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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:遥か 胃袋の記憶)

遥か胃袋の記憶〜戦時中の食の苦労と現在の食事事情〜

このQ&Aのポイント
  • 若い頃に飲んだ安酒の記憶と、現代の豊かな食事事情について語られています。
  • 戦中派の父の話では、戦争の記憶は食の苦労と重なり、戦争中の食事は非常に限られていたそうです。
  • 提案として、子供たちを北朝鮮に武者修行させることで、自分たちがどれだけ幸せな社会に生まれたかを実感し、親のありがたさを感じることができると述べられています。

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回答No.7

>記憶の襞に刻まれた、食の思い出 そうですね、小学生の頃に母と一緒に作った「トリュフ入りミートソースパスタ」ですね(笑)。 当時、父の仕事の関係でドイツから何人かの技術者の方が私の住む街に来ていて、ある時その技術者の方が「我が家で食事をしたい」とのリクエストがあったそうです。 母も「ドイツ人に何を食べさせたらいいのか判らんわ」とか言っていましたが、まあ和食よりも洋食系がいいだろうと、とりあえずパスタでも食べさせようと思ったようです。で、ちょうどその頃自宅の近くの地中にトリュフが自生しているのを発見していたので、私が「ミートソースにトリュフ入れたらいいんじゃない?」と言って、母と二人でトリュフにハーブ・スパイスを適当にミートソースにぶち込んで(笑)、「トリュフ入りミートソースパスタ」をそのドイツ人に食べさせたら、わざわざ鍋を見に来るくらい感動してくれたようです(笑・イタリアで食べたパスタより美味かったとか)。 >サントリー ホワイト ・ レッド に ハイ・ニッカ 学生時代によく飲みましたが、「レッド 」と「トリス」はいただけませんでしたね(笑)。「ホワイト」や「ハイ・ニッカ」はOKです。 今となっては、うちの近所のドラッグストアでは「ハイ・ニッカ」は「ジョニ赤」より高価になりましたけどね(笑)。

isoken
質問者

お礼

lolipop-sapporo さん、こんにちは。 >小学生の頃に母と一緒に作った「トリュフ入りミートソースパスタ」ですね いや ~ ~ 豪勢なパスタですね、今時 そこいらの ビストロ で食べたら、目ん玉が 飛び出るぐらい 取られるのではないでしょうか、もっとも トリュフ なんて物は、 大人になって 初めて知りましたが。 >母も「ドイツ人に何を食べさせたらいいのか判らんわ」とか言っていましたが、まあ和食よりも洋食系がいいだろうと、とりあえずパスタでも食べさせようと思ったようです。 実際 何度か ドイツ で食事した際の 率直な感想ですが、世間の評価ってものは 概ね 正しいと思いましたね、彼等には 正常な味覚ってものがあるのだろうか ? ・・ って、全てが大味と言いますか。 その点は ゲルマン ・ ノルマン、 更には そこから派生した アングロ、 サクソン ・・ その全てに当て嵌まると感じます、依って アメリカ を含め 旧 イギリス植民地は ほぼ全て 飯が不味い、言っちゃ何ですが 北欧も似たり寄ったりですね、 オランダ もそうでしょうか。 >ちょうどその頃自宅の近くの地中にトリュフが自生しているのを発見していたので、私が「ミートソースにトリュフ入れたらいいんじゃない?」と言って、母と二人でトリュフにハーブ・スパイスを適当にミートソースにぶち込んで(笑)、「トリュフ入りミートソースパスタ」をそのドイツ人に食べさせたら、わざわざ鍋を見に来るくらい感動してくれたようです(笑・イタリアで食べたパスタより美味かったとか)。 割と 味覚が正常な ドイツ人だったのでしょうね、ところで トリュフ の自生という話に驚いて 検索を掛けましたら、我が国の広い範囲で 見られるとの事・・、全く 知りませんでした。 >学生時代によく飲みましたが、「レッド 」と「トリス」はいただけませんでしたね(笑)。「ホワイト」や「ハイ・ニッカ」はOKです。 トリス・バー や ニッカ・バー ってのも、繁華街にたくさん ありましたっけ。 学生時代は 専ら 安酒専門でありまして、 悪酔いなんて しょちゅうでした、例えば 高田馬場 で飲んで 山手線に乗り 帰宅する際 気持が悪くなり、 原宿 の反対ホームでゲロを吐き・・なんて 酷い経験もあるぐらいで。 その点 就職後 自前で飲めるようになった 高い酒は、 やはり 後に残らない気がします、もっとも 無茶飲みする事も 無くなりはしましたが。 さて 今年 1年 大変お世話になりました、良い年をお迎え下さい、回答ありがとうございます。

その他の回答 (13)

