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戸塚宏校長の躾は闘犬を躾ける様な感覚でしょうか?
- 戸塚宏校長の躾は闘犬を躾ける様なもので、超えられない軟弱者で超えられる強い精神を造る為に体罰を容認していると考えられます。
- 戸塚宏氏や田母神俊雄氏、野々村直通氏などは、罰則や体罰によって強い精神を育成することを重視しています。
- 一方で、尾木直樹氏のような教師は生徒に対して緩い態度を取り、野々村氏のような教師の方が生徒に緊張感を与えるとされています。
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ルールを守るには二つの要素が大きく絡まっていると思います。一つはモラル、一つは罰則です。 個人においてまずは自身のモラルに沿って、ルールを守るかどうかを判断します。ルールを守らなくていいと判断した結果、秩序が保てないと集団が判断した時に守らないことへの罰則が付与されます。そこで改めて、罰を受けてでも守らなくていいかの判断を個々がしていく、これが現状だと思います。 日本における平等な教育は明治維新に始まって、戦後から明確な義務が発生し、今に至ります。ですから、モラルという点においては成熟する過渡期にあったと思われます。ですから、モラルによって守られるよりも罰則によって守るようになる人が多数いたと思われますので、体罰を含めた教育も可能だったのだと思います。 それが教育を続けて、今の未成年の親世代までは教育を受けているのが当たり前となりました。ですから、モラルもある程度以上成熟しているので、教育の現場において、子供たちが個々のモラルに照らして判断し、ルールを守ることのほうが大事だということで体罰を禁止しだしたのだと思うのです。その判断はその意味においてそんなに間違っているとは思わないです。 ただ、どの時代においても大多数からはみ出る人は一定数います。どういった前提でもルールを守る方になる質問者様のような人はさほど問題になりませんが、真逆のどれだけ教育してもルールを守れない人がいることも現実なのです。そういう異端児に対して、他の人と同じように平等に扱えるかどうかとなると難しい問題かと思います。ですが、体罰が正しいとも言い切れません。 体罰を含めた罰というのは単なる抑止力でしかなく、それによって鍛えられる精神というものはありません。限界に挑戦して、今までの限界を超えることによって、また限界を超える精神力を養うという点とは全く違うものだと思います。下手をすれば、罰を受けなければ何をしてもいいという甘い精神になりうる可能性を秘めていると思われます。 体罰によって、と考える人は旧時代の化石だと思うのが正しいでしょう。今の時代に沿えば、体罰は必要ありません。しかし、モラルに欠けた人がいることも事実で、その人にはどう対処すればルールを守るようになるのかはまた新たな課題なんだと思います。
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- SI299792
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戸塚宏の目的は、合法的に子供を殺す事。又は、精神的に殺すことです。 親も、戸塚宏なら子供を殺してくれると思って預けます。 ヨットスクールにいたわけではありませんが、親戚の発達障害の子供は、私が軽く注意しただけで、「ごめんなさい、ごめんなさい」何回も大声で謝りました。このように自我のない、人には絶対服従の人間を作りたいのです。
お礼
ご回答有難うございました。 合法的に子供を殺す事。又は、精神的に殺すことです。 親も、戸塚宏なら子供を殺してくれると思って預けます。 家族にも酷い事(家庭内暴力 非行等)をすると、幾ら家族とはいえ、 憎悪感があるかと思います、長年引きこもっていた子どもを父親が殺害した事件、 家庭内暴力や非行が酷い子どもを家族で殺害した例がありましたが、それに似ているのでしょうか? このように自我のない、人には絶対服従の人間を作りたいのです。 一定のルールを守らせるのは良いが、そこから洗脳、服従にまでさせている様な気がしますが、 これがヨットスクールの狙いなのでしょうか?
- eroero4649
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戸塚宏氏のあのスパルタ教育の原点にあるのは、ヨットで航海中に遭難した経験なのだそうです。彼はヨットで航海中に嵐に遭って沈没して死にかけたことがあります。そのときに「大自然はあまりに容赦がない」ということを身に沁みて知らされることになります。それから「大自然はいつ極限の状態に人間を追い込むか分からないから、普段から厳しい訓練をして厳しいときに備えるべきだ」という方針になったんですって。 それであの厳しいヨットスクールになったわけですが、そうこうするうちに札付きの不良なんかが親から送り込まれて「不良少年更生施設」みたいになっていきました。 私の昔の知り合いで、相撲部屋にいたことがあるという青年がいました。体が大きくて、中学生のときは手が付けられない不良少年で、教師から「お前は相撲部屋に行くかヤクザになるかどちらかだ」といわれて教師の紹介で相撲部屋に入門したそうです。 ケンカ番長だった彼は「ケンカで金が貰えるなんて夢のような話。全員ブチ倒してやる」という意気込みで入門したのですが、そこで散々「かわいがり」を受けました。彼ら不良少年の行動基準は単純です。「自分より強い相手には従う。自分より弱い相手は支配する」という、それだけです。だから「こちらのほうが強いんだ」というのを彼らに思い知らせないということは聞かないんですよ。いいとか悪いとかは別にして、話が理解できないタイプの人はある一定数はいるのです。 人間を集団の枠にはめ込む行為は、必ずしもデメリットばかりでもありません。私たちは今でも小学校で軍隊式の訓練を受けますよね。「前へならえ」とかのあれです。あれは元々軍事訓練の名残です。 で、東日本大震災のときに子供たちがパニックを起こさずに冷静に避難したことが世界中の教育関係者から大変に驚かれたのです。国によっては、あんな大地震になったらみんなパニックになっててんでばらばらに逃げてしまうようなところもあります。なぜ子供たちが教師の命令に従って整然と避難ができたのかというと、その普段の軍事訓練の賜物なわけです。 確かにいじめは悪いことですが、なくすこともできません。世界中どこの国でもいじめはあります。アメリカではドッジボールが禁止です。特定の子供へのいじめを助長する競技だからです。特にアメリカの高校でのいわゆるウェーイ系のオタク系へのいじめといったらドン引きするレベルですよ。来日したYou(海外オタク系青年)があんなに生き生きしているのは、日本だと周囲からいじめられることがないからです。
