのです。 あと、だらしない格好が嫌いなので、身だしなみは整えて外出しますが、得意になっている自分がいます。何様なんだと思います。 人間は生まれ持った卑しさを克服できないのでしょうか? やはり、私の努力が足りないのでしょうか?

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回答No.7

ANo.5で、ご回答させていただいた、Robin_Hoodです。 そうですね。 他に与える、あるいは他に何かをしてあげるというのは、一般の人でもされていることなのですが、多くの場合、その背景に少なからずや“見返り”を求める心が存在しています。 「喜ぶ顔が見たい」というこの“見たい”ということも、自己への見返りであることに気付かれるかと思います。 この“見返り”を求める心が“自利(自己の利益)”というわけです。 裏切られたとき、あるいは、自分の好意に対して反するような対応を返されたときに、怒り、不満、傷付く、疑うといったような“苦”を、何故、お感じになられるのかということを、冷静に考えられると良くお分かりになるかと思いますが、このようにすべて“見返り”を求める心が存在していて、それを満たされなかったことにより起こっているわけです。 ですから、一生懸命、他のためにと思い何かを実践したとしても、そこに“見返り”を求める心が、0.001%でも存在していたとするならば、その分だけの“苦”を味わうことになります。 よって、他人の言動や周りの環境が、自己の苦しみの原因そのものではなく、それは単なる自己の“苦”が引き出される“条件”にすぎないだけだということがお分かりいただけるかと思います。 したがって、仏教においては、すべての苦しみは、他から受けるものではなく、“自己の因”にあると説いています。 つまり、外的な要因に苦しみそのものに実態があるのではなく、自己が自我に捕らわれているがゆえに、自己愛に捕らわれているがゆえに、“苦”が生起するのだということです。 「人は、自己を愛するがゆえに苦しむ」という言葉がありますが、それはまさにそういうことを意味しているわけです。 自利を求める心、つまり自己愛(=エゴ)が、苦しみを生み出しているというわけです。 人は結局、自分を一番愛していて、愛する自分のために他に対して何かを行う。それを「他人のためにやっているんだ」と錯覚します。 “利他”の実践は、他の利益のみを考え、自己の見返りを一切求めない心の働きなわけですから、一方通行なわけです。 よって、相手がどういう言葉を返そうが、どういう態度を返そうが、それによって苦しむことは一切無いわけです。 “利他”は、他の利益のために、ひたすら与えるという行為を成すわけですから、一時的に、自分はいろいろな面で失うものが多くなることは事実だと思います。 しかし、カルマの法則(わかりやすくいうと因果応報ですね)が存在するため、実際は、未来において、あるいは来世において、与えたものはすべて自分に返ってくることになります。 このとき、言葉や行為における“与える”実践だけでなく、心が伴っていれば、その功徳は、何倍にも膨れ上がります。 よって、例えば、言葉や行為において、1与えたとしても、心が伴っていれば、10とか100とかになって返ってくるわけですね、簡単に例えるとすれば。 ですから、仏教においても「心がすべて」だと言われ、“心”が重要視されているわけです。 言い方を変えれば、心が伴っていない、あるいは心がもし反対の意識であるとしたならば、その行為や言葉は、大きな力を持つことができないわけです。 これは一般的な道徳でも「心が大切なんだよ」というような言葉で表現されることがあるかと思いますが、まさに確信をついている真実だとお分かりになるかと思います。 では、心が伴わないうちは、行為や言葉は無意味なのか、という問題になりますが、行為や言葉と、心は密接な関係にあり、互いがその影響を受けますから、最初は心が伴わない、あるいは心が反対の意識を持っていたとしても、行為における実践、言葉における実践を少しづつ積み重ねることで、次第に心から実践することができるようになります。 これは、必ずそうなります。 ここで大切なポイントは、「し続ける」ということですね。つまり少しの努力の積み重ねによって、自分を変えることが出来るわけです。 「継続は力なり」という言葉もありますが、まさにそういうことです。 そのためには、謙虚さが必要になってきます。 謙虚さがないと、たゆまぬ努力というものを、人はなかなかできませんから。 謙虚さを生むには、周りに対する感謝をまず、お始めになられると良いでしょう。 この感謝さえも、最初はなかなか上手くできないかもしれませんが、よくよく考えてみれば、我々が食べるということ一つとっても、多くの生命の犠牲の上に成り立っているわけですし、洋服一つ着れるというのも、生産加工する多くの人々の労力やその材料となっている動植物の存在があってこそ成り立っているわけですから、視野を広げると、それらすべての存在に感謝できないことはないと思うんですね。 あなたの文章などから私が感じるに、感謝や謙虚さは、素直に実践していけるだけの素養はすでにお持ちだと思いますので、まずは、何かの行動が伴わなくても良いと思いますので、暇な時間を見つけては、心の中で謙虚さや感謝を、先にあげたようにいろいろな事例でイメージし、心の中で回想されると良いと思います。 それによって、心の中にある一種の暖かさ、やわらかさにも似たようなものを、次第にお感じになられてくると思いますから、それが一定に満たされると、それに対して恩返ししたいという気持ちが現れ、言葉や行為においても、“利他”を意識して少しづつ実践できるようになってくると思います。 過去において、他に与えたものはすべて自己に返されると表現しましたが、当然、苦しみを与えれば、苦しみが返されることは、逃れようのない事実です。 どんなに良い行為、言葉、心の働きをたくさんしたとしても、良くない行為、言葉、心の働きをしたことが、帳消しされるわけではありません。 良いものは良い因として自己の深い意識にプリントされ、それによってのちに善果を生み、良くないものは悪因として深い意識にプリントされ、それによってのちに悪果を生みます。 これを“反射業”といいます。(業=カルマという意) 今、あなた自身、良い因の貯金を果たし、良くない因が返され始めているときなのかもしれませんね。 ちょっと辛いかもしれませんが、“因”は“果”をもたらした時点で消えていきます。 ですから、どういう結果が身の回りに起ころうが、少し耐えて、それに対してできるだけ心を動かさないようにし、悪因が死滅するまで待ちましょう。 そして、未来のために、少しでも良い因を今のうちから積むことを意識されてみて下さい。 すべての生き物は、この「カルマ」の法則から逃れることはできないため、苦楽を経験し、一喜一憂するわけです。 最初はなかなか上手くいかず、ご苦労なされるかもしれませんが、これらの実践は、未来のあなたにとって多大なる宝物となることは間違いないと思います。 仏教的なお話が中心で長文となりましたが、ぜひ、良い転機とされて、頑張られてみて下さい。 応援していますね。