  • haiji2021
  • ベストアンサー率15% (20/127)
回答No.14

イソケン先輩こんにちは☆ 私はお酒はビールもウィスキーも飲めないんです。。苦くて(^_^;) ワインだけですね。 ヨーロッパに旅行した時に、フランスやイタリアのワインの美味しさに目覚めたので。。 日本に帰ってからも、ワイン学校に2年間通って、色々な国のワインを試飲しました。 一回のレッスンで、6種類も飲めるので、色々違いがわかるようになりました。 特に、フランスワインは厳しい格付けがあるので、品質が高いですね。 例えば、ナポレオンの好物だった、ブルゴーニュの最高格付けのグランクリュの、シャンベルタンは美味しかったですね。 ワインとチーズ講座も受講して、ワインとヨーロッパ各地のチーズのマリアージュ(相性)も学びました。 ヨーロッパは、チーズも、ワインと同様に、地域ごとに土着した古くからの歴史ある無数の種類のチーズがあるので。。 フランスなんて、フランスにある村の数だけ、チーズの種類がある、って言われていますね。 フランス、イタリア、スイス、オランダ、オーストリアなどのチーズは、やはりその土地で採れたぶどうのワインに合いましたね。 ウォッシュチーズ、白カビチーズ、青かびチーズなど、以前はクセが強くて苦手だったのに、合わせるワインによってこんなに美味しいんだってわかって。。 フランス料理の高級店では、コースの最後に、チーズワゴンが運ばれて来て、 たくさんのチーズの種類から好きなだけ選んで、切り分けてもらえるのが、嬉しいんですけど、 その頃には私はお腹いっぱいになっていて、たくさん食べれないのが残念ですが。。 フランス人にとっては、チーズは漬け物みたいな感覚で、別腹でいくらでも食べれるらしいですね。 料理、チーズ、ワインの組み合わせ方によって、双方の美味しさがより一層引き立つので、これからもヨーロッパなどで、そういう味わい方を無限に経験したいですね。 で、胃袋の記憶、と言えば、チーズの思い出がありますね。 子供の頃に住んでいたオーストラリアも、やはり乳製品が豊富で、またワインも美味しい土地柄でした。 当時、現地に駐在していた日本人で形成された、日本人会のイベントで、スタンソープという所の周辺に旅行で行ったのですが、 ワイン用のブドウ畑で、ブドウ狩りしたり、ワイナリーに寄って、大人たちはワインを飲み、子供の私達はブドウジュースを飲みました。 また、牧場にも寄って、その牧場で作られたチーズを食べ放題したのですが、そのチーズがすっごく美味しかった記憶があります。 チーズってこんなに美味しかったんだ。。って感動しましたね。 普段食べている、スーパーで売っているようなスライスチーズなどはプロセスチーズですが、 ナチュラルチーズを食べたのは、多分その時が初めてでした。 上に書いたヨーロッパのチーズも、全てナチュラルチーズで、プロセスチーズとは全く別物ですね。 私が今、ワインやチーズにこんなにはまっているのも、オーストラリアでのその時の思い出が下地にあるのかもしれません。 また、オーストラリアの牛乳はものすごく濃厚で美味しくて、そういうのを日常的に飲んでいたので、 日本に帰って来て、給食に出てきた牛乳を飲んだ時は、不味くて吐きそうになりました。。もう脱脂粉乳の時代ではないですが。。 今は、日本の牛乳も普通に飲みますが、最初はオーストラリアで飲んでいたものとは別物だったので、びっくりしました 今年も大変お世話になりました。 お身体にお気をつけて、よいお年をお迎えくださいね。

isoken
質問者

お礼

haiji さん、こんばんは。 今 紅白歌合戦を観ながら、このお礼を認めております。 今年は 東京国際フォーラム での開催だそうですが、私が物心ついてから ずっと 渋谷 NHKホール でした、14 ~ 5歳の頃から 何度行ったか分からない、私にとっては 懐かしい場所なのです。 フェリス に行った 高校時代の友人の女の子が、 野口五郎 のバック コーラス で出た 約 40年前の紅白は、実際 NHKホール で見た後 渋谷 で 一緒に飲み、 年を越しました。 そんな彼女も 2 ~ 3年前 の事 、まだ50代の若さで 天に召されましてね、時代を共有した同士が 1人いなくなり 悲しい限りです、まさに 「 諸行無常の響き有り 」 ・・ でして。 >私はお酒はビールもウィスキーも飲めないんです。。苦くて(^_^;) >ワインだけですね。 シャブリ は比較的 低目みたいですが、赤ワインのアルコール度数は 結構高い、haiji さんには きっと 酒飲みの素質が有るはずです。 すみません、酔っ払ってるものですから、無茶苦茶 大幅に端折っちゃいまして 大変申し訳ないのですが、年末年始 楽しみにしてる番組は、やはり 箱根駅伝 です。 現状 駒沢 が半歩リードしてる感じはありますが、今年も去年同様 抜けたチームが無く、恐らく 上位数校の どのチームにも 優勝のチャンスあり・・、勿論 青学も その中の1校です、頑張って欲しいですねぇ。 尚 私の在校当時は スポーツ推薦枠が無かった為、スポーツ全般が弱く、今は強豪と呼ばれる 野球も同様でありまして、 東都リーグの 1部と2部を 行ったり来たりしてました。 何の講義か忘れましたが、 「 神宮 に応援に行けば 単位をやる !」 と言われ、1部2部 ・・ 入れ替え戦 の応援に行った事も有ります。 無論 箱根など 夢のまた夢でしたが、この歳になり 母校の応援が出来る法楽を与えてもらい、本当にありがたい、これは 恐らく 青学OBに共通する 思いでしょう。 最後になりますが、今年1年 大変お世話になりました、御主人と共に 良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございます。

  • citytombi
  • ベストアンサー率19% (1721/8628)
回答No.13

「ウイスキーと昭和のサラリーマン」という話があって、新入社員は「トリス」、その後入社5年目辺りまでは「ホワイト」、係長など役職についたら「角」、課長など中間管理職になったら「オールド」、 部長になったら「スペシャルリザーブ」・・・ なので「オールド」というのは、平から見たら車で言うところの“いつかはクラウン”と同じような格でした。 なのでお酒が飲める年齢になった時に、まっ先に試したのがオールド(いわゆるダルマ)でした。 当時は若者に「コークハイ」が流行っていて、そればかり飲んでいましたね。 鯨も、はるか昭和はベーコンと言ったら「鯨のベーコン」でした。 白くてフチが赤いやつ・・・ 豚よりも食卓に出る回数は圧倒的に多かったような。給食も鯨関係のメニューがありましたしね。 なので大人になってから、豚のベーコンがあるのを知った時は衝撃的でした。“これはベーコンではない”と思いました。 今では、鯨のベーコンを食べる機会はめったにありませんが、ごくたまに食べると当時の味と時代を思い出します。

