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2011年3月11日2時46分は何をしていましたか

本屋で立ち読みをしていました。 初めて経験した凄い揺れでした。 走って店内から外に出ました。 泣いている女性がいました。 急いで自宅に帰りました。 多くの家で塀が壊れていました。 数日間停電が続きました。 西日本などの地域でも震災報道ばかりになったのでしょうか? 仕事や生活で影響が出ましたか?

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  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.18

こんにちは。 歴史的瞬間を思い出すのはとても意義深いことですね。 あの日、私はBSでNHK大河ドラマ『篤姫』最終回(アーカイブス再放映)を観ていました。  最終回の最終場面、篤姫さまが大政を奉還し没落して行く徳川家を懸命に守り、家達さまをしっかりと教育し、これまでを振り返るという場面で、突如画面にテロップが。  『まもなく非常に大きな地震が起きます。 ご注意ください。』 それに続いて細やかな指示が画面に流れて、、、。  20秒近く経過した頃、大きな揺れがここ横浜にも。 それが一分は続きました。 地震速報が流れ、やがて画面は東京湾のある石油タンクの火災現場へ、、。 被害の報告は首都圏のものが流され、そして一時間後、釜石市の高台からの画面に映し出されている街中の建物が津波に押し流されている画面へ、、。  その画面の中に聞こえて来る人々の怒号と悲鳴、、。 まるでお祭りに繰り出される御神輿のように波の上を漂っている巨大なビルディング。 それはこの世のものとは思えないスケールの大きさに人は自然の前にいかに小さい存在でしかないのかを思い知らされる瞬間でした。 その五日後、私は臨月の次女をどうするのか家族会議を開きました。 福島第一原発事故について政府は問題を矮小化して報道していました。 しかし、CNNやBBCはそうではありませんでした。 我が家は日本政府の報道を捨て、BBCに従って行動し、次女を連れて沖縄に避難しました。 そこで出産をし、四月末に一カ月検診を受けた後、帰京しました。  沖縄に40日滞在しました。 ここもまるで火が消えたようでした。 例年ならこの時期東北北海道の高校生が修学旅行で大挙してやって来て沖縄はとても賑わうのです。 那覇の国際通りは高校生で押すな押すなの大盛況。 『ズーズー弁』が辺りにこだまする時期。 それなのに、この時猫一匹歩いていない深閑とした国際通りがそこにありました。  『日本はいったいどうなってしまうんだろうか?』 沖縄の真っ青な空を見上げてそう思ったことを昨日のことのように思い出します。 

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回答No.8

表参道の喫茶店でお茶していました。 珍しく主人が一緒で、二人で話していると地震が来て ガラスががたがた揺れ、隣の席の若い男性3人がこちらを向き 不安そうに話かけてきました。 彼らは九州の人で 長野へ行った帰りだと言っていました。 東京は怖いところですね。と言っていましたが 東京ではなく 東北が大変だったのですね。 いつもは私は電車で帰るから主人に帰っていいよ と言ったのですが、何故かその日は用が済むまで待っていてやるよ と待っていてくれたのです。 地下鉄は動かず、もし あの時 私が一人だったら、帰ってこれませんでした。 普通なら車で30分くらいの距離が4時間かかりましたし。 両側の道は行列で、みんな 歩いていました。 お友達の和食屋さんはお店を閉めようとしましたら 歩いている人たちが たくさん入ってきて いつもより繁盛だったそうです。 家に帰ったら停電で、開いていたスナックで寝るまで時間をつぶしました。 東北があんなに大変だったとは 申し訳ないのですが、その時は知りませんでした。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.7

体調がすぐれず、遅い時間から仕事場へ直行へとシフトを変えて、ちょうど地元の駅前にきたときでした。最初、「思ったより調子が悪いのかな、めまいがする」と思ったのですが、ふと電線が揺れているのが目に入り、「めまいをしてるんじゃない。地震がきてるんだ」と気づきました。 こりゃ電車が止まって当分動かないだろうから一旦家に戻って地震情報を見ようと帰宅しました。会社に連絡しようとしても、有線電話も携帯もメールも不通。 しょうがないなーと思いながらとりあえず災害時にはNHKだろうとNHKの中継を見ていましたら、津波が襲ってきました。NHKのヘリから、次々に家が押し流される様子が映って絶句しました。

