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共感する姿勢は?📚
- AKB指原莉乃が愛読書として挙げた『スラムダンク』と『白夜行』について共感する姿勢を問われ、彼女は本を知らない世界の見学と捉えていることを述べた。
- 読書を通じて異なる人間と友達になり、彼らの生活や考え方に寄り添い、喜びや悲しみを共有することができる。
- 読書は貴重な習慣であり、ネットなどの時間を浪費することを嘆いている。物語の世界に没入するためには長編の物語を読む必要があると述べた。
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質問者が選んだベストアンサー
わたしが読書を良くしたのは、少年時代でした。 中年になるまで続けていましたが、いまは習慣としては無くなりました。 しかし、 たまに持っている本を持ち出して、読み返すことがあって、 読書によって呼び起こされる不思議な感覚がよみがえり、驚くことがあります。 「さあ読むぞ」 意識するわけではありませんが、何かが準備をするのが分かります。 すると、 外界が遮断されていく。 ある種の静寂が心の中にできていくようです。 また、 第一人称で語られる物語の場合は、感情移入しやすく、共感を伴いますから、 ここからは別の世界へと頭が切りかわっていきます。 これは霧が晴れて日が差してくる。 そんな印象です。 恐らくはこの体験が本を読むことの魅力だと思います。 趣味で続けていたときは、 この体験に大変な喜びを感じまして、 その感謝の気持ちで作者をほめ、 人にも沢山勧めました。 しかし、 あらすじの説明で満足してしまう人のほうが多かったかな。 ですので本の良さを、何か合理的な利得で説明しても難しいと思います。 これは訓練によって開かれた新しい感覚であり、 純粋に頭の中で起きる快感の一つです。 手に持てる紙の媒体。 これだけで何時でも手軽にこの快感を再現できる。 これを知った人は確かに読書の良さを何とか伝えようとするでしょう。 同じ様なものに、絵画、音楽があります。 私の場合は、 父が絵を趣味で描いておりまして、幼少の頃から絵を見る、絵を描くことによる 特殊な快感を知っておりました。 こちらは、目で見るだけで、読書と同じ様に(別のですが)トリップできます。 色のコントラスト、ラインの角度、模様の美しさ。 町を歩いているだけで、看板の文字の美しさに感動し、 自然が作り出す、構図の妙に驚いてしまいます。 最近になって、 五感とは別の快感があり、 日常生活のなかで手軽に楽しめるものが沢山あるのではないか? と思うようになりました。 何年か前に、自分には音楽の感覚が弱く、快感を得ていないと思うようになりました。 きっと音楽を楽しめている人は、 日常のふとしたことで、(絵の場合と同じ様に)頭の中に特別な感覚がよみがえり、 色んな曲や歌を思い出しては、快感に浸っているんだろう。 そう思うと、大変損をしていると感じます。 一念発起して自分の音痴を治しました。 これには大変満足しています。 情感を伴う美感。これが日常に加わったのです。 これまで述べてきたように、私の場合は、 絵画、読書、(他にあえて言うならば論理思考:学校の勉強、仕事)と進み、 これらから快感を感じるための感覚作りに取り組んできました。 幼少に近づくものほど、自然に出来てしまい、意識できないもののようです。 ここで気がついたのは、 新しい感覚を手に入れたことにより、失う感覚もあるのではないかと言う事。 もしかすると、 読書が嫌いな人も(あらすじだけで満足してしまう人も)、 別の感覚を楽しんでいるのかもしれません。 歌の上達を図っていたときに、友人に楽曲のどこが好きか聞いてみたことがあります。 この人は経験もあり、子供の頃から歌に接してきた人です。 すると、好きだという部分が私と違うのです。 どうも好きな部分が人それぞれ違うと言うのではなく、 音感がある人と音感が無い人で、好みが違い、更に言うならば楽しみ方が違うようです。 ある音楽サイトで調査していたときです。 そこにはセミプロ(覆面プロ)も趣味で活動している人も多く、 どちらかと言うと大変レベルの高い作品作りが盛んなサイトでした。 そこで分かったのは、音感が高い人ほど、音感の無い人の感覚を思い出せず、 万人に評価される作品を作れないで悩んでいると言うことです。 わたしの音感習得は晩年ですから、 感覚が出来る前と感覚が出来た後の両面が生きています。 そこで世にヒットしている曲と言うのを、 改めて、音痴感覚、音感感覚の両方モードで聴いて見たのです。 これは驚きでした。 世でヒットしている曲と言うのは、 どちらの感覚でも楽しめるようになっています。 なるほどと納得してみると、これは絵や文章でも同じじゃないかと思えます。 あらすじだけを本にしたら、これはライトのベルになりますね。 