isoken
質問者

お礼

citytombi さん、こんにちは。 >「ウイスキーと昭和のサラリーマン」という話があって、新入社員は「トリス」、その後入社5年目辺りまでは「ホワイト」、係長など役職についたら「角」、課長など中間管理職になったら「オールド」、 >部長になったら「スペシャルリザーブ」・・・ 職位 ・ 役職に依る 酒銘柄の ヒエラルキー というのは 実に面白い ・・ というか、そこそこ 核心を突いた サンプリング だと思いますが、右肩上がりの 日本経済 ・・ 、それ以上に プラザ合意 に依る 円高の恩恵が、サラリーマンが手の届く 酒の銘柄 格上げに、 随分と寄与した気がします。 洋酒が普通の時代になりましたものねぇ、 「 シルクハットのおじさん 」 が、 海外土産の定番だった時代もありましたが。 私が社会に出た 1983年 ~ 86年 辺りに掛けては、海外出張の帰国時 先ず何をするかと言うと、免税店で 土産用の洋酒を買ってました、今だったら何て事ない ジョニー ウォーカー だって、当時 日本 で買えば そこそこ高価で 手が出ませんでしたから。 随分昔の事なので 詳細は忘れてしまいましたが、確か 3本まで 無税ではなかったでしょうか ? >当時は若者に「コークハイ」が流行っていて、そればかり飲んでいましたね。 安酒の不味さを誤魔化す 最良の飲み方だった気がします、因みに 矢沢 永ちゃんの 、「 ウイスキー コーク 」 と言う歌が流行ったのが 高校時代 ・・ 、懐かしいですね。 >鯨も、はるか昭和はベーコンと言ったら「鯨のベーコン」でした。 >白くてフチが赤いやつ・・・ 大人になって 居酒屋で食べたら、全然 美味しくなかった、それ以来 食べてません。 さて 今年1年 大変お世話になりました、良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございます。

回答No.12

>戦争の記憶は ほぼ全て 食の苦労と重なるようです、やれ イモばかり食ってたとか、 小学校の時の先生が戦時中の食糧難の話をしては、給食を残すなと言って食べきるまで昼休みにさせないタイプだったんですが、カボチャだけは戦中戦後に食べ過ぎてうんざりだと言って残してました(笑)。いい先生だったんですけど思い返すと色々価値観のクセが強くて今だったら問題になるでしょうね。 >皆様の記憶の襞に刻まれた、食の思い出があれば お聞かせ下さい。 魚介系、煮干し系、鶏系、二郎系、家系・・・今は無数の種類のラーメンで溢れていますが、子供の頃ラーメン屋と言ったら、近所の上州ラーメンしかありませんでした。鮭を咥えた熊やアイヌの置物があったんで北海道が由来のラーメンなのかなぁと思いますがよくわかりません。色々種類はありましたが、雷ラーメンというのが看板メニューで、それが激辛ラーメンの走りなんだそうです。 親と、友達と、バイト帰りに、恋人と、食べに行きました。進路を決める面接前に景気づけに1500円の北海道ラーメンを一人で食べたのを覚えています(あ、やっぱり北海道が由来みたい)。途中からカレーも供するようになり、当時としては本格的なやつで、やはり辛いのもありました。専門学校の親友K君は大して辛くないカレーを汗ダクダク顔面洪水状態で必死で食べていた姿が今でも忘れられません。目をキラキラさせて「お前は親友だ」と言ってくる純真ないい奴でしたが、彼は24歳の頃仕事中の事故で亡くなってしまいました。 そんな上州ラーメンも、店主さんが病気で亡くなってしまって店を閉めることになり、その前にと久しぶりに食べに行くと、昔と変わらない女将さんがテキパキとお客を迎え入れて配膳してました。いつか息子さんと女将さんでお店を再開するという予告がありました。 それから8年ほど過ぎて予告通り再開。以前の大きな店ではなく、近くの小さなお店を厨房の息子さんと女将さんで切り盛りしていました。流行のラーメンではないけれど、地元の人間にとっては記憶の襞に刻まれたソウルフードです。 今年は最後になるかもしれませんのでご挨拶。イソケンさん本年はお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い致します!

isoken
質問者

お礼

mikasa さん、こんにちは。 >小学校の時の先生が戦時中の食糧難の話をしては、給食を残すなと言って食べきるまで昼休みにさせないタイプだったんですが、カボチャだけは戦中戦後に食べ過ぎてうんざりだと言って残してました(笑)。 似たような話は、うちの親父もしておりました。 米が食えないなら せめて 魚でもと、伝馬船のような小舟で 東京湾に漕ぎ出して、釣りをしたらしいのですが、釣れるのは トビウオばかりで 、年中 そればっか 食べてたらしく、次第に 蕁麻疹が出るようになり、終いには 見るのも嫌になったと・・。 >近所の上州ラーメンしかありませんでした。 「 あっしには 関わりのないことでござんす 」、 上州 新田郡 三日月村 ・・ と 言えば、御存知 木枯し紋次郎 、意味不明な事言って すみません。 尚 太田市 藪塚町 ってところが、 三日月村 のモデルらしいのですが、中学生の頃 長楊枝を咥えるのが大流行したんです、 紋次郎 のせいで。 >雷ラーメンというのが看板メニューで、それが激辛ラーメンの走りなんだそうです。 辛いの好きでねぇ、こないだ行ったラーメン屋で 激辛ラーメンを頼んだんですよ、ただ 思った以上に激辛で、麺は完食しましたが、さすがに スープまでは飲めませんでした、普通 一滴残らず 飲み干すのですが。 >進路を決める面接前に景気づけに1500円の北海道ラーメンを一人で食べたのを覚えています mikasa さんが 進路を決めるという事は、もう 20数年は前の事でしょう ? 、 その頃で 1500円って 随分 贅沢なラーメンだったんですね、チャーシュー麵食べたって 1000円もしなかった時代じゃないですか。 >(あ、やっぱり北海道が由来みたい)。 その昔 「 どさん子 ラーメン 」 という、 味噌ラーメンのチェーン店があったのですが、最近 見ませんねぇ、太麵で結構好きだったのですが。 最後になりますが、今年1年 大変お世話になりました、御家族一同 良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございました。

