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人をどこまで許せばいいのか

私は、うつ病なりかけみたいな状態になったことがありました。 だから、いろんな人に優しくしたいと思いました。 でも、優しさの基準がわからないです。 例えば授業中にお喋りしててうるさい人に、「周りの人の迷惑になるよ」と、伝えたとします。周りの人への配慮にはなりますが、もしもそのうるさい人が精神障害などで、うるさくしてしまうのはしょうがない場合、その人への配慮ができていないことになります。 そう言うふうに考えていくと、誰も注意できないし怒れないです。 でも、周りの迷惑になる人を放置するのも違うと思います。 私は、どう言う基準で人のことを注意したり怒ったりすれば良いのでしょうか?

みんなの回答

回答No.2

あなたは教師でも警察官でもありませんから 何の権利もありません 人が気に入らないと言ってあなたに注意する義務も権利もありません 嫌ならその場を離れればいいし必要ならその場にいる管理者が注意します いちいち自分が気に入らないと言ってクレームを入れてくるあなたが気に入らないからと排除してほしいという人が出てきます 誰もあなたに許しを請うことはしません あなたは統治する王様でもないし権力を持っている偉い人ではないからです 私の気に入らないことは他人に注意をして是正する権利があると勝手に思いあがっているだけのわがままな人というだけです

noname#260556
質問者

補足

すみません。例が悪かったです。 さいきん、前の席の男子に、授業中すごく話しかけられるので、注意をしたほうがいいのかしないでほっといた方がかえっていいのかわからなくて、例に出しました。

  • kairibaka
  • ベストアンサー率27% (148/548)
回答No.1

アドラー心理学で言うところの「自分の問題と他人の問題との切り分け」で判断すればいいんじゃないでしょうか。 最終的には、 「そのことによって最後の最後に誰が責任を負うのか」 です。 授業中にお喋りでうるさい人がいる、 うるさくすることによって最終的に誰が結果の責任を負うかというと、それはうるさくした本人が自分の成績やその先の受験の結果という形で、その結果をかぶるわけですよね。 同じように、 「誰かが自分のことをどう評価する」というのは、これも最終的にはその評価する人間が決めることであって、評価される側の人間が何かをすることではないわけです。 では自分がするべきことは何か。それは自分はこれをやるんだ!これで勝負するんだ!と決めたこと、そこにつながる目の前の一つ一つをただ頑張る、もちろんその結果は自分に返ってくるわけで、別に自分を評価する誰か上の立場の人間には返ってはこない、 一時流行った「嫌われる勇気」というのは、まさにその事だと思います。 で、周りの人の迷惑にならないようにうるさい誰かを注意するかどうか、 その「周りの人のうちの誰か」が、「助けて、うるさくて授業がわからない」とご質問者様に助けを求めてきた時に、そのうるさい本人なり先生なりに「静かにしてください」「静かにさせてください」と訴えればいい、 それは、誰かが「助けて」と自分に助けを求めてきた時点で初めて、「自分の問題」となるからです。 苦しいのは、自分の問題と他人の問題との切り分けが出来なくて、ごちゃごちゃのまま抱え込むからです。他人の問題は、結局自分では解決できない。自分の努力で解決できるのは、自分の問題だけ。それを一所懸命頑張ればいい。 社会正義を果たすのは、もちろん自分の問題ですから、法律を守るし、困っている人を助ける、それは当然。でも、悪さをしそうな人を見つけてそれを阻止しようとして、警察に連絡するところまでは、「自分の問題であって自分にできること」です。その悪さをしそうな人に向かって説教を始めるのは、「他人の問題に踏み込むこと」です。 「自分の問題と他人の問題を切り分けて、自分の問題の解決に集中する」 と、 「社会正義を守る」 は、 決してケンカになったり互いに矛盾するようなことではない、 です。

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