※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:Fランク大学の意義?)
Fランク大学の意義と日本の教育のあり方
このQ&Aのポイント
Fランク大学とは、大学運営に問題のある大学のことを指し、就職に難があるなどの理由から低評価されています。しかし、教育の機会を広げる観点からは意義があるとも言えます。
大学全入時代においては、ある程度の教育を受けることが可能であり、再教育の機会を提供する役割も果たすことができます。
日本の教育のあり方については、教育の質や学生の選抜方法などに課題がありますが、多様なニーズに応える教育制度の充実が求められています。
先日、下記URLにあるニュース配信を見ました。
http://news.livedoor.com/article/detail/9828104/
記事では、文科省の公表したリスト(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/ninka/__icsFiles/afieldfile/2015/02/23/1355057_01_1.pdf : 要するに、大学運営に問題のある大学への改善勧告の一覧)のうち、一部の、俗に「Fランク大学」などと呼称される大学を名指ししています。
「Fランク大学」については、アンサイクロペディア(http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Fランク大学)が的を射ている、と思ったりもしてしまいますが、みなさまは「Fランク大学」の存在をどのように考えますか?
まず、「Fランク大学」が出来た背景には、大学の数が少なく、また進学にはそれなりに金銭も必要であったために、大学進学が困難であった団塊世代~団塊ジュニア世代のような時期を経ての『新設大学の増加』と、それとは反比例する形で『少子化』が進行したことがあると思います。が、しかしこの反比例してしまう状況は、文科省でなくとも容易に想像できたように思います。
つぎに、多くの企業で、就職には『大卒』という肩書きが必要条件になってしまっていることもあるかと思います。しかし大半の就職希望者が『大卒』になってしまえば、結局はより「知名度」があったり「難関」とされているような大学を卒業する人の方が就職しやすくなってしまうので、『大卒』の肩書きは必要充分な条件ではないでしょう(この場合、本人の「能力」という部分は除外して考えます)。
しかし「大学全入時代」が本当に問題なのか、今後、増えすぎた大学が自然淘汰されていくのが常、と思っていいのか、と考えると、そうでもないのかもしれません。
考え方を変えれば、今の時代は誰でも希望すれば、ある一定の水準の教育を受け、研究をすることができる、とも考えられので、変な解釈かもしれませんが、文科省の改善勧告は、大学が自然淘汰されるのではなく、そのままむしろ「大学全入時代」をキープしたいかのようにも思えてしまいます。
「Fランク大学」の意義や価値を考えた時、そこでの教育水準が義務教育レベルのものであるのは、大学(義務教育より高等な教育・研究機関)としていかがなものか?とも思ってしまいますが、しかし、たとえば義務教育でさえおぼつかなかった人にとっては、ある意味こうした「Fランク大学」がなければ、再教育を受けることはできないわけですし、それはそれで価値になるのか…? などとも考えてしまい、モヤモヤした気持ちになりました。
質問が長くなってしまいましたが、簡潔に言えば、みなさまは「Fランク大学」の意義や価値、また日本の教育(特に大学教育)のあり方をどのように感じられますか??
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、Fランク…もとい、それはネットスラング的な話ですので、少し置いといて、多少ご回答の内容と異なるかもしれませんが、いわゆる大学全入時代という、受験者総数に対して全大学の定員数の合計の方が上回る時代でも、確かに、浪人生というのは存在していますね。 ですから、結果的には知名度や学力などで勝る大学に受験者が集中し、本来の学力に合わせれば合格可能な大学ではないところを受験してしまう高校生なども多いのだと思います。同時に、浪人したくない、という気持ちから、さほど学力(主に偏差値)の高くない大学に進学するということの是非が、焦点であったのかもしれない、と思いました。 結果として、これは少子化が最大の要因というより、大学の置かれた社会環境などが最大の要因なのかもしれません。 そして、質問者さまのおっしゃる通り、某予備校などが偏差値として数値化できない大学(アンサイクロペディア笑にも記載されていますね)なんかは、学力試験のみではない入試選抜方法などで、結果的に偏差値としては数値化できず、また非常に難関な倍率となっていることもあるでしょう。 私の論点としても、最終的には、経済格差などがどのように大学進学に影響するか、ということにも興味があり、経済力のある家庭に育った子供の方が「大学進学までの間にレベルの高い教育を受けられる」というのではなく、「大学の選択において『情報が多い』ことや『選択肢が多い』」といった感覚が実情なのではないか、と思っています。 そういった意味で、既存の学力検査や某予備校の測る某模試での偏差値のような数値化がもはや全大学においてあまり意味をなさず、大学側が求める学生と、受験生側が求める大学とのマッチングというのが重要になってきてるのでしょうね。 その点では、やはりまだ大学側の方、『実際にはどのような学生を入れたいのか、というところの言語化が、まだ取り組みとして少ないように思います。 特に、東大などを例としてあげておられますが、いくら東大が推薦などを行ったところで、結果として高校の内申点のようなものが判別の基準として大きくなりそうで、その高校の内申点というものも結果として定期試験などでの学力を優先してしまっているので、おそらくは何も変わらない、ということになりそうな予感もします。 現状として高偏差値で推移していたり、化け物のような倍率を誇る大学の方にこそ、それだけ多くの受験者数があることに安穏としているのではなく、真摯に、本当はどんな学生を育てたいのか、ということの説明責任があるように思います。