  • keaget09
  • ベストアンサー率19% (583/2929)
回答No.11

isokenさまお晩でございます。 Keaget09こと、たまっちです。 >そこで 提案 ・・ 、我儘が多い 昨今の子供達を、片っ端から 万景峰号 に乗っけて、食うや食わずの 「 地上の楽園 」 北朝鮮 で 2 ~ 3年 武者修行させればどうでしょうか、 それはステキなアイデアだと思います。 私も含めて、今の世代の子たちには絶対にできないと思います。 まず、我慢ができませんので・・・・。 >自分がどれだけ幸せな社会に生まれたか、且つ 親のありがたさが 身に染みて、 ホントそれです! > 皆様の記憶の襞に刻まれた、食の思い出があれば お聞かせ下さい。 そうですね~。 小学生の頃、給食で『マヨネ-ズ炊き込みご飯』っていうのが出ました。 その頃の私は、マヨネ-ズって好きでもなく嫌いでもなく・・・・。 みたいな感じだったんですけど、『炊き込みご飯』っていうのがすごく好きでした。 なので、その日は朝からすっごく楽しみでした。 ・・・・なのに、実際食べてみると全然おいしくなくて、途中で気持ち悪くなりました。 でもウチのクラスは『残しちゃダメ!』っていう決まりでしたので、頑張って食べました。 残さずきれいに食べました。 そのせいで、とかいうと怒られそうですが。 午後の授業は悲惨なものになりました。 ・・・・小学生の女の子にとって『悲惨』と言えばだいたい伝わると思いますので詳しくは書きませんけど、それ以来、マヨネ-ズはトラウマになっちゃって全然受け付けません。 ということで、今年もいろいろお世話になり、ありがとうございました。 よいお年をお迎えください。

isoken
質問者

お礼

たまっち さん、こんにちは。 お礼が遅くなりました、申し訳ありません。 >それはステキなアイデアだと思います。 御賛同 ありがとうございます。 実は もっと良いアイデアがありまして、頭の中に 銀球が詰まった パチンコ中毒の人間を、 片っ端から 北朝鮮 に送っちゃうのです、 「 返品不可 」 の 張り紙をして。 頭の中が腐っている連中は、日本の 排他的経済水域 目掛けて 何度も発射されている 弾道ミサイルの原資が、自分達がパチンコ屋に落とした金だとは 夢にも思ってないでしょう、基本 アホですから。 >まず、我慢ができませんので・・・・。 我慢する必要はないんです、そもそも 食べる物が無い・・、より正確に言えば、 金一族 を頂点にした 「 食の ヒエラルキー 」 から遠ざかるにつれ、食べる事が困難になる国ですから。 >小学生の頃、給食で『マヨネ-ズ炊き込みご飯』っていうのが出ました。 ガキの頃 結構 ご飯にマヨネーズをかけて 食べてましたよ、ただ 炊き込んじゃうとどうですかねぇ、ちょっと 気持ち悪い気もしますが。 さて たまっち さん には 度々回答を頂き、大変 お世話になった1年でした、御主人 共々 良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございます。

  • 5mm2
  • ベストアンサー率9% (329/3308)
回答No.10

isokenさん、こんにちは。 年越しに良いお題ですね。 親父が大酒飲みで祖父母が苦労してたのを見てたので、酒はあまり飲みませんでしたが、ジョニ赤を最初に飲んだ時はあまりの美味さにビックリしました。 それまではサントリー角を舐める程度で、CMを見てトリスを一口飲んで余りのまずさに吐き出し、サントリーからニッカに変え、ブラックニッカにしたころでした。 その後、バーボンのジャックダニエルを飲んでからそれを気に入り、今までズーッとほぼそれ一筋です。 ところが、数年前にポルトガルのポルトで買った土産用のワインセットを数日前に開けて飲んだら、これが美味くて、またワインも飲むようになりそうです。 昔飲んで不味かった印象の強い、国産の赤玉ポートワインとは全く違う上品な甘さで、二年前にドイツで飲んだ甘ーいワインと甘さが似ています。 ワインは値段に関係無く、自分が美味いと感じたものが美味いワインという事で良いと思いますが、思い出がそれを倍増してくれますね。 さつま揚げは、向田邦子も鹿児島の母親の味として思い出の中の美味いものにあげてますが、それを今食べるのは良いこととは思わないと言ってます。 故郷と同じように、遠きに有りて思う物なんでしょう。 本当に美味かったものとしては、祖母の作る小エビの入った「かき揚げ丼」ですが、親父とサーカスに行った帰りに食べた、屋台のラーメンが思い出に残っています。 食べた後「やっぱいラーメンは屋台が美味い」と親父が言ってましたが、味よりも、親父と横に並んで二人で食べたのが初めてで、それが最後になったこともその印象を強くしてると思います。 年末年始は、ポルト産の甘ーいワインを探す町内の旅に出かけたいと思います(笑)。 それでは、よいお年をお迎えください。

