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欝同士のカップルは間違いなのか
すいません、ジャンルはこちらじゃないかと思い直したので、再投稿させてください。 鬱と鬱のカップル。同じ環境だからこそ、健常者よりも互いを理解し合えるし、愛し合うこともできます。 でもそれは共依存なのですか? 互いの傷を舐めあってしまうのでしょうか? 愛とは、この人物と共に成長したい、改善したい、協力したい、補いたい、つまり、共に歩いていくものだと、聞きました。 欝同士のカップルは、そういったように二人で頑張っていこうって決めたなら、それは共依存、自惚れなどと言われてしまうのでしょうか? 欝だからこそ片方が苦しんでしまった場合、その心の苦しみなどを普通の人よりは理解できるし、見方にもなれるし、間違っていれば、乱暴な全否定ではなく、好きだからこその指摘とかできると思います。 まぁ、普通のカップルよりは安定しないと思います。欝ですし。でも、上記のとおり、欝って分かってるから不安定なものだと分かるから、ある意味、より理解しあえると思いますが。 此処まで書いてて、愛とは、共依存とはって、分からなくなってしまいました。すいません。 タイトルの質問と、できるなら愛と共依存の違い、教えてください。
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- putiabu
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鬱の人間やアスペルガー系に何を言っても通じない事を忘れてました。 私は暇だったんで、答えてただけですが 何か勘違いされてるようですね ま、誤解をといても無駄なんで辞めておきます。 ここで、あなたのお遊びに付き合う時間は終わりです。 真面目には答えてますが熱くもなってないただの暇潰しなんで 失礼なと感じる人にご丁寧に教える義理も時間もないです。
- putiabu
- ベストアンサー率30% (88/293)
あなたが悪気がなくても、相手に失礼な発言をしているというのがわからんのか? 悪気がないですまされると思って、すみませんが言えないのはいかがかな? あなたがどんな気持ちは関係なく、やった行動を指摘しているだけ。
お礼
すいません。他の質問を見てくださればわかると思いますが、当方情緒不安定で、先天的に脳に障害を持つ、人の心や空気が読みにくいアスペルガーやその他んの理由がありまして、人の心がわかりにくいのです。 しっかり指摘くださってありがとうございます。 お気を悪くさせてしまって申し訳ありません。 ですから、こんな糞野郎にご回答をくださる余裕は素晴らしいものと思います。貴方がとても真面目な方だと把握しました。細かい所も許せないくらい真摯な方だとお見受けしました。 ですが、できるなら、貴方こそ他の人を「自分と同じだ」と勝手に巻き込んで自分の味方を作るようなことは辞めたほうがいいと思います。 今回のあなたとのやりとりを整理しますと、 まず、私は気になっただけで質問しただけですので、あそこまで突っ込んだ解答は受け取りづらかったです。 鬱のせいにするな、鬱を言い訳にするな、とか、甘ったれるなとか、なんだか少し飛躍して、こちらを「絶対お前はこんなやつだ」とかいう口調は、それこそ貴方の言うとおり、「悪気はないが、失礼なこと」だと思いますが。 初対面というか、袖振り合うも多生の縁程度の小さな交流で力強くぶつけるのも、どうかと思いますよ。 鬱に自惚れだとか甘ったれてるだとか、逃げてるだとか、自分を見失う程思ってません。人は誰だって汚いものは持っています。ので、私も持っていると思います。でも、そんな心は少ないですよ。だって、貴方とのやり取りするなかで、その心が溢れでて、貴方を攻撃したい、負かしたい~~とか、思うことがないんですから。といっても、信じられないでしょうが。 ですので、どうか、どうせ人事なことだ、と思って下さい。あなたに気を使わせたくない。でも、どうやら、私はそんな人間に見えてしまう部分があるらしいので、気をつけます。 どうか、お気になさらず。 私は貴方を論破したい、勝ちたいとか全然思ってないです。乱暴に言うなら、貴方に自分を持ってかれるほど興味なんてありません。貴方を見下したりだとか、しません。したくもないし、するメリットもないです。 此処は質問して、解答を頂いて、それだけの繋がりです。貴方とは今後も繋がっていくような絆はないと思います。貴方もこんな奴とは付き合いたくないでしょう? だから、気にしないでください。
補足
