- 締切済み
小説のシナリオって、どうして暗いものばかり…
小説を読み始めたんですが、どうして話が暗いものばかりなんでしょうか? 文豪と呼ばれた人は沢山いましたが、書いてる本はほとんどが暗い話ばかりだなあと感じました。 コレってどうしてなんでしょうか...? (ハッピーエンドがいいってわけじゃないです。けどあんまりに人間模様から背景から境遇からつらすぎませんか..?)
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
みんなの回答
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6878/20342)
例えば新喜劇と呼ばれていた関西の演劇は 世の中がまだ豊ではなく 庶民は現代から比べると貧しい生活を余儀なくされていた。 そんな時代に新喜劇の中で アホを演じて アホゆえに貧乏で恵まれない暮らしをしている主人公を見て 観客は自分たちよりもっと下がいる 自分たちはまだまだ底辺じゃないと再確認している。 それと同じような感覚です。 平和で明るく楽しく生活できている人たちはほんのわずか。一般大衆は 苦しく辛い生活を強いられている時代に もっと虐げられているひとたちがいるのだと 本を読んで感じることで自分を慰めるのです。
- asuncion
- ベストアンサー率33% (2127/6289)
それは質問者さんがお読みになった書籍のストーリーが 「たまたま」暗かっただけのことで、何も「すべての小説のストーリーが暗い」 わけではない、ということはご理解いただけますよね?
暗いものの方が感情移入しやすいからだと思います。 明るいのを読みたいなら、ライトノベルを読めばいいかと。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
どストレートに回答すれば、能天気なリア充は文学を読まないし、そういう人は文学者(書く側)にもならないからじゃないですかね。 太宰治が右代表ですが、文学者は人類の苦悩を背負ったような顔をするのが好きな人たちが多いです。太宰みたいなスタイルの自称文学者ってすごい多いじゃないですか。 そして太宰治といえば有名なのが、ほおづえをついて考え事をしているような写真です。あれって別に彼の普段の表情をカメラマンが切り取ったのではなく、ああいうポーズをカメラの前でやったのです。「はい、目線はもうちょっとこっちに持ってってください。そしてなにか悩んでいるような考え事をしているような表情で・・・あー、いいですね」ってな感じで撮っているんですよ。 夏目漱石は、椅子にもたれかかって考え事をしているような写真が有名ですね。芥川龍之介は左手を顎にやる写真が有名です。芥川先生は、左手に顎をやる写真が沢山残っています。つまりカメラマンがやってくるとあのポーズをとっていたってことですよね。もはや芸人の持ちネタの領域です。 現代だって、京極夏彦先生は人前に出るときは和服に指ぬきの革手袋をするという謎のいでたちです。そしてやたらと力強い目線でカメラを見ます。 つまりね、作家ってー先生方は、ナルシストが多いのです。ナルシストではない作家がいるのだろうかというくらい。 そうなりゃ不幸に酔いしれるようなストーリーが多くなるのも必然ではないかなと思います。そしてそういう書物が好きだというのが文学好きの人たちなのだと思います。
流行を表現したり、痛快な結末で一時の娯楽を読み手に与えるだけの文芸作品は時代を超えて生き残らないからです。文学とは、それを読む前と読んだ後で自分は変わった、と言えるはずのものです。そこには読み手が永遠に求めるものが有ります。俺はあの本に書いてあったとおり生きてよかったよ、苦しい時をあの本に救われたよ、というのが文学の機能です。文学とは人生の疑似体験です。だから、ロボコップはどんなに構成が独創的で結末がハッピーかつ正義でも、時代を超えて生き残ることはありません。見た時おもしろくてもその後40年の読み手の人生の助けにならないからです。流行の街で愛しあう複数の男女の話でも同じです。しかし日はまた昇るには、肉体の悩みがあり、手の届かぬ理想が有り、つまり文明人なら誰でも共有する問題と解決が、あるいは解決しなくても似たような問題を持つ自分が孤独でないと言う慰めが有ります。あしながおじさんはハッピーでしたがそこにはハッピーでない退屈な日々をハッピーにするための知恵の教えが有ります。つまり少なくとも50年生き残る文学にはそれに必要な品質があると言うわけです。
