>自分の手近の事とはどういうことでしょうか。自分の身近なことでしょうか。
はい、「自分の手近の事」という言葉単体が持つ意味としてはその通りです。
相馬泰三の「夢」の作中の該当箇所においては、「自分の手近の事」という言葉を「自分の身近な事の中で、自分の意志で比較的容易に行う事(変える事)が出来る事」という意味を持たせた言葉として使われています。
>彼は自分の最も働き盛りの殆んど全ての歳月と精力とをその子供等の教育費や、それから娘たちの嫁入りの仕度の為めに費さなければならなかつた。
と書かれている様に、主人公である「老医師」は、それまでの人生を他人のためにばかり使っていて、自分のため(自分の楽しみのため)には時間も金も使った事がありませんでした。
そして、
>彼の第四男が、勤めてゐる会社の用で英国へやられた。それに少し遅れて第二女の縁付先から無恙男子分娩といふ手紙を受取つた。この二ツの出来事の外はこれと云ふ程の事も無くてこの冬は過ぎた。以上の二ツの出来事は何れも彼にとつては言葉には言ひ表はせない程うれしい事であつた。何れも半ヶ年ばかり前から分つてゐた事であつたが、愈々/\かうなつてみねば多少の心配もあつたので、殊に第四男の文夫の事に就ついては、これでこそどうやらあの子の出世の道もそろ/\開かれたと云ふものだ。
という事で、子供達が自力で自分達の人生を切り開いていけるだけの目途が付いて、親である老医師は子供のために自分の時間と金を使う必要が無くなったため
>これでやうやく長い/\間の自分の重荷が本当にすつかりとれた様に感ぜられる
ようになり、老医師はようやく自分の人生の残り時間と財産を自分自身のために使う事が出来る状態になった訳です。
そこで、やる事が無くなって暇になった老医師は自分の余生を楽しむために、
>自分の閑散な老後を庭いぢりでもして暮らさう
と考えた訳です。
そして何故老医師が「庭いじり」を選んだのかというその理由が
>彼がこれを選んだのは、これがまあ自分の手近な事の中で一番清らかな且つ静かな事であると考へたからである。
という箇所で説明されている訳です。
尤も、その後老医師は、自分の楽しみのために始めた筈の「庭いじり」が、逆に「折角、立派に作った庭がもしも駄目になったらどうしよう」といった類の不安を生み出す原因となり、その不安から六章に書かれている様な悪夢に悩まされる様になってしまいました。
作中では何も書かれてはおりませんが、おそらくこの老医師は、その後、庭に植えた松の木が枯れてしまう事を恐れるあまり、自分の楽しみのためにではなく、自分の庭が駄目になってしまう恐怖から逃れるために、自分の残りの人生を「自分自身のため」ではなく「庭のために」使い続けるのではないかという事が予想されます。
折角、子供のために自分の時間と金を使う必要が無くなったので、自分自身のために始めた筈の庭いじりだったというのに、その庭いじり自体が子供の代わりに老医師の人生を使い尽くそうとしている訳ですから、皮肉というより他は無く、これも「暇になっても適当且つ気楽に生きて行く事を良しとせず、何か別な事を追求し続けようとした」人間の"業"(ごう)というものなのかも知れません。
お礼
そんな気持ちが分かります。 大変感謝いたします。(TдT) アリガトウ どうもありがとうございます。