追記・悪気なければ全部許されるなんて思ってないです。それは間違いなく穿ち過ぎですよ。そんな気はさらさら無いんで。
お礼をありがとうございます、No.5,6,9です。 同じ質問に参加して回答を何度も書いていると、果たしてこれは、質問者の方々の為なのか、本当は自分の為なんじゃないのか? …という想いが、これまでも何度か頭をもたげて来まして。 自分で疑うぐらいなら、誰のためにもならないのかもしれず…。 共依存に通じるものを感じてしまい、何とも複雑な気持ちになります。 以前、別質問で同じようなことを述べましたが、同じ質問に何度も回答するというのは、ご質問者側の考え方を矯正させようとしているのと同じことになるのじゃないのか?…などと。 しかし、共依存と愛の違いは各々が自分で見つけ出すしかない、これだけは真理だと言えます。 それは、ここでのやり取りにも言えることで、質問者の方々もまた、自分で自分の答えを出すしかないです。 ここで集まった回答とは言わば食材で、食べやすいもの、食べにくいもの、美味しいもの、美味しくないもの、複雑な味、苦い味、甘い味、しょっぱい味と色々あって、その食材をどう料理して仕上げていくのか、どのように消化吸収していくのか、それは各々のご質問者側の技量に掛かっています。 そういう態度をいい加減だと考える方もいらっしゃると思いますが、しかし、自分で思考し判断する、それが結局は自分を生きること、アイデンティティーを築いて行くことになります。 ですから、共依存と愛の違いについて私見を述べるのは、先の回答で終える意向を示していたのですが、 >鬱は普通よりも精神的に哲学に近い悩みを抱えてしまっているパターンもあると思うので、もしかしたら、普通以上に愛に近いのでは? と疑問に思っておりました。 という ご意見には感じ入るものがあり…再投稿となりました。 一つ言えることは、純粋な愛を求めている人は鬱になりやすいということです。 純粋な愛を求めるというのは、純粋な愛を知らないから、もしくは失ったと嘆いている状態なのではないか?…などと。これもまた私見ですが。 共依存に関する私見は、かなりきつめに書いており、誰もが無関係とは言えず、自分がそうなのではないかと真剣に悩んでいる方々には、大変申し訳なく思っております…。 しかし、スタートから共依存という関係はないはずで、それがなぜ、ある時期から共依存になってしまうのかというと、やはり理解したいという気持ち、理解されたいという気持ちが募り、暴走してしまったが故なのでしょう。 (と考えると、クールな人なら、そうはならないということであり、正しいのか、好ましいのかという問題は別として、とても人間らしい感情なんだと思います。) また、双方が譲れないと思っている大切なことで、何か決定的に通じ合わないものがある、その虚しさから共依存になってしまうのじゃないのかと推測しおります。 やがて、虚しさに耐えかねて、いつのまにか操作的になってしまうと。 一つ言えることは鬱も共依存も真面目な人、理解を求めている人、苦しいと他者には言えない人が陥る感情だと思います。大雑把に生きれば楽なのに、それが出来ない、そこに共通点が見出せます。 >普通と病人、だとしても、それはどうなのだろう 思春期から長年鬱に苦しんだというヘルマン・ヘッセの最初の奥さんは繊細な傷つきやすい人で、次の奥さんは精神的に不安定な激しい気性の人、三度目の奥さんは管理能力に長けた仕事も家事もこなす愛情深い人だったそうです。 最後の結婚相手となったこの女性の大きな愛が、ヘッセの心の傷を癒し、再生させたのだそうです。受け売りですが、精神科医の岡田尊司さんがお書きになった『母という病』(ポプラ社)に載っていました。 こちらも上記の本の受け売りですが、この奥さんとの結婚生活の中でヘッセは、自分の分身でもある『荒野のおおかみ』を書き上げたのですが、この作品を書くことでヘッセは自らを癒すことが出来たし、苦しみもまた、この作品を世に送り出したことで昇華され、それと引き換えにするように、ヘッセの傑作期はここで終わったということです。 …ちょっと寂しい気がしますが、満たされない思いが、克服しようという思いが芸術を生むというのは、芸術には一人一人の心を癒す力、意欲を引き出す力が備わっているということになると思います。 ヘッセは最初の奥さんと離婚し傷つけてしまったことを悔やんだり、二度目の妻に心が引き裂かれたりと、苦しみぬいたからこそ、三度目の奥さんを射止めることができるほど魅力的な人物になれたし、人を見る目が培われたのかもしれませんね(その辺は伝記でも読まないと解りません、想像です)。 「普通」というよりも、たった一人でも良いので慈愛を持った心の安定感の高い人物と出会うこと、これは心が再生されるには必要なプロセスとなるのではないでしょうか。本当の意味での慈愛と安定感というものを知らないばかりに、判断できずに苦しめられる人を知らず知らずに選んでばかりいた…なんてことも考えられますよね。 雑多で纏まりのない内容ですが、参考になれば幸いです。