isoken
質問者

お礼

5mm2 さん、こんにちは。 お礼が遅くなりました、申し訳ありません。 >親父が大酒飲みで祖父母が苦労してたのを見てたので、酒はあまり飲みませんでしたが、 うちは 親父もお袋も 酒を飲まないんです、依って 自分も 酒に弱い体質だと ずっと思っておりました、事実 20歳ぐらいまでは 飲んでは吐くの繰り返しで、美味いと思った事は ただの一度もありません。 ところが 御承知の通り 一旦 社会に出ると 、接待したりされたり 、或いは 上司・先輩に誘われて 断る訳には行かない、そんな日々を過ごしておりましたら、何となく 飲めるようになり 今に至ります。 >その後、バーボンのジャックダニエルを飲んでからそれを気に入り、今までズーッとほぼそれ一筋です。 カクテルブームの後 バーボンの時代が到来しまして、以下 大学を卒業して 割と直ぐの話です。 明星 だか 平凡 だか忘れましたが、雑誌で 音楽のコラムを書いていた 友人女性の紹介で、 女性漫画家の 柴門ふみ さんと 六本木 で ( 確か 「 ハリーズバー 」 というお店だった ? )飲んだ事があるのですが、その時 皆で飲んだのも ジャック ダニエル のソーダ割 でしたね。 当時 柴門 さんは 27歳 前後だったはずですが、まさか その後 「 東京 ラブストーリー 」 で 大ブレークするとは 夢にも思わず、もっと親しくなってれば・・と 後悔したものです。 >ところが、数年前にポルトガルのポルトで買った土産用のワインセットを数日前に開けて飲んだら、これが美味くて、またワインも飲むようになりそうです。 安ワインばかりですが、家内が そこそこコレクションしておりまして、その中で 比較的高価な1本を 何かのお祝いで開けようという事になり、飲んだら酢になっておりまして、家内は 大ショック ・ 私は 大笑いでした。 >昔飲んで不味かった印象の強い、国産の赤玉ポートワインとは全く違う上品な甘さで、二年前にドイツで飲んだ甘ーいワインと甘さが似ています。 10代の頃は それこそ 赤玉ポートワイン しか知りませんでした、 ガキの頃の話ですから 自信は無いのですが、確か 激甘 ではなかったでしょうか。 他方 ドイツ で 有名なのは モーゼル ワイン ですが、仰る通りで 比較的 甘口のワインと言われておりますね、いや 詳しい訳じゃないんです、単なる 受け売りでして。 >本当に美味かったものとしては、祖母の作る小エビの入った「かき揚げ丼」 2 ~ 3年前 に 何故か閉店してしまいましたが、 浅草 に 天健 ( てんたけ ) という、小汚いけど 外国人が並ぶほど 超有名な 天婦羅屋がありまして、そこの 「 かき揚げ丼 」 は 絶品でした。 具だくさん 且つ ボリューム満点で、出て来た 「 かき揚げ丼 」 の具をアテに、 家内と 差しつ差されつ やっておりますと、あっと言う間に お銚子が 2 ~ 3本 空いちゃうのです。 >親父とサーカスに行った帰りに食べた、屋台のラーメンが思い出に残っています。 普通の屋台もそうですが、軽四 移動屋台 の チャルメラの音色を聞かなくなって、一体 何十年経つでしょうか。 ラーメン自体は 凄くシンプルで、恐らく 大した物ではなかったんでしょうが、屋台のラーメンは 本当に美味かったですね、 寒い日は 特に。 最後になりますが、今年1年 大変お世話になりました、良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございます。

  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.9

isokenさんこんにちは 私の珈琲好きはむかしから。今はモーニングコーヒーがないと始まらないのですが、若い頃はそう言えば喫茶店通いが激しかったですね。 何せお酒が殆んど飲めない体質なので自ずと珈琲になります。勤めと自宅との間に間隔を置きたい気持ちもありまして。 喫茶店文化という言葉は当時からあったのでしょうか。それともそれが失われつつある今だから名付けられたのでしょうか。 今でも頑固に文化?を守る店もあれば、カフェチェーンに押され閉店していくものもあります。 ここで言う喫茶店文化とは「銀座ルノアール」調とは違います。下町にあり新聞週刊誌に囲まれて珈琲の香りが染み付いた独特のものです。 バイトの女の子が席の向かいにちょいと腰かけて話しかけてくる。当時は何とも思わなかったけれど振り返れば光栄なことだったんですね。こちらが若いので話しかけてくれる。じじならしてくれない(笑) 多くの週刊誌のなかで週刊サンケイには「仁義なき戦い」が連載されていましたね。作者は飯干晃一。 題名が眼を引きましたが中身は人名が複雑で難しくあまり読んでいません。では唐突にこれを持ち出したのは何故?といいますと。 前回のテーマ「男の色気」の回答として「仁義なき戦い」を書こうとしていたのですが。かつての二枚目俳優でイマイチだった人が大挙出演し蘇るような個性を見せていたからです。 しかし乏しい知識で回答しますと物笑いの種ですから、やめました。 東映にとっては任侠ものを断ち切り実録路線に軌道修正したのですからエポックメーキングなシリーズだったのですね。 話がテーマから逸れてしまいましたが。 今年も大変お世話になりまして有難うございました。奥さま共々どうぞ良いお年をお迎えください。