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2125/7983)
回答No.6

 自宅でテレビを見ていましたが、NHKニュース速報に切り替わって、M7の海底地震が起こったという報道がされて、首都圏周辺の地図が出ていました。  しばらく、アナウンサーの解説が続いて、それから数分後にM8.8の巨大地震が日本海溝の近くで起こったという報道が流れて、アナウンサーが該当地域の住民に逃げるように繰り返し叫んでいました。  その後は、ずっと地震速報が続いていましたが、津波の高さは3mぐらいという報道が何時間も続いて、実際には15mだったのがわかったのは、午後になって津波の被害映像が放送されるようになってからでしたね。福島第一原発事故報道も翌日の12日になってからでした。  津波被害の映像はテレビやYouTubeで見ていましたが、福島第一原発事故報道はテレビニュースでは爆発映像が出ないので、YouTubeで原発が木っ端微塵に吹き飛んでいるのを見て驚いていました。  原発事故報道を見続けていると気分が落ち込み、鬱状態が酷くなるので、テレビを見ないでインターネットで情報を集めていました。家族が首都圏にいるので、心配してメールを送っていました。  あんなに焦燥感や鬱症状が酷かった事件は無かったですね。インターネットで集めた情報から、原発事故の実態がわかったように思います。テレビ報道は都合が悪い情報を隠して出そうとしない姿勢が目立って信用を無くしました。旧ソ連の原発事故報道とそっくりな報道内容を繰り返していたのを覚えています。  近所のスーパーに行くと東日本大震災の募金活動を店員さん達が必死に叫んでいて、大変な事態になったと思いました。日本の東半分が無くなるのではないかという不安が広がっていました。  生活には影響は出ませんでしたが、1週間ぐらいはインターネットに噛り付いて情報を集めていました。阪神大震災やスマトラ沖地震と同じく、日付が異常なほど揃った周期性を持つ予測されていた巨大地震だったのがわかった時は、政府やマスコミが事実関係を一切報道しないのに何かあると疑いました。気象庁がテレビで地震予測は出来ないと繰り返していたのが空々しく感じました。  東日本大震災も福島第一原発事故もマスコミ報道が信用を失う切っ掛けになりましたね。インターネットでマスコミ批判が激しくなったり、テレビ視聴率が落ち込み始めたのは、あの時からです。

  • ithi
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回答No.5

ueno12345 さん、こんばんは。 あの日はよく覚えています。仕事をしていました。もうすぐ3時の休憩だったのですが、突然大きな音がしまして揺れて最初は突風が吹いていたのかと思いましたが、実は自身だと気づいてとっさに机の下にもぐったのを覚えています。 そのあと4時半くらいになって早期帰宅になったのですが、帰りの電車が乗れなかったので歩いて横浜まで出てそこからバスで何とか自宅の最寄までたどり着き、そこから歩いて帰りました。時間は9時を回っていたと思います。帰宅の間も寝た後も余震が頻繁に起きて生きた心地がしなかったのを覚えています。

回答No.4

愛人と一緒にラブホでお風呂に入っていまいた そこに地震 お互い経験したことの無い大きさ 愛人は風呂のドアを開け、閉じ込められるのを防止 かなり長い間揺れた後、取り合えず収まったので、せっかくなので一回戦だけヤって(いつもは4開戦)、調べるまでもなく鉄道は止まっているだろいということなので、愛人を車で家まで送りました その間ずっとラジオを聴いてはいましたが、事の重大さは伝わってこず、都内の道中も普通に平和 愛人を送った帰りは、信号も消えていてただならぬ状況下、無事に帰宅出来ました 愛人とは、その後もしばらく逢っていましたが、潮時も来て別れました もう会うことも無いと思いますが、相手もあの時私と一緒だったことは一生涯忘れないでしょう

  • 150715
  • ベストアンサー率19% (841/4396)
回答No.3

自宅で、遊びに来ていた実両親たちとテレビを見ていました。 速報が入り、津波の様子が生中継されました。 地震の直接の影響はありませんでしたが、数日間、ガソリンの補給が心配でした。

  • mshr1962
  • ベストアンサー率39% (7417/18945)
回答No.2

秋葉原の道路上を歩いてました。 信号機や街灯が揺れていたのと、店ののぼりがいくつか道路上に倒れました。 近くの店から人があわてて転げ出てきたのを見たときは、少々滑稽で笑いそうになりましたね。 >仕事や生活で影響が出ましたか? 家へ帰ろうと思ったけど電車が停止してたので、バスを乗り継いで1時間ほどかけて帰宅 古い建物だったのもあるけど、屋上に張った防水処理の重量がたたったのか? 階段が壊れ、建物自体も傾いて壁にひび割れが発生したので、解体して建て直しました。

  • okwavehide
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回答No.1

人生最大の経験でした。 会社の事務所で、一晩明かし、翌日ようやく家路につきました。 家や実家とも連絡はとれず、ドイツの知人のメールで情報を得ました。 後で停電にもなり、FAXも通じなかったことを知りました。 今も被災地が安らぎを取り戻せないことが実にかわいそうです。

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