inca
質問者

お礼

Robin Hoodさん、ありがたいお話を親身になってして下さってありがとうございます。 仏教はすごいです。本当に素晴らしいです。このような考えを習得するためには、輪廻転生を繰り返した時間が必要になるのがわかります。私は方法が分からなかったので、与えられた家事や子育てを一生懸命にしてるのですが、それによって何かを得ることを期待していました。 正直申し上げて、利他の実践はレベルが高すぎて及び腰になります。ただ、照れ屋なので、気持ちがあった時も言葉にしない時があるので、優しい気持ちや労わる気持ちが湧いたときは、気持ちのままを言葉にするように心がけようと思いました。それを忘れたり失敗しながら続ける。56億年かかりますね。 因果についてとても私的な事なのですが、私は両親に傷つけられて、この部分を突破出来ていません。しかし、過去に自分がそういう親だったことを認識したら、「どうもすみません」という気持ちとともに、それなら仕方ないと溜飲が下がりました。理不尽なことに合点がいかず、疑問だらけでしたが、昔の自分がやったことだと思うと不思議に納得してしまいます。きっと、私の言ってることは的外れでRobin Hoodさんも苦笑されていらっしゃると思いますがお許しください。 反射業のお話は感動しました。 何かで読んだのですが、お釈迦さまは2000年以降、荒んだ心の時代が来ると仰ったということなので、自分の状態が良くない因の返りだとは知らず、時代のせいにしたくなっていました。悪因が死滅するまでの辛抱のお話は、今の私には宝物です。自暴自棄になる勇気もパワーも持ち合わせていませんが、世界の人々が、この流れを知っていればどんなに助かる人がいるだろうかと思いました。 お坊さんか学者さんか分かりませんがRobin Hoodさんの後を遠ーーーーくからおいかけて行きます。本当にありがとうございました。合掌。

その他の回答 (6)