isoken
質問者

お礼

sq さん、こんにちは。 早速ですが、先日 年末恒例となった トライアウト 関係の番組を見ました、確か sq さんも お嫌いじゃなかったですよね。 30代後半ならともかく、20代半ばで 首を切られた挙句、 選手に依っては 新たな職探しに奔走せねばならない訳ですから、一見 華やかな世界に見えても、因果な商売ですよねぇ、野球選手ってやつも。 御承知の通り、 プロ野球選手の奥様連中は ほぼ例外なく ( 私が知ってる 唯一の例外は 落合夫人だけです )美人ですが、彼女達とて 金の心配と 無縁ではない訳で、妻子を抱えた選手の苦悩は、とても 他人事とは思えません。 >私の珈琲好きはむかしから。今はモーニングコーヒーがないと始まらないのですが、若い頃はそう言えば喫茶店通いが激しかったですね。 喫茶店の存在抜きに、青春を語れない世代は 少なくないと思います、無論 私共も そうなのですが。 歌の世界にも 随分登場しましたね、 ガロ の 「 学生街の喫茶店 」 や 、他にも 当時 超美しかった あべ静江 の 「 コーヒーショップ で 」 等々。 その コンセプト も 多種に及んでおりましたか、上質なコーヒーを味わう ワン ランク 上のお店から、 昼は喫茶店 ・・ 夕方以降 スナックに早変わりするお店 、そこそこ 食事が堪能出来るお店もあれば、果ては 同伴喫茶 なんてのまで ありまして。 私は 1年中 アイスコーヒーしか飲まない人間で、コーヒーの味は さっぱり分からないのですが、それでも 朝起きて コーヒーが欠かせない点は sq さんと 何等変わりがない、喫茶店中毒だった点も 全く同じです。 >喫茶店文化という言葉は当時からあったのでしょうか。それともそれが失われつつある今だから名付けられたのでしょうか。 昔の喫茶店は、無くてはならない 空気みたいなものでしたから、殊更 深く考える事はなかったように思います。 恐らく その時代に身を置いた世代に依る、過ぎ去りし日々への ノスタルジー ?、或いは 今の若者の 懐古趣味を満足させる 系統だったものとして、存在するのかも知れませんね。 >ここで言う喫茶店文化とは「銀座ルノアール」調とは違います。下町にあり新聞週刊誌に囲まれて珈琲の香りが染み付いた独特のものです。 銀座店 勤務時代の話ですが、当時 昭和通り 沿いにあった ルノアール には、結構行ったものです、あのお店は ふかふかのソファーの居心地が良くて・・、もっとも それ以外には 何も無かった気がします。 尚 スポーツ新聞に限定しますと、エリア毎に依る 棲み分けが 印象的でした、例えば 渋谷 場外馬券売り場 付近の 喫茶店は、ほぼ サンケイ スポーツ の独壇場、他方 後楽園球場 付近では 勿論 報知新聞 が強くて、一部のスポーツに特化しない 或いは バイアスが掛からないのは 日刊スポーツ といった具合で。 >多くの週刊誌のなかで週刊サンケイには「仁義なき戦い」が連載されていましたね。作者は飯干晃一。 自称 「 仁義なき戦い 」 評論家の間では、有名な話ですね、 菅原文太 が 当時 東映の 全権プロデューサーだった 俊藤浩滋 の元に その連載を持ち込んだだとか、いや 元々は 日下部五朗 の発案だったとか、諸説あるようですが。 >東映にとっては任侠ものを断ち切り実録路線に軌道修正したのですからエポックメーキングなシリーズだったのですね。 仰る通りで 東映 の流れを 大きく変えた 作品のように思います、但し あれで 仁侠物が作れなくなったのも事実、 鶴田浩二 ・ 高倉健 が織り成す 義理人情 の世界は、完全に 過去のものに なりましたね。 ・・と共に、専門家の 百の能書きよりも、素人に依る評価の素晴らしさを感じさせる 嚆矢となった映画ではなかったでしょうか、先にも申し上げましたが、今に至り 「 仁義なき戦い 」を神聖視する 人が どれだけいる事か・・、勿論 この私も その1人でありますが。 さて 今年も1年 大変お世話になりました、且つ 家内にも お気遣い頂き 恐縮です。 sq さんも 良い年をお迎え下さい、回答ありがとうございました。

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7991/21371)
回答No.8

食の記憶・・・ねぇ。 一番記憶に鮮烈に残っているのは、中学入学記念の一人旅(小学生の頃から重度の鉄道マニアだったもんで)で、夜行の寝台特急に乗り、朝飯を食いに食堂車に行ったことですね。確か和食より50円安かった洋風朝定食(朝はその2つしかメニューが無かった)を注文したら、トマトジュースが出て来たんですよ。 それまで、トマトは見るのも嫌いだったんですが、なけなしの小遣いをはたいての食堂車の食事ですからね。残すのももったいないと、思い切って飲んでみたらおいしかったこと。場所も確か、熱海の先の海沿いで、海がキラキラしてとても綺麗だった記憶があります。 それ以来、私はトマトジュースが大好物になり、トマトも食べれるようになりましたとさ。

isoken
質問者

お礼

FEX さん、こんにちは。 >一番記憶に鮮烈に残っているのは、中学入学記念の一人旅(小学生の頃から重度の鉄道マニアだったもんで)で、夜行の寝台特急に乗り、朝飯を食いに食堂車に行ったことですね。確か和食より50円安かった洋風朝定食(朝はその2つしかメニューが無かった)を注文したら、トマトジュースが出て来たんですよ。 「 シャツのボタン、2つ外した だけで ~ ~ 」 ・・、私が20歳ぐらいの頃、当時 全盛の 多岐川裕美 が、 カゴメ トマト ジュースのCMに出ておりまして、 そのバックで流れていたのが 先の曲  「 酸っぱい経験 」 でした、確か。 ところで 映画に出て来る 食堂車の風景と言えば、名画 『 砂の器 』 を思い出してしまうのですが、或る種 独特の空間でしたね、特急はどうか知りませんが、新幹線からは もう姿を消してしまったようで、寂しい気がします。 >それまで、トマトは見るのも嫌いだったんですが、 私も トマトは嫌いでしたが、それが大好きになったのは、魚釣り が唯一の趣味だった 親父に連れられ、海釣りに行ったのが切っ掛けでした。 当時 親父が モーターボートを持っておりまして 、勿論 そんな御大層な物ではなくて、船外機付きの セコイ 舟 なのですが、真夏に それで 沖に出ましたら、燦燦と輝く太陽に照らされ のどが渇いて仕方がない・・。 アッと言う間に 持参した 飲料水を飲み尽くし、あるのは クーラー ボックスに入った 冷トマトだけという状況で、仕方なく食べましたら 案外美味いじゃないですか、それ以来 好物に変わったのです。 回答ありがとうございました、良い年を お迎え下さい。

