毎年何千枚書くかわかりませんが、私は自分を「物書き」とは思いません。
論文も書くし小説も書きますけど。
文章を書く人にある程度共通した感覚があるのは仕方がないのですが、意識の餅用で明らかに間違いということがある場合があります。それは戒めですから書いておきます。
すでに故人なので名前を出してもいいかもしれないけどとりあえず仮名にしておきますが、TTという作家がいました。
青春小説みたいなものから出発し、やがてポルノ版になって稼いだひとですけど、私の年長の友人でこの男を殴った経験を話してくれたのが居る。
飲み屋で「君、ぼくの作品読んでくれた?」などとだれかれかまわず問いかけるということをしていたからです。
「そんな腐れものを誰が読むというんだ」となぐりかかったところ、その後会うたびに「このひと、このひとぼくを殴ったんですよ、ねたみですよ」とその場にいる編集者とか同業者にたいしていいまくり、苦笑を買っていたという話です。
この話を聞いたときああありうると私は思った。その殴った友達の感覚も当然理解できますが、そのTTなる作家の、おれは作家先生だといいたげな態度の感覚もわかった。
まあ、自分の書いたものを同感してくれたり、すばらしいなどといわれたら作者は有頂天になります。それほどのもんでないことは当人が一番知っていても悪い気はしない。たいがいデビュー時はだれかれかまわず褒めてくれますから、そのうち感覚がマヒする。
褒めてくれないやつは、文学がわからないやつだ、というすり替えが発生するのです。文学がわかるからこそ褒めないやつがいるんだという発想が生まれてくるのを自分で踏みつぶす。わかるやつは否定するかもしれないということがないものだと思い込みたがる。
そして、実際にそれほど文章を書かないものは自分を尊敬して当たりまえだと思い込みたがるし、実際に思い込みだすのです。
これが作者が悪臭といいたいような体臭を放つ原因になるのです。
そういう話を聞いて同感しながら、自分の中でもそれに近い感覚がわいてくるのは何度も経験しました。当然自分の中に、殴る友達もいるわけですから、ブレーキはかかりますが。
いろいろ調べたり、プロットを図面化して検討したり、文章の整合性を保つための推敲や一旦頭を冷やしての読み直しなんかをすると、それは高度な知的作業ですから疲労します。しかしそれは自分が勝手にやっていることだ、と認識していないと、あたかも世間のために祈祷活動をしたような錯覚を持ってしまいます。
いいですか、書くというのは自分の勝手でやることだという認識を常に持ち続ける必要があるのです。勝手にやるのだから極力人に迷惑をかけないようにする義務があるのです。原稿料なんていうものをもらっても同じことです。
そこが、ものを書くときに一番気にしなければいけない、大切なことです。
最後についでに言っておきますが、私は品質について理論があり、人に教えたりもしています。講習会なんかをして質疑応答をしてよく分かったと感激して帰るひとも割合います。しかしこれについては絶対に本は書きませんし対談にせよ出版することはしないと公言しています。
理由は明確で、出版された本は独り歩きをし始めるからです。
講習会で、理解したことを受講者に語ってもらうと、すでにその段階で誤差が発生しています。おいおいそれは違う、さっきの説明の趣旨はこうだった、と自分がいればツッコミをいれられますが、ノートだけして帰った人間が自分の空間で何を言うかなんてわかりません。
誰かが品質のことを人に説明したいと思って、仮に私の本があってそれを引用したり、教本にしたりしたら、それは加速します。その人の考えを支援するツールとして私の本が使われたとしたら、それは必ずしも私の思想と合致している保証はありません。
極端に言えば、テロ支援や、ヘイト思想に私が加担しているような使い方をされる場合もあるのです。そんなものに私の署名のある書物が使われたらたまりません。
さだまさしが、「203高地」という映画の主題歌を歌ったがために、戦争賛美者だと揶揄されたこともあったでしょう。
人間というのは、言葉尻で人を決めつける傾向があり、書物はどこかを切り出したら言葉尻にすぎないのに変な思想の宣伝にされる可能性があるのです。
このOKWaveのサイトでも、ある女性が自分の彼氏が東大出だけど短小だとか平気で相談を出しているので、彼氏への配慮は考えないのか、と回答したところ、お前も短小だろう、童貞だろう、やーいやーい童貞野郎、というようなお礼を書いた人間がいました。言葉というのは軽く扱うと本当にゴミくずのようなものに化けてしまうのです。
ものを書くというのはそれだけ重いことがあるのだということを覚悟されるのが大事だと思いますよ。
お礼
長々とありがとうございました。