回答No.6

#1です。 自分にも他人にも完璧を求めてしまうとのこと、お疲れのようですね。 こういうふうに考えてみたらいかがでしょうか。 もし、どこからどこまで完璧な人がいたらどうでしょう? 欲が全く無く、何事にも全く嫉妬もせず、腹を立てず、決して嘘をつかず…。 …魅力的ですか? むしろ、いろいろな欠点を持っているくらいの方が、人間らしいのではないでしょうか? もちろん、それらの欠点を、少しずつでも克服しようと思う心は素晴らしいことだと思いますが。(向上心が全く無いのも、また困ったことですから。) また、欲、計算高さ、ずるさ等が全く無くては、人間社会、生きていけませんね。度が過ぎなければ、これらは欠点ともいえないでしょう。ですから、自分の心の中や行動にこれらの要素を感じたとしても、恥じることはないと思います。 まとまりのない文章になりましたが、少しでもお役に立てれば…。

inca
質問者

お礼

blackdragonさん、気にかけて頂いてありがとうこざいます。そのお気持ちが大変嬉しく感謝いたします。 人にたいして完璧を求めているということは、言い換えれば相手の欠点を許していない・・・優しくないんですよね。自分が出来た人間でないのに(出来た方は相手を許されますが)、人にそれを求めるなんて身勝手甚だしいですね。欠点の無い人がいたら恐れ多くて近づけません。類は友を呼ぶで、欠点はお互い様ですのにね。 ああ、こうしてお話させてもらっていると整理できてきました。それでも恥じないでいいと元気付けてくださるblackdragonさんから受けた優しさを今度は私が誰かに送ります。ありがとうございました。

回答No.5

すべての人は、煩悩を持って生まれてきています。 煩悩は、欲求、つまり“エゴ(自我)”ですね。 人は生きている以上、生命欲というものがあり、特に食欲は生命を維持するための欲求ですから、根深い煩悩の一つでもあります。 これらを、煩悩を克服するには、捨断(捨て断つ)するだけでは、難しいものがあります。 ですから、一般生活を送られている人の場合は、ある程度、求めることは仕方なしと考え、求める以上に他に“与える”という実践を積極的に加えると良いと思います。 つまり、必要以上に自利を求めたなぁと感じたときには、そのぶん以上に、利他を実践しようと考えて、行動に移せば良いということです。 これは、仏教でいうところに“利他心”の実践につながってきます。 “与える”といっても、物質的ものを与えることから、苦しんでいる人や悩んでいる人に安らぎを与えるといったものまで含まれますので、必ずしも形のあるものを与えることだけが“与える”ということではないことはお分かりになるかと思います。 確かに、出来る限りの自利を捨て、利他のみに生きられれば素晴らしいし、それに越したことはありませんが、そのような状態に到達できるのも、日々のちょっとした、心における利他、行為における利他、言葉における利他の、膨大な積み重ねによって得られることなのです。 それと、あなたが、食べ物や衣類などいろいろなものを得られる環境にある、あるいは与えてもらえる環境にあるということは、あなたが過去、あるいは過去世において、それだけ他に与えてきたという証拠です。 過去、あるいは過去世において、他に与えず、自利のみを求めてきた人は、今生、いくら求めても他から与えてもらえないというような境遇、あるいは他に奪い取られるといったことが多い環境に生まれます。 ご存知かと思いますが、これが仏教でいうところの“カルマ(成したことは返ってくる。成したことしか返ってこない)”というわけです。 ですから、得られるという境遇、得られたという境遇に感謝をし、得られたぶん以上、与える実践を行ってみて下さい。 これによって、あなた自身の徳は切れることはなく満ち、物質的なものを与えたカルマにより物質的に豊かな環境が形成され、安らぎを与えたカルマにより心の安定を得られることになるのは、間違いないでしょう。 幼稚園の頃にご経験されたことの記憶や、得意になっている自分を見つめられるというような思考が浮かぶということ自体、まさにあなたが過去世において、少なくとも、“利他”の実践をされてきて、“利他”の大切さ、素晴らしさを、深く刻みこんで生まれてきている“魂”だという証拠です。 普通の人は、そういったことに疑問すらもちませんから、あなたは自分にそういう素晴らしい資質があるんだと考えて、それを大切にして、今生でもさらに利他心を育てあげると良いでしょう。 また疑問がでたら、補足して下さいね。 あなたを応援していますね。