回答No.6

isoken大センセお邪魔します > 皆様の記憶の襞に刻まれた、食の思い出があれば お聞かせ下さい。 小・中と学校給食でしたが、昭和50年代~60年代でもなお脱脂粉乳でした ゲロ不味く、飲めたもんじゃありません いつもクラスメイトの松ちゃんに飲んでもらっていました ですから私は未だに牛乳が飲めないんです クジラの竜田揚げは美味しかった記憶があります 今食べたら不味いのかな? >我儘が多い 昨今の子供達を、片っ端から 万景峰号 に乗っけて、食うや食わずの 「 地上の楽園 」 北朝鮮 で 2 ~ 3年 武者修行させればどうでしょうか、 いいアイデアですね😊 でも、そんなことしたら誰一人帰って来れなくなりますね 北鮮は何を考えてるか分からない国ですから… 拉致被害者の会の横田滋さんも飯塚さんも亡くなってしまいました 相変わらず岸田政権も「最重要課題」と言っていますが、そこまで力を入れているとは思えません 1日も早く、全員の帰国を希望します さて、isoken大センセにも今年1年お世話になりました どうぞ良いお年をお迎え下さい 奥様によろしく!!

isoken
質問者

お礼

ミッタン、こんにちは。 >小・中と学校給食でしたが、昭和50年代~60年代でもなお脱脂粉乳でした >ゲロ不味く、飲めたもんじゃありません 一世代前まで、 ゲロ不味の 脱脂粉乳 だったとは聞いておりましたが、 ミッタン の時代にもありましたか、飲んでみたい気が ・・・・・ 全然 しないな ~ 。 >いつもクラスメイトの松ちゃんに飲んでもらっていました >ですから私は未だに牛乳が飲めないんです ズルはいけませんよ、でも それにしては 良く育った事、 松ちゃん は 脱脂粉乳 が 好きだったのかな ? 、それとも ミッタンの事が 好きだったのか 怖かったのか。 >クジラの竜田揚げは美味しかった記憶があります >今食べたら不味いのかな? 不味いです、鳥カラの方が 100倍 美味い ! >いいアイデアですね😊 でしょう ? 、ついでに もう1つ企画するとすれば、肥満に悩む 全国の老若男女に向けた、 期間限定 「 泣く子も黙る 北朝鮮 耀徳 ( ヨドク ) 収容所 ダイエット ・ ツアー 」 。 日本に限らず 現在 ほぼ全ての国では、 物が溢れてるから 食べちゃうんです、依って 鉄の意志が無ければ 痩せる事なんか 夢のまた夢。 その点 北朝鮮は、普通に餓死者が出る国ですから、絶対に痩せます、もっとも 必要以上に痩せて、棺桶で帰国するリスクもありますが。 >1日も早く、全員の帰国を希望します 横田さんも 飯塚さんも 本当にお気の毒でした、仰る 拉致問題に関しては、我が国の左派勢力のみならず、臭い物に蓋をして来た 歴代の 自民党政権も、 真摯に反省しなければならないと思います。 気持は 勿論 右に倣えですが、ただ 生存の可能性ですよね ・・ 、 食料事情は最悪ですし、厳しい 気候風土 もそう、その上 政治的弾圧が凄くて 人命が軽い国ですから、どうなんでしょう。 さて 私のみならず、家内にも御配慮頂きまして 恐縮です。 ミッタンも 良い年をお迎え下さい、それと オッサンさん も・・、 回答ありがとうございました。

  • jrn700
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回答No.5

昔々大昔、デパートの屋上で遊び、"大"食堂でお子様ランチを食べるのが至福の幸せだった時代があります。 どんな味だったか覚えてはいませんが・・・・

isoken
質問者

お礼

jrn700 さん、こんにちは。 >昔々大昔、デパートの屋上で遊び、"大"食堂でお子様ランチを食べるのが至福の幸せだった時代があります。 >どんな味だったか覚えてはいませんが・・・・ デパート 屋上の ミニ遊園地・・、懐かしいですね、 お子様ランチ もそうです、 激ウマ でした。 その ラインナップ も 鮮明に覚えておりまして、ミートボールに 少量のナポリタン、それと タルタルソース が掛かった 魚フライと 若干のサラダ ・・ 、一方 あれは チキンライスだったのでしょうか、ケチャップで炒め 円柱状に固めたその上に 日の丸の旗が添えられていたライス。 今でも 食べられそうな気がします。 回答ありがとうございました、良い年をお迎え下さい。