仕事でコンピュータ関連のソフト開発もやっていましたが、 ここでも硬派であるUnix系と万人に対してサービスするWindows、コンシューマ系に 分かれています。 Windowsを作り上げたビル・ゲイツ氏は、高い技術を持ちながら、 コンピュータに疎い時代の感覚も持ち、 コンセプトを作り上げたそうです。 今ではこの”直感的(と言われている)”と言う思想が先端技術を支えています。 スマートフォン、タブレット、その他のIT製品には、 絵画、音楽、読書の全てに対して、万人が楽しめるように、 直感的に取りまとめられ、インターネット時代を彩っているのです。 そして最近になってやっと分かったのが、 こうした直感的という感覚は、音感や絵心、読書の楽しみ方と同じ様に、 新しい別の感覚のようです。 いまは苦しんでこの感性を会得しようとしています。 これは数学の集合論の様でもあり、論理でもあり、意味でもあり、 絵画でもあり、音楽や文章のようなストリームでもあります。 全てが同じものを指していると言うことがわかり、 別の何かとして一つにまとめられることが予感できると、大変な驚きです。 オールドタイプである私は、 大脳の基本機能として想定される、 絵画による想像力、記号による論理、そして体感を支える音楽、 これらの基礎を個別に習得してきたのだと思います。 新しい時代に生まれた人は、 はじめからこれらが統合された、直感性の世界に生まれ、そこでのみ生まれる 新しい感覚を楽しんでいるようです。 この直感性はやはり読書と同じ様に、 繰り返し触れ続けることで、開けるようです。 こうして長々と述べてきましたのは、 読書の本当のよさは、 快感にあり、それを得るためには特殊な感覚の醸成が必要であり、 この感覚は誰しも呼び覚ますことが可能であるが、 体感と体験は道理では説明できない、という事を指摘したかったからです。 一秒一秒を大事にいきたい。 感覚があれば、生きているそのとき、その刹那、 全ての感覚が快感を訴えて脳を満たします。 一つでも感覚を多くもっておけば、その種別分同時に味わえます。 ですので、鍛えられていない、または知られざる感覚があるのに、 自分が習得していないとなると、これは大変な損に思えるのです。 さらに、これらの感覚を作り出す脳の機能は、つながっているらしく、 二つ以上の感覚に習熟すると、第三の感覚の習得がしやすくなるようです。 また、これらが同時に連動し、融合して動くようです。 人生も晩年になると、 多くの情報から、世に存在しない理想の形が見え、これが表現できるようになります。 子供の頃から、物語が好きで、 物語の結末や新しい物語を作りたくて仕方ありませんでした。 しかし、これも訓練が足りず、印象や思いだけで言葉になりませんでした。 ところがあるとき、 突然に自分の中にいる何かが動きだし、語りだすのです。 本当に声が聞こえ、とうとうと朗読がはじまります。 これは音感を鍛えてしばらくしてからでした。 仕事でわからない(発明に近い技術開発でも)ことがあると、 彼が状況を整理し、答えを語ります。 電車の中、暇なときには、小説を語ってくれます。 (本当にまったく先が分からないまま、ワクワクとして楽しんでいます) これに絵がついて、音が鳴り、人が話すようになりました。 漠然としたイメージが鮮明に成ると、これは実際にコンテンツを視聴しているのと 差異がありません。 多くの感覚を闇雲に得ようとしてきましたが、 最後がこのような形で開くとは思いもしませんでした。 質問者さんの主張と大分違いますが、 私は読書のよさは、咀嚼の快感の一つであり、外界での一般的な合理性で 訴えてしまうと、意見が分かれると思いますし、本質ではないと思うのです。 同じものを咀嚼して、より多くの快感を引き出せる力の方が主眼です。 別の人生や別の世界の人の情報を手に入れ、共感しても、 味が分からなければ、やはり意味が薄いでしょう。 センスを苦労して鍛えれば、 その場で動かずとも、身近な情報が虹色に光って自分の中に舞い降り、 その快感で動けなくなります。 身近で事足りるのであって、 人と争って遠くのものを手に入れようとする気持ちが収まるのです。 ミモウのまま、 「高級食材を手に入れれば、美味しい思いが出来る」 と考えたら、 これは地獄の始まりですよね。 読書が好きな人は、一定の次元でこれを回避していると思います。 また、充分に感覚が育ち、充分に情報得れば、 キーワードだけで脳内に大河ドラマや長編小説、映画やアニメができあがります。 だれもがこれをしているとは言いませんが、 そういう人もおり、 そういう人は読書の習慣が無くなっている場合もあります。 以上、ご参考に成れば。