お礼
ご回答有難うございます。詳しく教えてくださって感謝します。
No.5,6です。 体調不良のところお礼をいただきまして、ありがとうございます。 いきなり、つかぬことをお尋ねしますが、よろしければ、このご質問を立ち上げた動機を教えてください。 1)実際問題としてご質問者に どなたか意中の方がいて、悩んだ上でのご質問。 2)特に誰がということではなく、鬱で闘病中のカップルが共依存に陥ることなく、愛を育むことは可能なのか?というご質問。 1と2、どちらを主眼に据えた上でのご質問なのか明示していただけると、テーマを絞りやすく回答側が助かりますので、ご返答よろしくお願いします。 ________________________ 追記&私見です。 共依存といっても、大きく分けるとタイプは二つあると思います。 A)献身ぶりを発揮しながらも、 無意識に、相手を自分よりも低く見ているケース。 (本当には相手を蔑んでいたり、未熟であると不信感を持っているケース) → パートナーを大きな子ども扱いしたり、 パートナーに対する不満を自分の子供にぶつけてしまうタイプ。 → 結果として、パートナー、子供、双方の自尊心を傷つけてしまい、 自分よりも幼く未熟な存在であるように仕向けてしまう。 B)献身ぶりを発揮し、奴隷のように付き従い現状を維持することで、 いつか相手が変わってくれると盲信しているケース。 → 自分という主体性を完全に見失い、パートナーに奉仕することでしか 関係を保てない。 → 結果として、パートナーを暴君に仕立てあげてしまい、 子供にも付き従うことを強要し、犠牲を強いてしまう。 ~まとめ~ 愛=過去に打ち勝ち、今を生き、問題を解決して行く力のこと。 共依存=過去から逃れられず、無意識に悲しみにしがみついている状態。 先の見通しが立たず、問題を解決する術を知らず、 現状を維持することで関係を保とうと必死な状態。 端的に言えば、強迫観念に囚われた愛、それが共依存です。 共依存なのか、愛なのかの大きな違いは、「自分が変わろうという気持ちがあるのか、ないのか」ということになると思います。 自分が変わるとは、自分を含めた誰かを責めるということではなく、今、何に取り組めば良いのかを見極め、それに向けて前進することです。 前進と言ったからとて焦ることはないのです(これが難しいのですが、焦りが強迫観念を産んでしまうからです)。 自分が変わらなければ相手が変われるはずもなく、自分が同じことを続けていれば相手も同じままです。そのことに気が付けずに、いつまでも同じやり方でしか愛情表現が出来ないのが、共依存ということになると思います。 冒頭で返答を求めておきながら なんですが、ご質問者が自分の力で考える折角の機会ですので、この辺で失礼したいと思います。
お礼
2に近いですね。 普通と病人、だとしても、それはどうなのだろうとも考えてます。 しかし、やはり鬱は重いものですから、上手くいかないんじゃないかなぁと暫定的に結論づけてます。 じゃあ普通と普通の愛は果たして健常なのか、それともとも思っています。 鬱は普通よりも精神的に哲学に近い悩みを抱えてしまっているパターンもあると思うので、もしかしたら、普通以上に愛に近いのでは? と疑問に思っておりました。
- putiabu
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何か、鬱とかじゃなくて あなたは人が真面目に答えたり自分が言い負かされそうになったら 何熱くなってるの? って開き直る手で逃げようとするのが周りを不快にしてめんどくさくウザく感じる。 そういう自分の弱さを認める方を悩んだ方がいいと思う。 ここに答えてくれてる人達に失礼な発言してる 何熱くなってんの?って文 私だけじゃなく他の人にも 鬱じゃなくて性格の問題だと思います。
お礼
穿ち過ぎですよ。 この質問はただ聞きたかったからですので、貴方がいう逃げだとか、弱さ認めろとか、少し頑固に一方通行すぎてると思いますよ。 純粋にそう思ってます。 あなたにそれ以外の他意はないです。怒っても、気持ち悪がってもないです。 ご回答有難うございます。
- putiabu
