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「僕が見た風景」、「僕の見た風景」、どちらが正しい
「僕が見た風景」、「僕の見た風景」、どちらが正しいでしょうか。どちらも使えるとしたら、ニュアンスの違いを知りたいです。よろしくお願い致します。
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どちらも正しいです。 どちらに重要度がおかれているかの違いです。 「僕が見た風景」では、「僕」が主です。 「僕の見た風景」では、「風景」が主です。
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- jonathan4403
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文法的な説明はできないのですが、感覚で、、、 「僕が見た風景」は「見た」の主体が「僕」であり他の誰でもないというのを言っている感じがします。No.1とNo.2の回答に賛成です。 「僕の見た風景」は何か「僕のXX」に短縮できそうな感じです。「見た」の主体は「僕」なのですが、「僕の」によって所有格の様になり、「風景」という言葉もあいまって「僕にとって特有の心象を残す風景」という感じがします。 (風景でなく服や家、本などで)「私の買った本」とすると特有の心象なんか無いですね。合っているかは分かりませんが「私の本」がメインで「買った」がオマケみたいな感じがします。
- marisuka
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今の学校文法では「の」は「文の中の節の主語につく」と説明されています。 つまり、文の中にまた「主語-述語」の部分がある(これを節と呼びます)ときに、その小さな主語に「の」をつける、というのです。 これだと「僕の見た風景が写真になっている。」などとなります。 この「の」を「が」にすると、「僕が見た風景が写真になっている。」となります。意味は通じますが、「が」が二重に出てきてややこしくなるのです。ややこしくならない場合はそれでも意味は通じるので、別にかまわない(通じる)のですが、ややこしい別の例文を作ってみましょう。 ・この写真が僕が見た風景だ。 ・彼が僕が話した人物だ。 これらの例文では、二度目の「が」を「の」にすることでわかりやすくなります。 ・この写真が(僕の見た)風景だ。 ・彼が(僕の話した)人物だ。 というわけで、節の主語に「の」をつける、と説明できます。
どちらも正しい。 ニュアンスの違いを使い分けたいときは、前後の文で、しっくりはまる方を使えばいいです。
- SPS700
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主格を表す「の」と「が」に、昔は差があったのです。『宇治拾遺物語』巻七の二に出て来る話ですが、播磨守為家の家来佐多という侍(下記)の話です。 http://www.koten.net/uji/gen/093.html 隣の家に美人が来てるので自分の着物のほころびを縫わせようと垣根に掛けます。まもなく着物の修繕は無く、「佐多が着物を投げかくるかな」で終わる和歌が付いて返ってきます。 この佐多が、私を尊敬して佐多「の」と言うべきなのに、女の分際で佐多「が」とはけしからんと騒ぎ立てる話です。 今の九州弁でも あのわいの來らした(あの方がいらっしゃった」 あいが来た (あいつが来た) と「の」は尊敬、「が」は、普通ないしそれ以下、と区別が残っています。 しかし、他の地方では残っていません。「僕」のように一人称に付く場合はなおさらです。もし「の」の方が品がいいとか客観的だという感じを受ける場合があれば、歴史的な裏付けはある訳です。
- 131tobi
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「どちらも正しい」と言うより、「どちらも間違いでない」「どちらも自然」と言うべきでしょう。 ニュアンスの違いは、いろいろな人がいろいろなことを書いています。つまり、人によって感じ方が違うということで、どういう感じ方が正解ということはありません。当方は「ほぼ同じ」と考えることにしています。 ただし、用法としては下記の違いがあると言ってよいはずです。 1)単純な文だと「ノ」は使いにくい 2)前後の助詞によって使い分けるべき 【助詞の話──「ノ」と「ガ」 Yahoo!知恵袋】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1862.html ==============引用開始 1)単純な文だと「ノ」は使いにくい ↑の例文を見ればわかる。「ノ」の例文は「ガ」にもできるが、逆はできないものがある(単純な所有を表わす「僕ノ本」などは別の話)。 1)-1 ぼく〈ノ/ガ〉読んだ本 1)-2 お酒〈ノ/ガ〉飲みたい人 1)-3 ぼく〈ガ/X〉やります 1)-4 花〈ガ/X〉美しい 1)-5 先生〈ガ/ノ〉書いた本 ところが、1)-3や1)-4も、もう少し言葉を加えると自然になる。 1)-3 ぼく〈ガ/ノ〉やった仕事 1)-4 花〈ガ/ノ〉美しい地方 理由を説明すると大変なことになる。「こういうものだ」と考えるほうがいい。 2)前後の助詞によって使い分けるべき 意味も用法もほぼ同じだから、都合のいいほうを使えばいい。とくに前後の同様の助詞がある場合は、重複を避けるほうが自然な文になる(重複しても間違いではないが、わかりにくくなる)。 2)-1 これがぼくノ読んだ本です○ これがぼくガ読んだ本です△ 2)-2 このお酒ノ飲みたい人いますか△ このお酒ガ飲みたい人いますか○ 下記の場合はどうするか。 このお酒〈ノ/ガ〉飲みたい人がいる この場合はどちらでもいいと思うが、当方なら「ヲ」にする。 ==============引用終了 詳しくは……下記に書いたことを転載します。