inca
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今の私の状況を知っていただいているかのようなご回答で、身の引き締まる思いが致しました。 と申しますのも、幼稚園の頃の自分は皆様が庇ってくださる要素が少しはあったかもしれませんが、今は、下向きのベルトコンベア-を必死で落ちながら上がっている状態です。質問には、精進していると書いたので矛盾しているかもしれませんが、昔の方がマシだった所が沢山あったので、その危機感が今の自分の行動にあるのかもしれません。 昔は、今より人に何かをして差し上げるのが好きで、今の歌にもありますが喜ぶ顔が見たいという部分がありまた。しかし、段々利用されはじめると動機は消え、恩に着せるようになってしまいました。「何々してあげたに・・・」という思いが猜疑心になり損得勘定に発展していくのは早かったです。いえ、損得勘定は昔から強かったので、始めの動機も計算があったのかもしれません。 このドロ沼は厄介でとても苦しいです。苦しくてしかたない時に掴んだ藁が簡単な仏教です。触れていると救いがあります。ただ、なかなか行動するのが難しくて、したとしても恩着せがましかったり計算高いかったりするので、その結果に苦しんでいるのが現状です。 私にでも、Robin Hoodさんが仰ってくださるような過去があっても、もう使い果たし、これからどっちへ転ぶかの転機が今のような気がしていた所のご回答だった ので染み入りました。 #1さんの仰る通り、今後も忘れたり失敗を繰り返しながら、1ミリでも上れるようにこのページを大切にして行きます。ありがとうございました。

  • sakana26
  • ベストアンサー率46% (18/39)
回答No.4

>人間は生まれ持った卑しさを克服できないのでしょうか? やはり、私の努力が足りないのでしょうか? そんなことないと思いますよ。 私も1さんの仰るとおりだと思います。 質問者さんとおばあ様の話にしても、うちの母がよく言いますが「孫はどんなにワガママにしていても可愛いものなのよ」ということなので、幼稚園生の質問者さんが「これ食べんとってや」と言っても、おばあ様は「この子は、ほんまにあんこのお餅が好きなんやな」とほほえましく思う程度だったろうと思いますし、大人になった質問者さんがお餅を勇んで食べている姿も、おばあ様は「私はええから、よおさん食べや」と空から笑って見ておられることでしょう。 あんこのお餅をお供えしなくても、質問者さんがおばあ様のことを忘れずに思う気持ちがあれば、十分だと思いますよ。 で、たまにはおばあ様の好きだったものをお供えしてみましょう。

inca
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本当に祖母から言われているみたい(口調がそっくりです)で今日も泣けます。私は、うまく泣くことができないタイプなのですが、この件は心の中でとても大きかったんだなと認識しました。 >たまにはおばあ様の好きだったものをお供えしてみましょう そうですね。甘いものなどはお互いに好きだったのでお供えしていましたが、わざわざ、祖母だけのために買って来たことがあっただろうかと考えましたが、あまりありません。本末転倒というか、ここへきてお恥ずかしい限りです。自分の行動への後悔だけでエゴ丸出しです。冷静に頭を叩かれた感じです。大切な所を気付かせて頂いてありがとうございました。

noname#160975
noname#160975
回答No.3

私の回答に誤解があるといけないので、まず質問の内容を整理させてください。 まず一つは「幼稚園の時に祖母に渡してお餅が、美味しくなくて祖母の笑顔が薄く感じた。」でよろしいでしょうか? 祖母はお餅が美味しくなかったので笑顔が薄かったのですか?では美味しいお持ちならおばあ様はご満足されたのでしょうか。お餅の味は関係なくて、あなたが渡してくれたことが重要だったのとは違いますでしょうか?また笑顔が薄いとはどういう状態をいうのでしょうか。 二つ目に >祖母の写真の前に置くこともなく、勇んで食べている自分に気付いた時、愕然としました。幼稚園のままなのです。 >あと、だらしない格好が嫌いなので、身だしなみは整えて外出しますが、得意になっている自分がいます。何様なんだと思います。 これらは全てあなたの行動、態度ですね。自分の行動を自問自答しているのですか。つまり悪いことや自分では納得できない行動をしている自分がいるが、それをどうしたいと思うのですか?祖母の写真の前にお餅を置かなかったことは、うっかりともとれますし、オシャレをして自己満足するのも当然のことだと思いますが、それって卑しさなんでしょうか。仏教的な見解になれば私はよくわかりませんが、日常的にはありふれた光景であり、特に気にするようなことではないと思いますが。特にこのことが「努力」でどうにかなるものでもないと思いますが、私の回答は的外れではないですか?

