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確固たる信念を持った人は強いのでしょうか?
- 確かに「決まりを守らせる」「目的に向かって行動する」これが「社会的存在」にする事であると思いますし、「●●だからいけない(法律や校則を破る)」と云うのはこの教師の云って居る事も良く解るのですが、苛めも道徳的に断罪するのではなく、この教師は「学校での秩序を乱した」「暴力は犯罪」と云う事で解決しておりました。
- 仕事でも「他人の事は興味が無い」「他人に相談されたくない」という人が居られます。「自分の人生は自分で責任を取る」と云う事なのでしょうか?「お香典やお祝いは要らないと辞退その代わり自分も行かないし出さない」「報酬分の仕事はする」という感じでいる人が居ます。
- つまり、前述の三上と云う教師も卒業生が「今ここに就職し頑張ってます」と云われると「そうですか、立派な大人に成って」と云う様な社交辞令的な建前が嫌で「学校に居る時は生徒を演じろ 卒業すれば貴方がどうなろうと知らん 関係ない」と云う事が云いたいのだと思います。もしやして、酷い苛め(暴力等)はいけないが、この様な冷たさが社会なんだという事を教えているのが、この映画なのでしょうか?(切り捨てや裏切り 苛めもあるそれを学べ 今は生徒を演じろという事なのでしょうか?)
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>その様に生きれば楽で、その様な確固たる信念を持った人は強いのでしょうか? 人間関係は楽なはずがありません。無駄な摩擦にも耐えなきゃならない。 ただ、人間関係で考え悩む必要は無いので、その点では気楽です。 強い弱いではなく、どっちが楽なのかの選択が違っているだけと思います。 >「自分の人生は自分で責任を取る」と云う事なのでしょうか? 自分の意思にかかわらず、責任は「取らなきゃいけない」ものですよ。 人生は、他の誰のものでもないんですから。 それに、「他人に相談されたくない」となってしまう気持ちは判らんでも無いです。 相談されてアドバイスしたとして、「あんたの言う通りにしてえらい目に遭ったわ、どないしてくれんねん!!!!!」って文句言う人はホンマに至る所にいます。よく当たる占い師でもないのに。 まぁ、そこまでは言わなくても・・・ 裏で「あの人の言う事信用すると失敗するで~」とか言いふらす人も決して少なくありません。 「知らんがな」に徹した方が被害が少ないと考えても、全く不思議はないと思います。 これは、確固たる信念とは別物です。徹底した自己防衛です。 なので、映画の中学教師とは別物です。 それと、切り捨て・裏切り・虐めが全くない世の中だと嘘つくくらいなら、耐性を少しでも持たせるというのは現実解の一つとして必要、というのも一理あると思います。 個人的には全面賛成ではないですが、やむを得ない部分も感じます。
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- eroero4649
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弱い人間で、他人と関わると流されたり自分が保てなくなるなら他人を拒否しているという人も少なくないと思いますよ。 そして自分が弱い人間だと思われたくない、他人に舐められたくないので虚勢を張っているということもあると思います。 教師で例えるなら、「女王の教室」で天海祐希さんが演じた鬼教師がそんな人じゃなかったでしたっけ。ドラマ見てないからよく知らないけれど。 本当は優しい先生だったけど、それでは世の中を生きていけないからあえて冷徹な人を演じていたんじゃなかったでしたっけね。
お礼
ご回答有難うございました。 》弱い人間で、他人と関わると流されたり自分が保てなくなるなら他人を拒否しているという人も少なくないと思いますよ。 》そして自分が弱い人間だと思われたくない、他人に舐められたくないので虚勢を張っているということもあると思います。 頷ける話です。自立は必要ですが、唯そこで 「有難う」という人とと、「構ってくれるな、自分は自分でやります、貴方がどうなろうと知りません」的な態度を取られる人が居ります。その様なやり方を露骨にされると淋しい気がしたので質問させて戴いたのですが、この映画の教師も生徒や保護者同僚教師にも同じ様な台詞が有ります。唯それで「人間的なつながりを持たない」態度を取る事で「自分はこれでやってます、構わないで下さい」的な処を見せているのかとも思えます。 。 》本当は優しい先生だったけど、それでは世の中を生きていけないからあえて冷徹な人を演じていたんじゃなかったでしたっけね。 日本はしがらみがあるが、未だ情の在る世界かと思います、 海外などに行くとその様な感じで、特に共産主義の中国やロシア等はその辺りが顕著だという話は聞きました。
- yaasan
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信念を持っている人は強いですよ。大体のことはその信念に照らし合わせて、解決しますから。迷ったり悩んだりはなかなかしないでいい。 ただ、信念を持っていることと自分の考えしか受け付けないことは別の考えです。「時には広く意見を求め、それも考慮し、柔軟に対応していく」という信念がある人が一番強いです。 人間が一人で考えてひねり出す答えなんてのはごく狭い範囲です。少し角度を変えても違う答えが出てくることだってたくさんあります。その答えもひとつだけが正解ではなく、いろんな答えが正解、もしくはやりようによっては正解にできる、ということばかりです。逆もしかり、何をやってもやりようがまずければ、不正解になっていきます。 そうですから、「俺はこう、こうだけが正解だから、人の話は一切聞かない」ってのは見識が狭くて、ちょっとの行き違いが出ると正解から遠のいてしまって、ドツボにハマる展開にもなると思います。 