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ジェンダーフリー
ジェンダーフリーと男女区別は正反対の事なんですか? 男女のトイレや更衣室を混合にする事なんですか?
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ジェンダーフリーの解釈によってさまざまな問題を引き起こしているので、現在ではジェンダーフリーという用語自体の使用は控えていく傾向にあるようですね。 おっしゃるとおり、ジェンダーフリーは男女のトイレや更衣室を混合にするような意味で捉えられているのでしょう。ジェンダーフリーと男女区別は表面上は正反対のことのように思いますが、実際には性の違いによる『心理的な抑圧や不快感をなくす』ようにするためのもので、同じところから始まっていると思います。 ジェンダーという考え方の本来の意味は、自分の性自認(簡単に言えば心の性)に基づき、それに合わせて男女の区別を当てはめるようにする、といったようなことであり、ジェンダーフリーは、男女の垣根なく自分自身の適正に応じて職業を選べる自由、といったところが始まりかと思います。 ジェンダーフリーはさておき、ジェンダーという考えに則れば、体が男性でも心が女性であり、なおかつ自分の身体的な性に違和感を抱えるトランスジェンダーと呼ばれる人が、自分の心の性に合わせて更衣室やトイレなどを利用できる、といったことが理想となるでしょう。あくまでも身体的特徴による『男女の区別』は前提として存在しているものの、心の側面から、そのどちらかを選べる、といったもので、これによってトランスジェンダーの人などが心理的な抑圧(ハラスメント)を受けるのを防ぐことができます。 そして、ジェンダーが心の性である、としたとき、それをフリーにする、つまり心の性をも問わずに男女の区別を利用できる、というのがジェンダーフリーなのでしょう。 しかしこれは簡単なことではありません。 自分の身体の性が男性であることに違和感を持たずなおかつ男性が好きなゲイは、女性ではないので女性用更衣室は利用したくないわけですし、同じくレズビアン女性は女性のことが好きだからといって男性のトイレを利用したいわけではありません。しかし彼らが男性(ないしは女性)の更衣室を使うことで同性の裸が見たいか、と言われれば、もちろんそういう気持ちは無きにしもあらず、とは言え、たとえば異性に裸を見られて嫌悪したりすることがあるように、同性から裸を見られることを嫌がる、といったことも同性愛者には無いわけではありません。 また、複雑なのは、身体が男性であることに違和感を覚えるなど、心は女性であり、しかし女性が好き(トランスジェンダーのレズビアン)という場合もあります。心は女性であるなら女性用更衣室を使えばいいのですが、しかし見た目は男性でなおかつ女性が好き...わかりづらいかもしれませんが、この場合は見た目上も性的指向もごく普通の男性が女性用更衣室を使うことと同じにしか見えないのです。 つまりは、性的指向の違いがジェンダーや男女の区別と等しく介在する限り、性的なハラスメントはいかなる場合でも起きうるのです。 こういった困惑や問題を簡単に解決しようと、『ジェンダーフリー』は男女の区別をも無くして、「トイレも更衣室も男女一緒にしてしえばいいんだ」という解釈になるわけです。 が、結局それは、心理的な抑圧や不快感を解決することから目を背けていて、根本的には何も解決していないのと同じです。 「男女の『差別』をなくすためには男女を『区別』しなければいいんだ」といった考え方に則るかたちで、ジェンダーフリーは極論的に心の性における男女をも混合する、という考え方になってしまったのでしょう。 第3の性、として、男性・女性以外にLGBTQ専用のトイレや更衣室をつくる、といった提案もなされてきたようですが、それも、多くのセクシャルマイノリティの人々から反感を買ってしまっています。男性でも女性でもどちらでもないのではなく、『どちらか一方でありたい』という気持ちがあるわけですから、第3の性などと除外されることは、非常に差別的な意味となるわけです。 すなわち、男女といった区別だけでなく、心や身体や性的指向のさまざまな在り方において適切な対応をするというのが目指すべきところだと思いますが、もはやこれは不可能に近いのが現実です。 しかし私個人が思うに、男女でもLGBTQでも、それぞに区別は必要です。同じ人間ではありますが、身体の機能や心の在り方としてさまざまな質的な違いがあり、そしてすべての人それぞれに等しく差異があることが明白なはずです。そのうえで違いなく共有できる部分を共有し合えばいいと思うのは、もはや理想論でしかありませんが、少なくとも『みんな違いはなく同じ人間だから一緒だ』という考え方(たとえば学校教育などにおける人権関係の話題はそういう結論にしたがりますね)は、現在のジェンダーフリーのような誤った解釈を生みやすいのだと思います。 「分ける」ことによって心理的負担が軽くなるのか、「混ぜる」ことによって心理的負担が軽くなるのか、目的は同じであっても方法は真逆といえるほどに異なる、ということなのだと思います。ひとまずはどちらも絶対的に正しいわけではないでしょう。