お礼をありがとうございます、No.5,6,9です。
同じ質問に参加して回答を何度も書いていると、果たしてこれは、質問者の方々の為なのか、本当は自分の為なんじゃないのか?
…という想いが、これまでも何度か頭をもたげて来まして。
自分で疑うぐらいなら、誰のためにもならないのかもしれず…。
共依存に通じるものを感じてしまい、何とも複雑な気持ちになります。
以前、別質問で同じようなことを述べましたが、同じ質問に何度も回答するというのは、ご質問者側の考え方を矯正させようとしているのと同じことになるのじゃないのか?…などと。
しかし、共依存と愛の違いは各々が自分で見つけ出すしかない、これだけは真理だと言えます。
それは、ここでのやり取りにも言えることで、質問者の方々もまた、自分で自分の答えを出すしかないです。
ここで集まった回答とは言わば食材で、食べやすいもの、食べにくいもの、美味しいもの、美味しくないもの、複雑な味、苦い味、甘い味、しょっぱい味と色々あって、その食材をどう料理して仕上げていくのか、どのように消化吸収していくのか、それは各々のご質問者側の技量に掛かっています。
そういう態度をいい加減だと考える方もいらっしゃると思いますが、しかし、自分で思考し判断する、それが結局は自分を生きること、アイデンティティーを築いて行くことになります。
ですから、共依存と愛の違いについて私見を述べるのは、先の回答で終える意向を示していたのですが、
>鬱は普通よりも精神的に哲学に近い悩みを抱えてしまっているパターンもあると思うので、もしかしたら、普通以上に愛に近いのでは? と疑問に思っておりました。
という ご意見には感じ入るものがあり…再投稿となりました。
一つ言えることは、純粋な愛を求めている人は鬱になりやすいということです。
純粋な愛を求めるというのは、純粋な愛を知らないから、もしくは失ったと嘆いている状態なのではないか?…などと。これもまた私見ですが。
共依存に関する私見は、かなりきつめに書いており、誰もが無関係とは言えず、自分がそうなのではないかと真剣に悩んでいる方々には、大変申し訳なく思っております…。
しかし、スタートから共依存という関係はないはずで、それがなぜ、ある時期から共依存になってしまうのかというと、やはり理解したいという気持ち、理解されたいという気持ちが募り、暴走してしまったが故なのでしょう。
(と考えると、クールな人なら、そうはならないということであり、正しいのか、好ましいのかという問題は別として、とても人間らしい感情なんだと思います。)
また、双方が譲れないと思っている大切なことで、何か決定的に通じ合わないものがある、その虚しさから共依存になってしまうのじゃないのかと推測しおります。
やがて、虚しさに耐えかねて、いつのまにか操作的になってしまうと。
一つ言えることは鬱も共依存も真面目な人、理解を求めている人、苦しいと他者には言えない人が陥る感情だと思います。大雑把に生きれば楽なのに、それが出来ない、そこに共通点が見出せます。
>普通と病人、だとしても、それはどうなのだろう
思春期から長年鬱に苦しんだというヘルマン・ヘッセの最初の奥さんは繊細な傷つきやすい人で、次の奥さんは精神的に不安定な激しい気性の人、三度目の奥さんは管理能力に長けた仕事も家事もこなす愛情深い人だったそうです。
最後の結婚相手となったこの女性の大きな愛が、ヘッセの心の傷を癒し、再生させたのだそうです。受け売りですが、精神科医の岡田尊司さんがお書きになった『母という病』(ポプラ社)に載っていました。
こちらも上記の本の受け売りですが、この奥さんとの結婚生活の中でヘッセは、自分の分身でもある『荒野のおおかみ』を書き上げたのですが、この作品を書くことでヘッセは自らを癒すことが出来たし、苦しみもまた、この作品を世に送り出したことで昇華され、それと引き換えにするように、ヘッセの傑作期はここで終わったということです。
…ちょっと寂しい気がしますが、満たされない思いが、克服しようという思いが芸術を生むというのは、芸術には一人一人の心を癒す力、意欲を引き出す力が備わっているということになると思います。
ヘッセは最初の奥さんと離婚し傷つけてしまったことを悔やんだり、二度目の妻に心が引き裂かれたりと、苦しみぬいたからこそ、三度目の奥さんを射止めることができるほど魅力的な人物になれたし、人を見る目が培われたのかもしれませんね(その辺は伝記でも読まないと解りません、想像です)。
「普通」というよりも、たった一人でも良いので慈愛を持った心の安定感の高い人物と出会うこと、これは心が再生されるには必要なプロセスとなるのではないでしょうか。本当の意味での慈愛と安定感というものを知らないばかりに、判断できずに苦しめられる人を知らず知らずに選んでばかりいた…なんてことも考えられますよね。
雑多で纏まりのない内容ですが、参考になれば幸いです。
お礼
はい。私も貴方も、この質問と解答は所詮そんなものなんです。 それでいいです。数多に生きている人間の、その中のたった二人という小さな偶然の出会いが、お互いとってはすれ違っただけのこと。お気になさらないでください。 暇でもあそこまで真剣に答えてくださったのは感謝してます。 ですが、私も精神科に通ったりして、病人の方を色々と見てきましたが、主観性の強さで会話が成立しない人も見受けられます。もしかして、私と同じく、貴方もそれかもしれませんね。 重ねていいますが、他意はなく、そして興味もありません。勝負なんてどうでもいいです。ですが、私にも伝えなければならないこともある。そこをご理解ください。
補足
追記・病人の方を色々と見てきましたが、主観性の強さで会話が成立しない人も見受けられます。もしかして、私と同じく、貴方もそれかもしれませんね。 というくだり、後で見返せば。貴方は病人だ、という言い方になってしまいました。申し訳ありません。 話の視界が一方通行で話が中々互いを繋がないというのは普通の方でもありますので、貴方と私も、そういったことなのじゃないかな、と思ったので、そう言いました。