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浄土真宗のお寺の貼り紙について
宗教のカテゴリーを探したのですが、無かったので、ここに書いてしまいました。 浄土真宗大谷派のお寺に、 「いのちより大切なものに気づかなければ…」 と始まる言葉が書いてありました。 命より大切なものをずっと考えてきたのですが、はっきりとした答えが見つからずにいます。 これは、「自分の命に固執しない、執着しない」、「人生を終えたら、修行の卒業で、次の世界があるのだから」ということなのかと考えました。 ご存知の方、お教えください。。
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- IXTYS
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> 命より大切なものをずっと考えてきたのですが、はっきりとした答えが見つからずにいます。 こんにちは。 とても深い、意義のある、素晴らしい質問です。 『命より大切なもの』ですよね。 『命』とは今、持っているこの命。 今、生きていると言うことです。 ● 命がなくなったら、どうなります? 当然、死にます。 死を迎えます。 すると、どうなります? 死んだ後、どうなりますか? 今までどう教わりましたか? 命あっての物だね、死んだら終わりだよ。 多分、それに近いことだったと思います。 本当に死んだらすべてが終わるのでしょうか? 聖書はそうは教えてはおりません。 ◎ ひとはひとたび死ぬことと、死んだ後裁きを受ける。 これはすべてのひとに定まっている。 (ヘブル人への手紙9:27) 人は誰でも必ず死ぬ。 死んだ後、裁きを受ける。 これはすべての人に定められていると聖書は言うのです。 誰でも死ぬのですが、それですべてが終わるのではない。 死んだ後のことを考えてその準備をしっかりしなさい。 聖書はそう教えています。
- まさしろ(@masasiro)
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>「いのちより大切なものに気づかなければ…」 素直に読めば、「命よりも大切なものがあることに気がつかなければならない」ということなのでしょうけど、ちょっとひねって考えてみます。 「命」というのはあくまで「言葉」であって、言葉には「概念」が紐付いている。概念とはその言葉を理解する上で別の言葉にして言い換えたものであるが、言葉の持つ概念は、蜘蛛の巣のように構造をなし、 相互に関係しあってもいる。 ここで考えなければならないのは、言葉の持つ概念、その強固な構造体に私達はかなりの部分で支配されている。ということです。構造に支配された私達は、飛べない鳥の様な存在であって、身体の赴くまま自由に空を飛ぶことが出来なくなった。 さかのぼって考えてみると、「命」という言葉にはその言葉が生まれる「以前」があったはずで、その頃の人間は、言葉の構造に支配されてはいなかった。命という言葉は無くても、全身のシグナルが命を感じていた。概念の紐帯から解き放たれた世界はきっと、もっともっと生々しく命と一体になる。 人間が都合よく勝手に決めつけた構造は、次第に表面的なものに劣化して、そのものの本質からは遠ざかる。でも人間が遠ざかっただけで、宇宙や地球は現に今も変わらず、言葉「以前」のままである。そのことに今を生きる人間は気づかなければ。。。という解釈はどうでしょうかね? また、似たようなイメージですが、仏教的には命よりも大切なものに「空」という考え方があります。「空」というのを簡単に書けば言葉にはできないもの。となるでしょう。色即是空、空即是色は仏教の根本的な考え方ですね。無限の発見、無限の驚きが宿る「空」の世界が常に私たちの世界を覆っている。 「空」が宿るものへの探求は、ひとりの生命をも超えて、連綿と受け継がれる。この世界は神秘の世界。そのことに気がつくべきであると。 私はそんな感じを受けました。
お礼
ありがとうございます。
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