回答No.4

「遥か 胃袋の記憶」 良いお題ですね。 でも残念ながら私には胃袋の記憶があまりない 59歳の時に胃袋を半分とってしまって 尚更胃袋の記憶が無くなってしまった。 そんな私をせっせと外食に連れ出し あれを食べろこれをを食べろと夫は煩い 年を考えてよ 貴方と同じものが食べられる訳がない と いつも困ったなと思いながら食べている私 私の母は料理が下手な人だった (私は上手) ですから美味しいお弁当というものを食べた記憶がない 今も一番嫌いなのはお弁当というもの もちろん「なだ万」の最高級のお弁当なら美味しいとは思いますが 何しろ中学生の時には給食がなかった (今でも横浜、川崎はないらしい いまだにですよ 共〇党の弁護士さんが何とかしようと頑張っているらしいですが) お弁当は二口食べては残していた。 夕食は三口食べてはご馳走様と箸を置く 子供の頃からあまり食べ物を食べたいと思わず 必然的に痩せていた、 23歳で結婚するまで食に興味がなく 体重は38キロ位で皆に羨ましがられていた ところが主婦となり自分で3度の食事を作るようになり これまた腕を上げて、自分の料理は結構おいしいなと思い 少しは食べるようになって(前夫、現夫ともに認める) 当然体重は増えてその頃から45キロくらいになってしまった。 今でも食事は自分で作るものが一番おいしいし口に合う。 体重は当然50キロを超えました。 私の遥か胃袋の記憶は・・・ 不味い脱脂粉乳とコッペパン そして美味しくもない母のお弁当 あっ! 一度だけ どこかで食べたミートボ-ル あれはとても美味しかったです。 ※お母さん ごめんなさい  このような場面で悪口を書き込むなんて<(_ _)> 以上が私の胃袋の記憶です 失礼致しました。

isoken
質問者

お礼

purimuro-zu さん、おはようございます。 >59歳の時に胃袋を半分とってしまって purimuro-zu さんも そうでしたか、これは 聞いた話ですが、胃の何割かを切除しますと、食道を通過した物が、 余りに早く腸に達することで 引き起こす 種々の弊害・・、所謂 ダンピング症候群 に悩まされるケースが多いそうですね、ソフトバンク ホークス の 王貞治 会長が 言っておられました。 かつて 大酒飲みだった人が、たった コップ1杯のビールで 酔っちゃうとも聞きます、ただ 命の代償 と思えば、仕方ないのかも知れませんね。 >私の母は料理が下手な人だった (私は上手) >ですから美味しいお弁当というものを食べた記憶がない 実家暮らしの 約30年と、結婚して 経過した 約30年の日々を比較した場合 ( つまり 母の味と 家内の味が 丁度 半分半分ぐらいという事なのですが ) 、 正直言っちゃうと 料理の腕も そのバリエーションも 家内の圧勝です。 もっとも 母には 口が裂けても言えません、倅の私が 嫌になるほど 誇り高い人ですし、そもそも 彼女の自慢は、 他を圧する美貌と 料理でしたから。 但し 弁当ってやつには、或る種の 魔力があった気がしますね、 日々 食べているはずのおかずが、一旦 箱に入っちゃうと 何故 あんなにも美味かったのか・・、妙に 懐かしいのです。 >もちろん「なだ万」の最高級のお弁当なら美味しいとは思いますが 「 なだ万 」 の懐石 ・・ 美味いですよねぇ、 帝国ホテル 店には 何度か行きましたが、今は デパ地下で 気軽に 懐石弁当が買える時代、しかも 手頃なお値段で。 尚 「 なだ万 」本体は、アサヒ ビール の完全傘下企業らしいですが、全国展開する 懐石料理店の ネーム バリュー としては、 「 吉兆 」 辺りと並んだ 最高峰でしょうか。 ところで 東京駅 直ぐ傍の シャングリ ・ ラ ホテル にも テナントが 入ってるんですよ、もしまだでしたら 一度行かれてみては如何でしょう。 もっとも私も 行った訳ではありませんで、同ホテル内の 「 ピャチェーレ 」 という イタリアン に 時々行くので、知ってるだけでして。 >何しろ中学生の時には給食がなかった >(今でも横浜、川崎はないらしい いまだにですよ 共〇党の弁護士さんが何とかしようと頑張っているらしいですが) いや そうでしたか、てっきり 公立の小中学校は、今でも 全て 給食だとばかり思っておりました。 実は ガキの頃、 一部のメニューを除き 給食が死ぬほど嫌いでしてね、暴力で威嚇して 給食当番に配膳させなかった為、小学校の6年間は ほぼ コッペパンしか食べてません、中学から都心の私立に通ったのは、全て そのせいなんです。 ただ 主婦目線で考えた場合 確かに助かりますし、今はもう 給食の恐怖に怯える事も有りませんから、 横浜 ・ 川崎 の 給食実用化 ・・ 大賛成でありますが。 >ところが主婦となり自分で3度の食事を作るようになり これまた腕を上げて、自分の料理は結構おいしいなと思い 少しは食べるようになって(前夫、現夫ともに認める) 当然体重は増えてその頃から45キロくらいになってしまった。 うちの母は、食事の レパートリー が 恐ろしく少ない人で、その為 食卓に出て来るおかずのサイクルが 異常に早くて、 内心 妹と私は 不満だらけでしたが、父が母を 非常に愛しておりまして ( 今でも ) 、出て来る食事を 何でも美味いと言って食べる為、我々は 何も言う事が出来ませんでした。 愛は無論 大切ですが、胃袋を満足させる 料理の腕も 負けず劣らず ・・ と 分かったのは、結婚 以降の事です。 ただ 母が作る卵焼きは 絶品でした、あれだけは忘れられない、それと 全て薄味の家内との比較に於いて、 母の 濃い味付けも 満足の行くものでした。 何せ 蕎麦にしろ うどんにしろ、醤油で煮込んだようなおツユじゃないと満足出来ないのです、典型的な関東者の私は。 さて 今年も色々 お世話になりました、どうぞ 良い年をお迎え下さい。 回答ありがとうございます。

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