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魯迅の故郷について

故郷で、わたしが故郷から離れるとき、私は相変わらずの偶像崇拝だなと鼻でわらっていますが なぜですか?また、今私のいう希望も手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものは てに入り、私の望むものは手に入りにくいだけだとありますがどういう意味ですか?

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  • staratras
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回答No.2

>故郷で、わたしが故郷から離れるとき、私は相変わらずの偶像崇拝だなと鼻でわらっていますがなぜですか? ご質問は少し省略しすぎです。この部分は、竹内好氏の訳では以下のようになっています。 「希望という考えがうかんだので、私はどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望したとき、私は相変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかにかれのことを笑ったものだが、いま私のいう希望も、やはり手製の偶像に過ぎぬのではないか。ただかれの望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。」 この香炉も燭台も願い事をかなえてくれるとして中国の庶民に人気のある神様などの像を拝む際に使うものなので、「私」は閏土が相変わらず偶像を崇拝しているのだな、いつまでそんな迷信を信じているのかと、少し馬鹿にして笑ったのです。 >今私のいう希望も手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはてに入り、私の望むものは手に入りにくいだけだとありますがどういう意味ですか? 「私」のいう「希望」も、ただそう願っているだけでは閏土が香炉で香を焚き、燭台に灯をともして拝んでいる偶像と変わりがないことに気づいたということです。閏土は香炉も燭台も、「私」の家からもらって手に入れることができました。しかし「希望」は容易には手に入れることができません。 これが、この作品の最後のあの有名な一節につながることになります。 「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」 なおこの作品が書かれたのは今から百年近く昔の、清朝が倒れて中華民国ができて間もないころの中国で、現在の近代化された中国ではないことに注意が必要です。とくに「故郷」に登場する農村部で、しかも閏土のような貧しい農民は非常に迷信深かったと考えられます。この「故郷」は「吶喊(とっかん)」という作品集に収められていますが、その中の「薬」という作品には、刑死した囚人の血を浸した饅頭(人血饅頭)を肺病(結核)の病人に食べさせる話が登場します。人血饅頭を食べれば結核が治るという迷信さえあったことがわかります。

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  • Nebusoku3
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回答No.1

偶像崇拝をいいものではないという心持があることからきた感情の動きがあるため「鼻で笑う」ことになります。 何故か? ⇒ 故郷を離れるとき一抹の寂しさを感じています。 それを魯迅は故郷(偶像)崇拝、と思っているからです。 >今私のいう希望も手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはてに入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ・・・・・ ⇒ 彼にとっては「希望」 も偶像であり、希望することも「偶像崇拝」 にあたる訳です。 彼とは希望のことで、希望(偶像)の望むものは手に入り、私(自分=現実)の望むものは手に入りにくい と少し悲観気味のコメントだと思います。