inca
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません。ご指摘の箇所は説明不足だったと思います。 本来、祖母が食べるお餅(敬老の日の贈り物)を私が食べたかったので「食べないで」釘をさしておき、一目散に帰宅して、笑顔で迎えてくれる祖母にお餅の在処を聞いたのです。祖母はいつも笑顔で、その笑顔は慈愛に満ちています。そんな祖母からお餅を取り上げるので、後ろめたい気持ちがあったのでしょう。まともに顔を見られなかったのか、「怒ってるんじゃないかな?」という不安が、いつもの祖母の笑顔が満面でなく感じてしまったのです。お餅自体は美味しい品だったのしょうが、そのような気持ちで食べたので味気がしなかったのです。 得意になった自分の行動を含め、とても後味が悪かったのです。そんな気持ちになるような行動を自分はしました。そんな自分が嫌だと思いました。そんなことをしない人間になりたいと思いました。意に反して心の底から湧き出てきて押さえ切れないドロドロしたものを無くすことが出来るのだろうかという質問でしたがどうでしょう?

  • n_kaname
  • ベストアンサー率22% (694/3099)
回答No.2

あんこが好きなんですねぇ。 確かにちょっと分けて欲しかった、と思ったかもしれません。けど、お祖母ちゃんは孫が我慢するより、好きな物を喜んで食べることを、喜ぶと思いますよ。 それは大人になってからも一緒で、お祖母ちゃんにとって可愛い孫はずっと可愛い孫なのです。 そしてそういうのは卑しいというのではなく、食い意地が張っている、というのです。 卑しさというのは心の貧しさです。 あんこが嫌いなのに、人にあげるのが嫌で食べるな、と言ったら、それは卑しさかもしれません。あまり美味しくないと感じるような人は、卑しくなんかありません。 いつも同じ服を着ている人に対して、その理由も聞かずに「格好悪い」「お金がないからだ」「自分じゃなくて良かった」そう思ったら卑しいかも。 けれど、だらしない格好が嫌で、自分のお金で着飾り、背中をしゃんと伸ばして歩くことは卑しさではありません。素敵な格好をしたら誰だって誇らしくなります。 それでも自分を変えたいと思うのであれば、可愛いがってくれたお祖母ちゃんに感謝しましょう。あの時「この子はなんて卑しいんだ!」なんて怒るようなお祖母ちゃんだったら、反対に今頃お餅を一人で食べても何とも思わないような人になっていたはずです。 何も言わずに取って置いてくれたからこそ、今悩むことの出来る人になったのです。 きっとお祖母ちゃんの笑顔が薄かったのは、春の日のように穏やかな気持ちがしたからじゃないかな。「なんて可愛いんだろう」って思ったのかも。 最初から悩まない人は、変わることも出来ませんからね。 人はいろいろな物に感謝することで、自分の存在意義や矮小さを知ります。そしてそれを受け止めた上でこそ、素敵な人になれるのです。 あんこのお餅は好きで我慢できないから、お祖母ちゃんには違う物をたまに備えてあげる。そういう考え方で行けば良いんですよ。

inca
質問者

お礼

早々のご回答ありがとうございます。 実は昨日、出掛ける前に皆様のお答えを読ませていただいたのですが、泣けてきてどうしようもなく、行を飛ばして読んだくらいです。外では季節柄、風邪を装って乗り切りることができました。 インターネットについて色々言われていますが、普段からgooやり取りを拝見していて素晴らしい方々の存在に救われています。この度の様な質問は、なかなか日常生活で納得できる答えを頂く機会はありません。いろんな人がいてバランスが取れているのでしょうが、このような人々が表に出てこられなのが不思議です。すみません、上手く言えません。 >食い意地が張っている、というのです。 この言葉に救われ大笑いしました。 この件だけでなく、他の沢山の意地汚い部分にポジティブに向き合う勇気を頂きました。大きな切欠になります。ありがとうございました。

回答No.1

だれでも、完璧な行動、完璧な心を常に保ち続けることは出来ないでしょう。 自分のとった行動を振り返って、あれは、恥ずかしい行動だったなぁと思うことができるのなら、すばらしいことだと思います。たとえ、時には同じ失敗を繰り返してしまったとしても。 いくら努力しても、人間は完璧になどなれないのですから。

inca
質問者

お礼

早々のご回答ありがとうございます。 私は完璧からはほど遠い人間ですが、友人からは完璧主義は疲れるよと言われることがあります。その完璧もプラスの方向に行けば良いですが、他人に対しても完璧を求めている時がある様なので、その辺も最近悩んでいた所です。 人間は完璧になれないということを理解して丸い気持ちになれるようにしていきたいと思います。 優しいお言葉をありがとうございました。

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