非常にメンドーな話なので、リンクを多用しています。必要に応じてリンク先をたどってください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1199381171 「ガ・ノ交替」「ガノ交替」などのキーワードでネット検索すると、専門的な論文がヒットします。それだけメンドーな問題なので、要点だけ書きます。 細かく見ると、一方しか使えない場合があります。 両方使える場合は、意味はほとんど同じです。細かいニュアンスの違いを感じる人もいるようですが、はっきりとした違いはないようです。 詳しくは下記の知恵ノートをご参照ください。 【よくある誤用30──知恵袋の定番5 「東京は浅草にやってきました」の「は」 「夜もふけてまいりました」の「も」 「博士{の/が}愛した数式」】 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128881 以下は一部の抜粋(重言)。 「誤用」とはちょっと違いますが、Yahoo!知恵袋でも何度も何度も同じ質問が出て、検索するすると笑ってしまうような質問が多々あります。 なんとかならないんですかね。おすすめの回答などがあったら教えてください。 助詞の話なので検索がうまくできませんが、それぞれ何回も目にしています。 「博士{の/が}愛した数式」 個人的には下記のように考えています。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1491399304 ================引用開始 質問の例文の場合は「ガ」でも「ノ」でも意味はかわりません。どちらもOKです。 「私の、言った事を伝える」と読点を打つ必要はないはずです。もっと特殊な文脈なら、必要かもしれませんが。 「彼は、選挙のたびに名前(の・が)出る人」もどちらでもOKです。読点は不要でしょう。 一般に、先行コメントにあるように「直後に数詞が来る場合」と「間に入る語句が多い場合」は「ガ」が自然とされています。個人的には疑問もありますが……。 下記のベストアンサーの説明がわかりやすいと思います。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1074379985 個人的には下記のように考えています2。ポイントだけ抜粋します。 【助詞の話──「ノ」と「ガ」 Yahoo!知恵袋】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1862.html 1)単純な文だと「ノ」は使いにくい 2)前後の助詞によって使い分けるべき ================引用終了
- msMike
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「白い花の咲く頃」 「白い花が咲く頃」 のように、後ろが体言(名詞)の場合は“殆ど”同じ意味。 その証拠(?)に曲名が「白い花の咲く頃」の歌い始めは「白い花が咲いてた」。 「白い花の咲いてた」とはチト変です。 https://www.youtube.com/watch?v=4fd_F4daFBg 【お願い】上の URLでアクセス不可の場合、https→httpに変更してトライしてみてくださいネ(どちらで繋がったかお知らせください)
- 9werty
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○○が見た こちらは主観的な感じ、つまり自分の目で見た事かな? 意識して、そちらを見ようとした。 対して○○の見た 多少客観的な感じ、TVなどで○○を含めた構図 トンネルを抜けると、そこは一面の雪だった の場合など見せられた ととらえています。能動的受動的でも同じ意味合いでしょう
- lions-123
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>「僕が見た風景」、「僕の見た風景」、どちらが正しいでしょうか。どちらも使えるとしたら、ニュアンスの違いを知りたいです。 主語は僕であり、接続語・接続詞を用いて述語の風景を指す表現としてどちらも使えると思います。 ニュアンスとしては、自分の体験・目撃を強調したり拘りを表すのに微妙な差異ですが「僕が・・・」の方の表現が「僕の・・・」よりも若干強めに印象付けられているように感じます。 ※しゅごじゅつご【主語・述語】 文法や論理学の用語。その概略については,日本ではすでに小学校の国語教育で〈何が(は)どうする〉〈何が(は)どんなだ〉〈何が(は)何だ〉の〈何が(は)〉に当たるものを主語,〈どうする〉〈どんなだ〉〈何だ〉に当たるものを述語という,と教授するほどで,一般にも周知の用語である。だが,特に文法上の主語は,多少掘り下げて考えると,さほど明快な概念ではなく,特定の一言語についてさえ,研究者によってとらえ方に差があることが少なくない。 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n125529
- Nebusoku3
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どちらも正しいです。 意味的にはかなり近いですがニュアンス的にほんの僅かな違いがあります。 「僕が見た風景」 僕が見た 風景 ⇒ 主格の 「僕」 が強めになります。 能動的な僕 例: 旅行に行ったとき、目的を持って見にいった風景など。 「僕の見た風景」 僕の見た 風景 ⇒ 「僕」 が控えめになります。 受動的な僕 例: 旅行に行ったとき、たまたま目に入ってきた(目にした)風景など。 ニュアンスで無理に分けましたが、本当に大きな違いはありません。 場合によっては入れ替えることも出来るほど意味が接近しています。 但し、その場の心情を表現する場合は大きく異なる場合がありますので、 「心情にあった表現」 であればどちらもOKでしょう。