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あなたにとったら普通のカップルだったら幸せなんだ? 普通のカップルだって、間違ったり嫌な思いする人もいる。 鬱だから不幸になるとか間違ってるとかじゃない!問題はお互いが幸せになろうと努力しあわないことなんだよ。 出来ないなら鬱のせいにしないで、キッパリ諦めたら? ようは、二人で幸せになる努力ができるかなんだ。 障害者と付き合ってる人や受刑歴のある人とお付き合いする人はバカで不幸なのか? 実際、ハンディキャップはあっても二人の関係には関係ないんだよ!二人だけで解決していく問題なんだ。 鬱を言い訳にして逃げ込んでるのを認めなよ。 言い訳、作ってるだけで鬱が問題なんじゃない! しかも、鬱は治る、一生治らない物じゃない。 恋人と付き合うことまで他人任せで甘ったれんな。可愛そうって名の惨めって言葉を人に言われて一生喜びたいなら別だけどね。
お礼
いや、ふと思ったこと書いただけなんで、解答下さってありがたいのですが、そこまで熱血に突っ込んでくださらなくても大丈夫です。
No.5です。 すみません、言葉足らずな個所があったので、補足と訂正をさせていただきます。 *<訂正箇所> ◇共依存と愛 ~それぞれの項目に、次の語句を付け加えてください。~ 共依存=盲目的・悲劇的・空虚感・偽りの優しさ・不信感から離れられない 不安定・一方的・閉塞感・束縛感・重圧的・過干渉・我儘 愛=厳しさの中にも必ずぬくもりがある・信頼感・安定感・大らか 穏やか・快活・開放感・育み合うこと・譲り合うこと・与え合うこと ◇鬱同士のカップル 冒頭部 誤)鬱とは自分を持て余している病気だから、同じく鬱の人と出会ったときは、人生を背負ってあげようなどと考えるのは危険だと思います。 逆に背負わせても同じことが言えます。それだと、共依存になってしまいますので。 正)鬱とは自分を持て余している病気だから、同じく鬱の人と出会ったときは、人生を背負ってあげようなどと考えるのは危険だと思います。 逆に背負わせても同じことが言えます。互いがAC(アダルトチルドレン=機能不全家庭で育った人)であった場合、共依存に陥ってしまうリスクが高まります。 一方が環境的に問題なく育った場合でも、共感するというよりも同調しやすいタイプの人であった場合は、(相手が不調の場合)影響を強く受けやすいので要注意です。 *<補足> ACという言葉には嫌悪感を持つ方が多いので、使うべきかどうか悩みましたが、しかし、鬱を患う人にはACである人が多いのは否定できないし、その場合は見捨てられ不安を持っていて、これが引き金で鬱状態になったり、鬱病を発症している人が圧倒的に多いです。 見捨てられ不安がある者同志がカップルになった場合は、依存心から共依存に発展してしまうことが懸念されます。 一方の心身が比較的安定しているときは依存されても大丈夫なのですが、それでも長く一方的に依存されてしまうと段々重荷になって、安定していた側も鬱を深めてしまいます。 無償の愛を注がれたことのないと感じているACが、愛情を無償の愛まで高めるということは大変難しく、相手のことよりも、自分のことばかり憐れんでしまうようになってしまうのです。 ACは自己否定感が強いので、相手よりも自分を憐れんでいること、このことに罪悪感を抱いたり、自分の力量のなさを激しく嘆いたりします。また、耐え忍ぶことを美徳と考えてしまう傾向が強いので、何とか自分を保とうと共依存型の恋愛関係に移行してしまうことがあります。 そのように、二人揃ってACであった場合はリスクの高い恋愛になるので、最初から共に鬱病でスタートというのは、正直厳しいものがあります。お互いの心身が安定しているときは、ベストカップルと思えるぐらい幸せですが、一方の不調が長引くと、共倒れになってしまうことが考えられます。 __________________________ 経験上、身内が二人相次いで鬱になったときは死にたくなるほど辛かったので、最初から鬱同士でスタートしたカップルが良いこと尽くめだなどとはとても言えず、厳しい意見となりました。 なお、交際中の場合、共依存かどうかは、なかなか自分では判断が難しいと思います。共依存に陥ると何が正常で何が異常なのか解らなくなるので、何か違和感を感じたのなら一人で抱え込まずに、客観的に物事を見られる中立的な立場の相談者が必要になります。 ネットでは限界があるので、医師やカウンセラーを頼るようにしてください。 話しにくければ、相談内容を書いたものを読んでいただけば良いです。 >欝同士のカップルは間違いなのか 色々と書きましたが、「ここで判ることはせいぜいが傾向です」。 「経験をもとにした話が聞けるので、星占いや血液型占いよりは信憑性が高いけれど、絶対ではありません」とだけしか申し上げられません。
