死刑廃止論者です。
「極刑」を望みます。というより殺してやりたい、と思います。それは「被害者」または「被害者遺族」として当然の感情です。
私は、死刑論者のいう「被害者感情」がどうしても納得いきません。もちろん被害者または遺族であれば「可能な限り極刑」を望むはずです。
しかし「被害者死亡」という同じ現実があるのに、たとえば自動車などによる過失致死では「死刑」はありえませんし、殺人を意図していない強盗致死、傷害致死などの場合も「死刑」になることはほとんどありません。
つまり、法律には「被害者の感情」を超える「公としての公平性」や「社会的な有益性」が考慮されており、それは被害者の感情を無視することのほうが多いといえます。
なぜ、多いといえるかというと、たとえば手首を切られた、目を潰された、というような身体的な被害に対して、加害者の手首を切り落とすとか目を潰す、などの刑罰はまったくなく、金銭による損害賠償しかないからです。
死刑賛成論者は「被害者感情」をおもな根拠として「死刑」の存続を肯定するなら、現状で身体的な被害を与えた加害者に対する「同等の体罰」も主張しなければおかしいですし、またその根拠もそれによる社会的な有益性も提示する必要があると思います。
ところが、死刑賛成論者は一足飛びに「死刑」だけ抜き出して「被害者!遺族!」と叫んでいるのです。
これでは法理とか刑法体系を網羅して、その最高刑とされる死刑を擁護することにはまったくつながりません。
私には子供がおります。子供を殺されたら誰だって殺してやりたい、と思うでしょう。しかし、それと刑法による規定は同じものではありません。もっと「公的な社会観」を反映すべきもの、です。
法律は秩序を維持し、社会正義を実現するもの、です。死刑がすべてではありません。
強姦罪だって、女性ならあの程度では絶対に許せない、という人もおおいはずです。
個人の感情を優先して法理にできるなら、もっと別な法体系になっているはずです。個人の感情とかけ離れた刑罰が多いのは「個人の感情」を優先していないからでしょう。
だから、そもそもこのような質問がナンセンスなのです。
ちなみに、私が死刑に反対なのは「それが近代法と法治国家である民主主義の要求するところ」だからです。
もしその内容を超えて「死刑」に犯罪の抑制効果、つまり社会的な有益性があるなら、私は死刑に賛成してもよいです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 応報刑の考え方というのは古くからあったらしく、どこぞの国では腕を傷つけられたら、 加害者の腕の同じ部位を、被害者は傷つけても良い、としていたそうです。 いわゆる「目には目。歯には歯」 しかし、それでは、あまりにも野蛮ということで、いろいろな過程を経て、今の刑罰制に行き着いた ということらしいです。おっしゃるとおり、情状酌量のよちのないようなひどい犯罪を犯した 犯人に対してのみ、被害者の遺族感情を重視し、いわゆる応報刑的な死刑を採用する、という今の制度に は欠陥があるのかもしれませんね。