お礼
ご回答有難うございました。 いいとか悪いとかは別にして、話が理解できないタイプの人はある一定数はいるのです。 人間を集団の枠にはめ込む行為は、必ずしもデメリットばかりでもありません。私たちは今でも小学校で軍隊式の訓練を受けますよね。「前へならえ」とかのあれです。あれは元々軍事訓練の名残です。 で、東日本大震災のときに子供たちがパニックを起こさずに冷静に避難したことが世界中の教育関係者から大変に驚かれたのです。国によっては、あんな大地震になったらみんなパニックになっててんでばらばらに逃げてしまうようなところもあります。なぜ子供たちが教師の命令に従って整然と避難ができたのかというと、その普段の軍事訓練の賜物なわけです。 確かに、特に殴られたりとかではありませんが、私も幼稚園位から行進や前にならえの行動は 役に立っているとおもえますし、無意識のうちに植え付けられたと思います。 確かに、その様な人は居ります、だから暴力団的な組織もあるのかと思います。
補足
「大自然はいつ極限の状態に人間を追い込むか分からないから、普段から厳しい訓練をして厳しいときに備えるべきだ」という方針になったんですって。 小学校で軍隊式の訓練を受けますよね。「前へならえ」とかのあれです。あれは元々軍事訓練の名残です。 それは、頷けます、私も幼稚園位から行進や並ぶ事で災害時の秩序を保ったり出来ているのは、 その故だと思います。 戸塚校長が遭難しかけた時のエピソードは頷ける話です。 そして、不良が相撲部屋で喧嘩の延長で挑むのも彼等には善悪関係なく強い者に従う、 だからそのやり方しかない人も居る事も解ります。 唯、戸塚校長や上述の私の中学時代の教師や同級生は 特にやる事をやって、唯喧嘩が嫌いという人種を 「根性がない」等といい「無理やり苛めや喧嘩日常の枠に入れ 」そこで、「勝ったら認めれやる的」な 価値観を万人に押し付けようとしていたので矛盾に思ったのです。 (非行等しておらず、成人でパーキソン病に成った落語家 純粋にヨットを習いたい人 (普通のヨットスクールだと思って入った)等にもヨットの訓練とは別に 食事も強い者から取る事等を奨励し、その思想を押し付け出来ないと 戸塚校長は怒り狂ったそうです。)
- human21
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戸塚宏校長は、複数の生徒を殺して有罪になっています。 そのような人間の主張に価値も意味もありません。 体罰という言葉自体が詭弁です。 体罰はただの暴力であり、全ての先進国で禁止されています。 現在禁止された国でも以前は体罰と言う暴力が行われていて、多くの人が 命を落としたり、障害者になったりした反省から禁止になりました。 また、体罰という暴力や暴言を吐く指導者は、指導能力が低く、自分の 感情をコントロール出来ない事が分かっています。 指導能力が低い為に、暴力・暴言など脅しで従わせているのです。 人間は犬ではありません。 暴力(体罰)・暴言ともに容認できるものではありません。
お礼
ご回答有難うございました。 体罰という暴力や暴言を吐く指導者は、指導能力が低く、自分の 感情をコントロール出来ない事が分かっています。 指導能力が低い為に、暴力・暴言など脅しで従わせているのです。 指導能力の低さ、説明ができない、それを強権さでされているのだと思います、 が、恐怖ではある程度の秩序は保たれますが、「考えない」「強い者に従えば良い」 という感覚になり、社会は衰退しますが、共産主義の国家と同じで、上の立つ者にとっては良いのかもしれません。
お礼
ご回答有難うございました。 モラル、一つは罰則です。 一つは個人においてまずは自身のモラルに沿って、ルールを守るかどうかを判断します。ルールを守らなくていいと判断した結果、秩序が保てないと集団が判断した時に守らないことへの罰則が付与されます。そこで改めて、罰を受けてでも守らなくていいかの判断を個々がしていく 成程、交通ルールもそうかと思います、唯、個が強いと「あおり運転」の様な事が起きるのだと思います。 モラルによって守られるよりも罰則によって守るようになる人が多数いたと思われますので、体罰を含めた教育も可能だったのだと 教育の現場において、子供たちが個々のモラルに照らして判断し、ルールを守ることのほうが大事だということで体罰を禁止しだしたのだと思うのです。その判断はその意味においてそんなに間違っているとは思わないです。 確かに、体罰なく守らせればそれに越した事は無いと思います。 体罰を含めた罰というのは単なる抑止力でしかなく、それによって鍛えられる精神というものはありません。限界に挑戦して、今までの限界を超えることによって、また限界を超える精神力を養うという点とは全く違うものだと思います。下手をすれば、罰を受けなければ何をしてもいいという甘い精神になりうる可能性を秘めていると思われます 確かに、モラルよりも罰則でという歴史はあり、はみ出す者も居る、 唯「強いから従え」的な感覚で、ここで挙げている方は人を操作し、 「正しさより「この人の命令だから従う」的な感覚を推奨しているのが矛盾に感じるので巣。