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大和級戦艦

建造当時不沈戦艦と呼ばれていたようですが(沈みましたが)、そう呼んだ人たちは本気でそう信じていましたか。単なる謳い文句ですか。

みんなの回答

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1688/4748)
回答No.5

少し真面目の答えさせてもらうと 左右から同時に攻撃されても、沈まない(沈まないだけ、人は死ぬ) 上空から攻撃されて、甲板上部施設が吹っ飛んでも沈まない(予備浮力) という意味での不沈艦(設計)であり、負けないという意味ではありません で、その設計を知っていたアメリカ軍が、片側(左舷)から集中攻撃して沈ませた・・・が、歴史です つまり、沈まないことを信じていた(不沈戦艦)でしょうが、絶対に負けない、絶対に勝つ・・と信じていたのではありません https://plaza.rakuten.co.jp/hidetaka1220/diary/200901170000/

mlc25123
質問者

お礼

大和には右舷左舷とも複数の魚雷が命中したと聞いています。どちらかに偏っていたという話は初耳ですが、根拠を提示できますか。

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回答No.4

大戦以前と以後では状況が異なりますよ。 ビスマルクが沈んだのは世界大戦バチバチにやってる時です。

mlc25123
質問者

お礼

さうです、。ありがとう。

mlc25123
質問者

補足

「か」が抜けました。失礼。

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回答No.3

1937年冬場11月に起工しましたのでその時はまだ世界大戦が起きていませんでしたし、起工したという事ですから計画はそれ以前に進んでいた事になります。この時点ではまだまだ大艦巨砲主義の最中であったのではと思います。 その時点では敵陣への空襲という考えはあっても、航空機による敵艦撃沈が常という世ではありませんでしたし。 真珠湾攻撃の作成立案は1941年の1月です。

mlc25123
質問者

お礼

独のビスマルクは5月に沈んだ。戦艦が航空攻撃に弱いという事実は世界に知らされていた。 この事実をどう受け止めますか。

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回答No.2

大和を作ってた時はまだタラント空襲も真珠湾攻撃もマレー沖海戦もありませんでしたから大艦巨砲主義は終わってなかったと思います。

mlc25123
質問者

お礼

1941年5月に沈没したビスマルクは、最後は砲戦で沈みましたが、致命傷を与えたのはアークロイヤルの艦載機です。

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回答No.1

信じてる人と現実がわかってた人の両方でしょう。 大和に限らず、時代に限らず

mlc25123
質問者

お礼

必ず沈むという前提で作る軍艦はないですよね。

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