※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:子育ても家庭の違いによって善悪の基準も変わる)
子育てと家庭の違いによる善悪の価値観の変化
親から子へ躾ける時、反面教師的なものはあるにせよ、
大体親から伝えられた事を子に伝えたり、親の態度と云うものが
子に伝播していきます。
自由競争は良いですし、悪平等論的なものは可笑しいですが、
親が優しさや思いやり、譲り合う心を子に伝えている家、
兎に角勝つ事が全てと云う態度の家によっても善悪の価値観は
変わってくると思います。
例えば、(可笑しな話で正しくは無いですが)食べ物を与えられ、
喧嘩して勝った者が食べられ、負けると食べられないと云う環境や
力で強い者が制すると云う環境に居ると、どうしてもそう云う事が
「正義」になるのではないかと思います。
昔は体罰もあり(これも完全に否定しませんが)、幼稚園等はそれで
「いけない事」と云う風に解っていくと云う事もあり、
この程度なら頷ける話でしたが、「強ければ全て」と云う環境で育った子は
「普通の人が当たり前の事を云う事を馬鹿にして、殴られこの人に叶わないと思うと云う事を聞く」
「そして、叶わない人が云う事はどんな無茶な事でも聞く」
「そこで、弱い者苛めを行うが、彼等の精神や行動を良い方向に
活かせ、内に囲い込めるので良い」
と云う感じで、彼等の精神はコントロールされているのでしょうか?
高校や大学の運動部や寮で体罰の問題等も起きる事もありますが、
此方が悪いと思った時等の体罰はまあ許せるとして、
彼等の中に「何か知らないけれど暴れてみたい気持ちがある」
と云う様な人が居り、彼等の思いを叶えてくれるのがその様な組織なのでしょうか?
苛めや暴力の問題でも「別に自分の領分を守れたらそれでいい、
自分は自分人は人(私も嫉妬したり、多少人をからかった事もありますが)」と云う人は先ず、人を殴らないし、別に優位に立っても何をしても良いとも思わないし、その地位から落ちても全て駄目とも思わないが、彼等は喧嘩することで、頂点を目指し、「勝てばすべて通る」的な処を良しとしているのでしょうか?
現在に成って見直させてきましたが、1980年頃の高校野球の強豪校の監督等で
上述の彼等のような気質が可愛く、以上でも以下でもない子をどう扱ったらよいか解らない的な発言を聞いたことがあります。
その様な人は度を越えない程度の苛めは良く、
やり過ぎると指導者側は殴り、それでうまく行っていると思っているような節があります。
闘争心や超えられる心を身に着けているので、普通にやることをやっている子よりも良いと云う事なのでしょうか?
又、思いやりや譲り合う心を持つより、強権さで従い、その人の思いを叶えるのは、この様な育成が望ましいのでしょうか?
(イデオロギーがあるにせよ、「軍隊」や北朝鮮や中国の共産圏の国家はこの様な手法を用いております。
古代ギリシャのスパルタでは「兵士育成」が目的で、そのサバイバルに耐えれず命を落とした人も多かったそうですので)
お礼
御回答いただきありがとうございました。 変な話、ずっとビリになるわけでもなく、優勝争いをする経験をしない人もいると思うのです 書かれている例も、野球である程度の成功体験・経験をしてきた子どもたちが集まる場ですし、自分自身の成功体験・過程と違う指導をされれば、結果が出ないうちは指導者・指導方法を疑うでしょうし、言うことを聞かなければ、試合に出してもらえない場であると思います 逆に、そのような指導で成功体験をしてしまうと、自分が指導者になったときに同じような指導をするでしょうし・・・ 多分、戦後から1980年頃まではそれで振るいにかける→ 残って活躍する→指導者に成ってその方法で成功したので同じ事を行うと云う繰り返しだったのだと思います。 >しかし逆に、それらとは違う指導方法で成功体験をつかめば、スパルタ?をする指導者にはならないとも思います ここ数年のアスリートの方は違う方法で記録を伸ばしている人も居るのでその人達が指導者に成ると変わってくるかと思います。 >まぁ命の問題である兵士や軍隊に話が飛ぶのは違うとは思いますが、その方法しか知らない人に、違う指導方法を考えろという時代ではなかったとも思います 多分、私の小中学時代(1980年頃)その方法しか知らず、 ついていけない人は一切認めないと云う人が結構居た 自分もその方法で育った他の方法知らないと云う人が 居り、その時代は未だ人数が多かったので、それに耐えた人だけが残り、矛盾を感じる人は去る、それでやっていけたのだと思います。