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対立する二つの物事に貴賤や雌雄を求める構図において、しかも片方のみの物事に肩入れしておきながら回答者には平等な意見を求めるというのは些か虫がよいのではないか…えーとダブスタとかいうやつでしょうか、それとも逆ダブスタ?(^_^;) 私はあなたの仰るところの「良識」は持っていないのかもしれない、と思いつつ、回答しています、ご了承下さいませ。 私は何の肩書きもないただの本好きですが、あんまり批判から入ったりはしませんね、読書においては。 あと、活字が苦手な中高生相手の質問ならそれもありでしょうが、仕事と実際の信念は違う場合がある可能性も考慮したほうがよいのではないでしょうか。 あっ、8月16日の「すぐに回答ほしいです」にすぐ回答にならなくて申し訳ありません。
お礼
正直、パッと読んで、最初あまりおっしゃりたいことが理解できませんでしたが、確かに、質問文の最後に書いたように、私の持論を述べた上で、同意を求めているだけだったかもしれませんね。 この質問の背景には、質問文の途中にも書いたように、近頃のネット一辺倒に堕し、読書を忘れた人間群に対する、強い嫌悪感があります。おもちゃのようにネットに群がる軽薄且つ刹那的な人間ばかりが大増殖するのでは、という強い危惧が頭を去りません。 まあ、タブレットなどで、本を読むならまだしも、刹那的なSNSやゲームにはまって、人間崩壊・脳みそ希薄化にならないよう、祈るのみです。不快感を催されるかもしれませんが、以上が私の偽らざる感想です。 そこにもってきて、さしこがいいことを言ってくれたので、喜んで飛びついたのです。 スマホや携帯は、まあ、ほどほどに、メールやスケジュールやネット検索や色々便利なアプリには重宝していますが、それ以上でも以下でもないと思います。勿論、仕事上や外交辞令ではほどほどに付き合いますが、それだけだと思います。
- stm003
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読書のしかたは人それぞれ。 本の読み方もとらえ方も人それぞれだと考えています。 批判的な事から入って申し訳ないのですが、 エンターテインメントの本を読んでその世界を知った気になるのは、テレビでイタリア特集なんかを見てイタリアに行った気分になるのと同程度のものだと思っています。 百聞は一見にしかず…そういう言葉を思い浮かべてしまいます。 さしこが例にあげている『スラムダンク』も『白夜行』も、そしてその他のエンターテインメント作品も含めて、それがどんなに現実に沿ったように書かれていても、どんなに史実に忠実にかかれていようとも、どうあがいても作者の意図が入りエンターテインメントに仕立て上げられたフィクションとしてしか私は受け付けません。登場人物の心理描写もまたしかりです。 私は人心の奥底を知り、人間の性を知り、自分を測るために本を読んでいます。 その視点から見るとエンターテインメント作品は全てSFといっても良い位に夢の世界の話だと割り切って読み、感じています。 よく本の批評などで『感情移入』『共感』という言葉を目にします。 私も感情移入しますし、登場人物に共感することはあります。 しかし、エンターテインメント作品に良くある、作品のために心情の一部だけを抜き出して晒された感情に、心の底から感情移入し、共感し、それに心酔することには違和感があります。 雰囲気や表面的なものだけで心地よい感動を得るという、薄っぺらいものが私は嫌いです。 とどのつまり、表面的に創られた感動を形にしたものを読者に押し付けて感動させようという魂胆のエンターテインメント作品が私はとても嫌いです。 …という訳で、私は『よく意味が分からない』『クライマックスはないし、全体的に地味で面白くない』等とよく酷評されている純文学の方をよく読んでおります。 純文学はエンターテインメント作品のように全てが創り上げられ晒されているわけではありません。 行間を読み、考え、自分に問い返しながら、作品を作者とともに創り上げていかなければ面白くはありません。 その行為の中で、他人を知り、人間を知り、自分を知ることが出来ます。 そして、人間を知り、自分を知るということは現実の世界を知り、社会を知るということです。 人と世界(社会)はフラクタルな関係にあると私は思います。 最後にネットの話を少し… 私の視点からインターネットを見ますと、作者の意図によって都合よく歪められ隠されたエンターテインメントの話の中よりはより真実にあふれた世界に映ります。 インターネットにあふれるフリーの記者の記事(掲示板などの書き込みとは違うもの)は組織の意向を受けず、社会通念や常識、一般論にとらわれず自分の意思に素直に記事を書いています。 これは現実の人間関係の中ではなかなか得られないものです。 世間体を気にしたり、人間関係を気にして人は簡単には自分の心の奥底を晒したがらないものですが、ネットではその縛りが解けて、自分の中を晒してしまう人が多く、それを読むのも人間を知る上でとても貴重なものです。 