電車を乗り換え、どこへ行こう?
世界を乗り換えることと、電車を乗り換えることは、言葉の近似、類似を意識することで、関係付けてかたれます。
電車を乗り換えるように、世界を乗り換える。
世界にも、そういう乗り換えターミナルがあり、似たような人々の流れが起こるとしたら、どうでしょう?まして、その列車はその駅が終点であり、その後、車庫に行くような列車であれば、寝ていても車掌さんが起こしに来ます。乗換駅とは、時代(路線)と時代(路線)の交錯する所であり、その時、乗り換えのために、世界は止まるのではないでしょうか?
世界を乗り換える、という考え方について、又、その事に、どのような感じ、思うことがあるかを、たずねようとおもいます。よろしくおねがいします。
世界を語るための装置は、何であってもかまいません。俺は、たまたま、電車を思いましたが、乗り物は電車だけではありません。足の裏だって、馬車だって、ロケットだって、ファルコン(ネヴァーエンディングストーリーという映画の、巨大な犬、知ってますか?)だって、地球だって銀河だって、言えば、乗り物です。存在できる場所は、すべて乗り物で、移動のためです。(ただし、俺的には、棺桶は乗り物にはなりません(笑。なぜなら、そこから人は、降りて来ないからです。)
そう、今、俺は、世界は乗り物だと思っています。その乗り物、住処であり、出生地であり、目的地であり、異邦です。さらに、自分自身も乗り物であると思っています。死ねば、それから降りるということです。時も、乗り物だと思っています。このように、ある種強引に思っているのは、俺だけかもしれません。俺の言う乗り物を、故郷とする人もあるでしょう。
皆さんは、どのように思いますか。
我々は、どこへ、どうやって行くのでしょうか?
世界を乗り換え、どこへ向かっているんですか?と、いう話です。
よろしくお願いします。