一方で、自分はこう考えるけど、他人の意見をとりあえずは受け入れて、総合的に考えて、元の考えから変える、または変えないとプロセスを経て結論に至る場合は、途中でずれてきても修正が効きやすいので、より正解の道をずっと保てるようになると思います。 「自分の人生は自分で責任を取る」これは至極当たり前のことです。究極は自分だけが自分の人生を動かせるのですから。だから、その人生の指針を決めるのに他人の意見ばかり当てにして、自分でほとんど考えずに生きていくのは愚かしい行為かと思います。 しかし他人の言動を見て学び、今の自分を更に磨いていくこともとても大事だと思うのです。映画の話で言えば、先生は教える人、だから学ぶ間の生徒の時だけ生徒であって、あとは知らん、ではなくて、生徒は先生から多くのことを学び、卒業しても先生や他の人からも学び、先生は生徒から学ぶ点は学ぶ。本来はそうであるべきだと思います。 言ってもなかなか難しいことです。人間は愚かな面がありますから。しかしながら、人から学ぶ姿勢を保てなくなるようですとその人の成長はそこで止まるということです。
お礼
ご回答有難うございました。 》信念を持っている人は強いですよ。大体のことはその信念に照らし合わせて、解決しますから。迷ったり悩んだりはなかなかしないでいい。 成程、その信念に照らし合わせて考える処がある頷ける話です。 》ただ、信念を持っていることと自分の考えしか受け付けないことは別の考えです。「時には広く意見を求め、それも考慮し、柔軟に対応していく」という信念がある人が一番強いです。 これが理想かとも思えます、そこで色々な場に対応していくそれが大事かとも思えます。 》「俺はこう、こうだけが正解だから、人の話は一切聞かない」ってのは見識が狭くて、ちょっとの行き違いが出ると正解から遠のいてしまって、ドツボにハマる展開にもなると思います。 唯それで孤独でもいい、何を思われても「自分の生活基盤が成り立っていれば」それでいいという人は居られるので、せめて此方の気持ちをとも思うのですが、それも無駄と考えておられるのかもしれません。 》一方で、自分はこう考えるけど、他人の意見をとりあえずは受け入れて、総合的に考えて、元の考えから変える、または変えないとプロセスを経て結論に至る場合は、途中でずれてきても修正が効きやすいので、より正解の道をずっと保てるようになると思います。 それが理想だと思えます。 》「自分の人生は自分で責任を取る」これは至極当たり前のことです。究極は自分だけが自分の人生を動かせるのですから。 》しかし他人の言動を見て学び、今の自分を更に磨いていくこともとても大事だと思うのです。映画の話で言えば、先生は教える人、だから学ぶ間の生徒の時だけ生徒であって、あとは知らん、ではなくて、生徒は先生から多くのことを学び、卒業しても先生や他の人からも学び、先生は生徒から学ぶ点は学ぶ。本来はそうであるべきだと思います。 多分あの映画は「自立」を描いているが、そこで終わりではなく常に学び続けていかなければならないという事なのでしょうが、この教師は教師と云う立場では生徒に接するが、個人としては関係ないという事が云いたかったのではないか?故に卒業し居た生徒や、生徒への情的なものは居らないし、知らないという事を露骨に示しているのかとも思えます。 》言ってもなかなか難しいことです。人間は愚かな面がありますから。しかしながら、人から学ぶ姿勢を保てなくなるようですとその人の成長はそこで止まるということです。 確かに、あの映画駅伝大会で優勝と云うので、それは良かったのですが、それで終わりではないとおもいます、 優勝しなくてもまだ道はありますし、優勝したからそれで全てではないと思えます、唯この教師情的なものは「知らない」「耐えろ」「酷いと法的に処分」「悔しかったら優勝しろ」と頷ける処もありますが、時にはそれだけではなく「ふれあい」も必要かと思える時もあると思いますので。
お礼
ご回答有難うございました。 》人間関係は楽なはずがありません。無駄な摩擦にも耐えなきゃならない。 ただ、人間関係で考え悩む必要は無いので、その点では気楽です。 強い弱いではなく、どっちが楽なのかの選択が違っているだけと思います。 多分、「関わりません」「相談も乗りません」と割り切ると楽かもしれません。唯「淋しい」と云うものも無いのかもしれません。 》自分の意思にかかわらず、責任は「取らなきゃいけない」ものですよ。 人生は、他の誰のものでもないんですから。 》それに、「他人に相談されたくない」となってしまう気持ちは判らんでも無いです。 》「知らんがな」に徹した方が被害が少ないと考えても、全く不思議はないと思います。 》これは、確固たる信念とは別物です。徹底した自己防衛です。 これも頷ける処もあるのですが、 私は親族に「お元気ですか?」と連絡すると 「勝手にやってます、その代わり貴方がどうなろうと知りません」的な態度を取られた事が有りましたので、淋しい気が致しました。 その人は「法は違反していません」「自立してます、だから貴方にとやかく言われる筋合いはありません」的な対応をされたので、この様な人も居られるのか?社交辞令でも 「有難うございます、其方もお元気で」と言って戴くと 此方も気が晴れたのにと思ったのです。 例えば、業務が入り休日出勤した場合でも「ご苦労さん」といわれるのと、「そんなもの当たり前」という人が居ります、形態は変わりませんが、その違いは大きいのだと 思います。 》切り捨て・裏切り・虐めが全くない世の中だと嘘つくくらいなら、耐性を少しでも持たせるというのは現実解の一つとして必要、というのも一理あると思います。 個人的には全面賛成ではないですが、やむを得ない部分も感じます。 それも理解できますが、それを全面賛成すると「苛め容認」と云う土壌も生み出す「軍隊」や「共産主義の国家」等にも成ると思います。