とくにツイッター等で多く見受けられるそれは、人の心の奥底のそれで、それを下に『愛とは何か?』『優しさとは何か?』『人とは何か?』『社会とは何か?』といったような形の無いものについて考えるための糧になっています。 エンターテインメント作品にも『愛とは何か?』とか『優しさとは何か?』等について書かれているとお思いかもしれませんが、それは、作者が作者自身の個人の考えを、読み手が共感し、感情移入できるような形に創り上げ、作者が読み手にそれを押し付けてきているものにすぎません。 錯覚しがちですが、そういった物は作品を読んで、それが自分の心の中から出てきたように感じてしまいますが、それは作者から巧妙に埋め込まれたものです。 それが間違っているとか、騙されているとかいうわけではありません。 純粋に自分の心から出てきたものではないと言う事を知っておいて欲しいのです。 私は読書を通して自分の中の答えを探しています。
お礼
>読書のしかたは人それぞれ。 >本の読み方もとらえ方も人それぞれ・・・ 勿論それでいいと思います。 しかし、文字で捉えられることには限界があり、 例えばイタリアのことを知るには、読むよりも現地に行き、「百聞は一見に如かない」ことを身を以って味わった方がいいとは当然だと思います。 その意味で、「表面的に創られた感動を形にしたものを読者に押し付けて感動させようという魂胆のエンターテインメント作品」には限界があることも又事実でしょう。 私は、あなたと同様、人心の奥底を知り、人間の性を知り、自分を測るために本を読んでいます。 エンターテインメント作品を読んで、3D画像のような迫真の場面を浮かべることもあまり期待していませんし、第一、小説よりも、歴史、哲学、宗教、心理学、思想、政治、社会など社会科学系統の読書が中心です。 ネットのように、通り一遍の受けを狙った思想の「断片」ではなく、人間や社会を学ぶために、多くの知識人の叡智を少しでも吸収したいと思います。
お礼
いつも長文でしか語れない私でさえびっくり!の長文回答有難うございました。しかし、十分内容の伴ったものだったと思います。 咀嚼に時間が掛かり、回答が遅れたこと、おわびします。 1.大抵の人は、本を読む時、あらすじの説明で事足りると思っているようですね。 でも、私も、一番大事なのは、そこからどういう執筆者の意図を読み取るのか? 何を感じ、何を楽しみ、何を学ぶのか?・・・と言うことだと思います。 そして、それは確かに、「訓練によって開かれた新しい感覚ないし快感」なんだと思います。 執筆者が渾身を込めて語る時、そこには、文字面だけでなく「言霊」が宿り、その情景が浮かぶはずです。そうした情景を五感+アルファで感じ取り、楽しめる感性が、読書家には自然に備わってくると思います。 そしてその感覚は、絵画でも音楽でも楽しめるものなのではないでしょうか? 2.そして、「感性のありか」は、人ぞれぞれであり、感性(例えば音感)がある人と無い人では、好みが違い、(つまり「玄人受け」するものと「素人受け」するものがあるんですね。)更に言うならば楽しみ方が違うのかもしれませんね。 又、ある人同士でも、やはり好みと言うものはあるでしょう。 そこで驚いたのは、 >音感が高い人ほど、音感の無い人の感覚を思い出せず、 >万人に評価される作品を作れないで悩んでいると言うことです。 >世でヒットしている曲と言うのは、 >どちらの感覚でも楽しめるようになっています。 と言う所です。 コンピュータでも、硬派であるUnix系と万人に対してサービスするWindows、コンシューマ系に分かれているのですね。 ビル・ゲイツ氏の感覚も勉強になりました。 3.結論として、 >読書の本当のよさは快感にあり、 >それを得るためには特殊な感覚の醸成が必要であり、 >この感覚は誰しも呼び覚ますことが可能であるが、 > 体感と体験は道理では説明できない というのは、分かる気がします。 要は理屈でなく、感性なのですね。 感性を磨くためには、やはり場数(読書経験)を踏むことではないか、と私も思うのです。 そして、そうした場数で鍛えることにより、ある時、自分でも物語を紡ぎだしたり、 言葉が口をついて出てくるのではないでしょうか? 4.最後に、「質問者さんの主張と大分違いますが・・・」とのことで、 何が違うのか考えてみたのですが、どうも回答者様は、私がさしこの発言を引き合いに出して、読書の大切さを「合理的に」諄々と、押し付けがましく説いているのをたしなめ、読書の「快感」は、やたらと読書範囲を広げて、色々な世界を見ることよりも、守備範囲の書籍を何度も咀嚼して、より多くの快感を引き出すほうが重要だということをおっしゃりたいのかな、と思います。 そうした一定範囲の読書による咀嚼により、3で書いたように、キーワードだけで脳内に自由にその世界が描けるようになるということですね。 大変勉強になりました。