お礼
ご回答有難うございます。風邪をひいておりまして、解答が遅れてしまいました。申し訳ないです。
正解ではなく、とある一人の人間の人生観として捉えてください。 (でも、真剣に書いています。) ◇共依存と愛 共依存というのは、「相手を意のままに操ろうという思いを抱えた自己犠牲的な愛」のことを言います。相手を愛していると言いつつも、自己犠牲に身を投じる自分のことを誰よりも愛しているし、相手から認められたい、賞賛されたいという欲望を抱えています。無償の愛とは違います。渇愛と言ったら解りやすいと思います。 飢餓意識を持った愛なので、表面上は相手の自立を願っているように見えますが、相手が自立して行くことと自分が見捨てられることを混同していて、相手が出来ること、チャレンジしようと思っていることに否定的で、先回りして行動を起こし、相手の自立心を奪ってしまうようなところがあります。 しかし、当人は邪魔をしている気はなくて献身だと考えているので、相手から異を唱えられると、否定されたと相手を恨み怒りの感情を持ちます。 「一人の人間をやがては自立し、大人になっていく一人の人間であると見ることが出来ずに、赤ん坊のように溺愛し、あるいは支配し、無意識に自分に縛り付けようとしてしまう」のが共依存です。 愛の場合は、お互いの自我を尊重しているから、共依存のように相手の自我を自分に取り込もうとするようなことはありません。私は私、あなたはあなたという、互いの心を尊重します。お互いに、相手が困っているときは、杖になり、道しるべになりと、相手の足をなえさせないように、自分で歩けるように肩を貸すような感覚で助けますが、自らが何もかもを決定して強制するようなことはありません。 共依存とは違って、相手が出来ること、これからチャレンジして行きたいと思っていることを奪うようなことはしません。 互いが良き相談相手となります。意見が違っても、頭ごなしに否定することはしません。 何故、相手がそういう考えに至ったのかという過程を理解しようと耳を傾けることが出来ます。 共依存=自己愛・自我の取り込みを図る・支配欲 ・直接行動に出て相手の足をなえさせて歩けなくする(自立心を阻む) 愛=互いの自我を重んじる・自立心を大切にする ・杖や道しるべのようになって相手をそっと助ける ◇鬱同士のカップル 鬱とは自分を持て余している病気だから、同じく鬱の人と出会ったときは、人生を背負ってあげようなどと考えるのは危険だと思います。 逆に背負わせても同じことが言えます。それだと、共依存になってしまいますので。 あくまでも、横に並んで歩くぐらいの距離に留めた方が良いです。 カップルじゃなくて、あくまでも友達という感じがベストかなと。 鬱病のカップルの知り合いがいないので断言はできませんが、作業所に通っている人たちは、同性であっても懇意になってはいけない、異性と交際してはいけないという決まり事があるそうで、このサイトでそういう相談を拝見したことがあります。 作業所からも主治医からも、精神疾患がある者同士の深い付き合いや、病状について相談相手になるということは禁止であるというのが決まりごとになっているものなのだそうです。もし、自分自身が共依存タイプである(共感を乗り越えて、同調しやすく落ち込みやすい、傷つきやすい)という自覚があるのなら、適度に距離を取ること、危ないと感じたら離れることがベストだと思います。 作業所や病院を通した付き合いではなく、以前から付き合っているカップルの場合は、そこまで厳しく指導されることはないのかもしれませんが、上記の例にあるように、鬱病同士の深い関わりは治療の妨げになるという考えは一般に定着していると思います。 鬱を乗り越えて、完全寛解したカップルなら最強だと思いますけれど、鬱病はこじらせて繰り返す人が多いので、不完全寛解のカップルは共依存に落ち込みやすいと思われます。 ここが一番肝心だと思うのですが、鬱同士のカップルが成立した場合、少なくとも避妊だけはしっかりするべきだと思います。妊娠して、そのまま結婚したとしても、女性は産後鬱というのがありますから、そうなってしまうとスタートから厳しいものがあります。 誰一人、幸せじゃない家庭、そんなのは不幸でしかありませんので、そこのところはしっかりとしないといけないです。
お礼
ご回答有難うございます。風邪をひいておりまして、解答が遅れてしまいました。申し訳ないです。
- etranger-t
- ベストアンサー率44% (766/1736)
