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公は出来るが、私的な会話が苦手な人への対応
現代は科学も発達しているので、人に頼らず生きていく事も可能なんでしょうか? 昔は「世間体」と云うものでその様な付き合いがあったのでしょうか? 私も特に社交的でもなく、独りも好きですが、縁のある人が病気になると「お大事に」と声をかけたり、賞を貰った事を聞くと「おめでとうございます」と云います。 唯世の中にはその様な感覚が全く不要とか無駄と考えている人もいるのでしょうか? 小学校の時教わった先生(T先生)とします。(40年程前) この先生と確執があった訳ではありませんし、出来ていない事で叱られたそれはそれで良かったのですが、卒業前に学年で集まり、学年に所属する先生が生徒に贈る言葉を話しましたが、T先生は一人話しませんでした。卒業式の後のHRで他のクラスの担任の先生は贈る言葉をかけたりしておりましたが、T先生は事務的な事しか言わず、他の先生が生徒や父兄と話している光景があったのに対し、この先生のみ皆無でした。又、卒業後T先生と道で合っても「赤の他人」の様に目をそらして通り過ぎていくと云う事を聞いた事があります。 又、成人後、学校に教員や事務職員や給食の調理師で勤務し、T先生と 再会した教え子の人も公の事しか云わず、昔の思い出などを話すと、 触れてほしくない、沈黙という態度を取られた様です。 T先生は学校教員と云う立場で公の事は出来るが、それ以外の私的領域の処は苦手 (生徒に声をかける 励ます等) 通知表でも成績等の事は細かく書かれていたのに対し、所見欄 (例えば明るいがもう少し落ち着いて行動できれば良い 几帳面だが積極性に欠ける等)は空白でした。 T先生は生徒に公の立場を離れるとどう向き合ってよいか本当に解らなかったのかとも思えます。 その様な人が公の立場としては出来るが、そこを離れると「構わないで欲しい」的な事になっていくのでしょうか? 前にも質問させて戴きましたが、妻や妻の実家の人もその様な傾向がある様に思えます。妻の母や祖母も私が世間話をするとそのやり取り自体がすごく疲れるのかとも思えます。私や私の親族は大した事無い事でもその様な事が疲れる人も結構居られるのでしょうか? (家族葬でされても)お悔やみの電話は受けられる方も居られ、これならそう違和感は感じませんが、義祖母も義祖父が亡くなった後、 その様な交流を一切断ち、祖父の関係の人には「誰にも云わず引っ越し」会っても目をそらし通り過ぎていくという感じだったそうです。 (悪気はないが)私に会ってもそうでした。 私的な部分が苦手な人はこの様な感覚が普通なんでしょうか? ご回答お願いいたします。
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- zabusakura
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- 公に叩けるものに依存する人生(@sapanamaya)
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