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教養学部を全大学へ設置できませんか
1、2年生でしか教養を習いませんが、教養はとても大事です。 外国の有名大学では教養が重視されております。 リベラルアーツがしっかりしておれば、どんな専門科目でも対応できます。 東大みたいに教養学部を全国の大学に設置するべきではないでしょうか?
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それは「理想論」としては「美しい」が、東大の教養学部は「旧制高校」のなれの果て、 悪い意味では無い、私もそこを通過してきた、半世紀前だけど。 ほとんど役に立たなかったが、社会常識はたっぷり詰め込まれた。 だが残念なことに、特に理系ではどんどん「必要な知識量」が増える、医学部は昔から六年だが 薬学部で薬剤師は六年になった、農獣医学科も六年、乱暴な人は理系は全部六年にしろと言う、 だが理学部は分子生物学以外ほとんど進歩が無い、化学など悲惨だ (悲しいが私の分野だ、二十年前からミイラ化している) 工学部も同じだバイオは忙しいがそれ以外もう進歩が無い、需要はあるが古めかしい。 だからこの際大鉈を振るって学部を再編する方が良い。 具体的なアイデアは私には無い、もう年金生活者だから俯瞰能力はあるがデータがないと 意味が無い。 だからあなたの考えは再度言うが「美しい夢だ」宮崎駿先生では無いから「呪われている」 分けでは無い、だが実現出来ない。
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追記その3。 ほとんどポンコツになった脳味噌は,とくに休日だと,だんだん回転数が上がってくる。 もうひとつ教養教育を潰すような制度的な変更は,一種の「自由化」を意図したんでしょうが,文科省自身によってなされました。 むかしは,教養課程で「語学何単位,人文科学何単位,自然科学何単位・・・」と国家的に決められており,全国で一律に行われました。講義の水準は大学ごとにまちまちでしょうけども,少なくとも単位数(勉強時間)は大学生たる者すべてに課せられていました。1970年代に大学生だったぼくは,社会科学12単位が卒業間際までそろわず,大変な思いをした 爆。 文科省はこの縛りを外し,「各大学で自由に決めていいよ」としたのですね。だから,たとえば「体育」を選択科目にした大学もおおく,大量の体育教員が余剰人員化しました。すぐには彼らの首を切れませんが,次第に定年退職していけば,大学経営における人件費が楽になります。 うちの地方国立大学でも,「人文12,社会12,自然12」よりも緩い履修規定になっています。理系では第二外国語を選択制にしているはずです。「君らにフランス語なんかをやってる余裕はないから,せめてせめてせめて英語だけは使えるようにしてちょ」ということでしょう。文科省は,それくらいお見通しで自由化したんでしょう。 教養って,高性能の脳味噌を必要とするんですよ 笑。あまり水準が高くない(=学生募集に苦労する)大学では,「1年生から専門が勉強できます」を売りにして,学生を集めてもいます。
お礼
教授、ありがとうございます。 おっしゃる通りです。 社会に出ると答えの無い問題が多いです。理系の人間でも哲学のような多視点での考えが必要になります。 海外にでると、いかに教養があるか?専門以外の部分で会話ができるかが問われます。 日本人はそれが弱いわけです。 文理融合は難しいわけですね。。。
追記その2。 >東京大学は・・・「例外中の例外」 運用上の特徴は,入学後2年のあいだ,学生全員の身分を「教養学部学生」とすることです。だから,学歴を正式に書けば,たとえば, 2010年4月 東京大学教養学部 理科一類 入学 2014年3月 東京大学工学部 機械工学科 卒業 となります。両者で学籍番号も異なります。 この2行のあいだには,世間でもよく知られているように,どの専門分野に進めるかが成績順で決まる,「進学振り分け」があります。だから,「一般教育が必要なのか?」なんて迷う前に,必死で勉強する。それは否めない 笑。 いま,大学入試は「学部」や「文系・理系」の広い枠で行い,入学後に専門分野に分ける大学も少なくはありません。しかし,地方国立大学レベルだと,「成績順に振り分けるぞ」と言えば,おおくがションベン漏らしながら逃げ出しちゃうのよ。そこで自由に選ばせると,「パンキョー」は適当にやる(脳味噌の出来具合も制約する)学生が発生し,学科・研究室・ゼミのあいだで著しい人数不均衡が生じたりするわけです。 「成績順で振り分ける」と承知して入試倍率が減じることがない点も,「例外中の例外」なのね。
追記。 >「教養部を(再び)作ればいい」というものでもない と突っぱねただけでは,なんとも愛想がわるいので。ぼくが「歪み」と指摘したことが,改善されればいいわけ。たぶん根本的になすべきことは: 教授昇任の根拠は,論文数ではなく,「一般教育担当資格」とする。つまり,「パンキョーなんか適当にやっとけ」ではなく,「よほどの学識をもつ者でないと担当できない」というふうに,ステータスを逆転させる。ぼく個人は,自分が教授に昇任したときに,泥縄的にそう考えた。ぼくは東大教養学部助手だったから,そういう発想がもてるわけ。 まともな教養部を各大学に設立するなら,各大学に「p教授」が50人ずつ必要です。 ただし,これは「講義形式の教養科目」の場合です。ほかにも基礎実験,語学,日本語作文,地域関連科目・・・といろいろあって人手が足りませんから,こちらは「学識が劣るふつうの人たち」に全学から参加してもらう。
「教養とはなにか?」,「必要か?」などをいいだすと際限がなくなりますから,歴史的なことだけ。 日本が戦争に負け,米国の指示で「新制大学」になったとき,「教養教育」が取り入れられました。その教育を担うのが「教養部」(という教育課程・教員組織)です。 しかし日本の教養教育は,制度だけは(外圧によって)できたものの,中身には大きな「歪み」をふくんで出発してしまいました。東京大学は,教養学部という一人前の「学部」として設立し,「どんな教育をすべきか」をかなり真剣に考えた「例外中の例外」です。 歪みとは, 1.旧制高校の教員が(戦後に失職しないように)教養部に吸収されるのがふつうであり,大学教員よりも格が低いという卑屈な認識でスタートした。 2.教養部の教員は,専門学部の教員より待遇が悪かった。担当授業の駒数が多い(とくに語学)とか,教員研究室が相部屋であるとか,研究費をろくに配分しないとか。「飼い殺し」みたいに扱われて,まじめに教育しようという気はなかなか起きるものではありませんね。 3.日本人は,大学教員といえども,教養教育というものを理解できなかった。学生のほうでも,「何のためになるかわからんけど,単位をとらんと専門課程に進めん」という通過儀礼と考えた。教養課程の教育を「一般教育」ともいい,これを「パンキョー」と蔑称するのは,いかに日本で教養教育がないがしろにされたかを示しています。 こういう経緯がありますので,「教養部を(再び)作ればいい」というものでもないのです。関西の有名国立大学が教養部を改組して新学部をつくり,けっこうな入試難易度を保っていますが,はたしてどこまでの中身ですかね。
お礼
ありがとうございます。 その美しい夢を美しい夢のまま終わらせたくないんですよ! 化学者には哲学などの教養が必要だと思います。