ANo.2です。補足を読ませて頂きました。 先の回答によって、お気を悪くされたのであればお詫び申し上げます。ただ、鬱も何も知らない者が机上の空論で回答した訳ではなく、実際に同様のカップルを見てきましたし、私自身も経験がある上で回答をいたしました。 質問者様カップルを全否定することなど出来ませんが、少なくとも健全なカップルとは言えないということです。もう少し突っ込んだ意見を言わせて頂くと、それは、補足内容に見事に書かれていることなのです。 >じゃあ見捨てない優しさを持っていればどうですか? >だから俺も、私も手伝うよ、って空気になったら、それはどうなんでしょう。 この二つです。一見すれば前向きな考えのように思えますが、これはとても危険な考えです。まず、「見捨てない優しさ」とは一体何なのでしょう? 普通のカップルで「見捨てる」というのは、どちらかが著しく非のある行動をしたり、何らかの理由で我慢ならない場合などに、相手のことを見切ることに使われると思われます。しかし、質問者様の場合の「見捨てる」は、あくまでも鬱という病に起因するものです。 つまり、普通のカップルの「見捨てない」は、相手の非などを許すといようなニュアンスで、質問者様カップルの「見捨てない」は、病に対して可哀想だという情の部分だということです。仮に、どちらかが見捨てられそうになったとすれば、間違いなくどんな嘘を付いてでも引き留めようとするでしょう。いわゆる、情に訴えかける嘘を必ず付いてくるということです。そうなれば、情しかないのですから、それが本当の愛情だと言えるでしょうか? そして二つ目なんですが、「私も手伝うよって空気」が一番怖いのです。もうこれは完全に相手に対して感情移入している状態ですから、言い換えれば「自分が何とかしてあげなければいけない」という心理状態に近い訳です。相手の状態が悪ければ、当然のことながら振り回されることになります。この振り回されることが長く続けば、正しい判断が困難になってきて、最悪の場合は心中することもまれにあるのです。実際にカウンセラーや医師までもが患者に感情移入をし過ぎて、命を落としてしまった人もいるのです。 このような理由から、お付き合いしない方が良いとお答えしました。 しかし、私は医師ではありませんし、質問者様とお相手の症状も分かりません。それでもお付き合いしたいと思っておられるのを止める権利もありません。心配なのでアドバイスさせて頂いているに過ぎません。 従って、相手の方がどんな人でどのような症状なのかを主治医とよく相談の上、判断して頂くのが一番だと思います。主治医が許可してくれるのであれば、何の気兼ねもなくお付き合い出来るのですから。
お礼
ご回答有難うございます。風邪をひいておりまして、解答が遅れてしまいました。申し訳ないです。
- philasts
- ベストアンサー率40% (44/108)
共依存というのは、お互いがお互いの回復を妨げ、足をひっぱりあっている状態のことです。 共依存は相手が幸せになってほしいという気持ちよりも、自分がこれ以上不幸せになりたくないという気持ちのほうが強い状態であり、この点で愛とは決定的に違うものです。 お互いに、自分が無理しない範囲で、その時に出せる精一杯の気配りと共感をしていくことが大切です。これは別にうつ病だからこそということはなく、どんな人間関係でも言えることです。そういうのを「愛」というのではないでしょうか。
お礼
お互いと悪化じゃない意味で、共に前へ歩いて行くってことですよね。
- 1
- 2
お礼
はい。私も貴方も、この質問と解答は所詮そんなものなんです。 それでいいです。数多に生きている人間の、その中のたった二人という小さな偶然の出会いが、お互いとってはすれ違っただけのこと。お気になさらないでください。 暇でもあそこまで真剣に答えてくださったのは感謝してます。 ですが、私も精神科に通ったりして、病人の方を色々と見てきましたが、主観性の強さで会話が成立しない人も見受けられます。もしかして、私と同じく、貴方もそれかもしれませんね。 重ねていいますが、他意はなく、そして興味もありません。勝負なんてどうでもいいです。ですが、私にも伝えなければならないこともある。そこをご理解ください。
補足
追記・病人の方を色々と見てきましたが、主観性の強さで会話が成立しない人も見受けられます。もしかして、私と同じく、貴方もそれかもしれませんね。 というくだり、後で見返せば。貴方は病人だ、という言い方になってしまいました。申し訳ありません。 話の視界が一方通行で話が中々互いを繋がないというのは普通の方でもありますので、貴方と私も、そういったことなのじゃないかな、と思ったので、そう言いました。