- thinkand
- ベストアンサー率22% (61/275)
ニーズがあるからですかね 私は小説とか映画とかドラマとか、 若い頃は無邪気に楽しみましたが今は一切見ません というか、見何をみても感情移入ができなくなりました ノンフィクションはみます 結局、自分の過去の経験、トラウマ、夢、欲望、などの自分だけのストーリーを創り上げることしか満足出来なくなりました 他人の書いた脚本には、何にも感動しません リアリティがないからです 若く経験不足の頃はあれこれ想像して夢想できましたが、アラフィフくらいから楽しめなくなりました 自分の実生活を自分の脚本で演出し演じる、これしか楽しめないですね 金持ちになりたければ金持ちになる映画を観て満たされるのではなく、金持ちになる、 良い女とイチャイチャしたければ、エロビデオなんか観ないで良い女とイチャイチャする、 サクセスストーリーに感動したければ、自分がなんでも良いのでジャンルを決めてサクセスする、です 小説や映画は人生の寄り道として、手軽に娯楽を手に入れるという手段としてはありですが、所詮、他人の創造したものでしかありません 自分がクリエイトしたもの以上に楽しいものはありません 小説が暗くておかしいと思う理由を気にするより、 貴方自身のストーリーを創り上げ実践する方がリアルだと思います もちろん、派手に人を殺したり、とか、そういう欲求は具現化できませんが、そういう煩悩は人格形成の過程で削ぎ落とされていくものです
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3668)
文豪と呼ばれる面々となると時代背景が現在とは違いすぎますね。 明治大正という時代であれば、士農工商といった身分制度が廃止になった後とはいえ、ちょんまげが取れて靴を履き始めた程度の時代であり、日清日露戦争、或いは、大正期の第一次世界大戦などを含めた世界情勢、周辺国との軋轢や、武士の時代から民衆の時代へ移り行く中で、物資不足や食糧難から、明治の一揆から大正の米騒動など、まだまだ、不安定な時代。 また、現在とは違い庶民の楽しみといったところで、相撲や芝居小屋ぐらいしかなく、小説なども明治に漸く花が咲き始めた程度であり、まだまだ一般に普及するまでには時間を要する時代でもあった。 漱石自体、生まれが慶応時代、つまりは、江戸時代の人間ですから、そう考えると、現代が物に溢れる時代であるのに対して、文豪の登場した時代背景といえば、物は何もなく、これといった娯楽もないばかりか、幕末維新の動乱から新しい時代への模索の時代ということからも、楽しみなどというよりも、むしろ、立て続けに起きる戦争を含めて、きわめて殺伐とした時代。 明るい小説を書こうにも、明るい材料が見当たらない世相からは、その時代に生きた文豪と呼ばれる人たちでさえ、未来予想を込めたウキウキするような小説はかけなかったと思いますよ。 ただ、平塚らいてうあたりが、雑誌「青鞜」発刊の中で『元始、女性は太陽であった』などとして、女性の権利獲得への足がけを創るなど、単なる民衆から日本国民という概念の中で、自由と平等と権利という発想が漸く胎動し始める中で、新しい価値観のもとに小説にも、まだまだ夜明け前とはいえ、それぞれの時代の変化に即した新風は吹き込まれた筈ですよ。 大正から昭和にかけては、それこそ全面的な戦争の時代に突入しますから、明るいとか楽しいなどという言葉さえ使えない状況ですから、貴方の望むようなハッピーな小説が登場するのは、せいぜい高度成長期も終えて、国民全体に平和な意識が広がってからではないですか。 ちなみに、漱石などは英国留学の経験からか、楽しくはないけれども、それなりに面白いと思いますがね。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
そういう分野ばかり読んでいるからでしょう。夏目漱石の「坊っちゃん」なんかは暗い話ではないですし。純文学作品は人生を描いたものが多いですし、何不自由なく一生を送っている人はごく一部にすぎませんからそんな話はあまり題材に取り上げられないということはあるかもしれませんね。娯楽小説と言われるものであれば必ずしも暗い話ばかりではありません。