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広島原爆資料館の被爆人形、撤去すべき?
- 広島原爆資料館の被爆人形の撤去を考える声が上がっています。
- 被爆人形はフィクション的な再現であり、衝撃的な写真で臨場感を高める方針に沿わないという理由から撤去される可能性があります。
- 一方で、人形による再現が必要なのか、もっと悲惨な写真で見せることができれば人形は必要ないのかという意見も存在します。
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残すべきだと思います。 初めて見たのが中学生くらいの頃だったか、ものすごくショックを受けて「戦争は絶対にだめだ、怖いんだ」と思いました。 現実はもっと悲惨だとか、子供に見せるには悲惨すぎるとかどっちの意見もあると思いますが、あれを見る事によって 少しでも戦争を知る事ができるのならば意味があると思います。 私の祖父母は戦争を体験していて、よく「戦争だったから」なんて話を聞いて少なからず戦争について触れる機会がありましたが、 これからの子供達は私たち以上に戦争体験から遠ざかってしまうのがなんとなく心配だと感じます。
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35年前、原爆が落ちたという事実も知らなかった小学校3年生の時でしたが、 たまたま広島市内へ買い物に付いて行ったついでに、平和公園に行き原爆資料館にも寄りました。 他の展示もじっくり見たはずですが、原爆資料館=あの人形 という印象しかありませんでした。今でもそうです。 その後長い間、米ソの冷戦が終わるまでは、頻繁に頭上で核爆弾が炸裂する悪夢を見たものです。 つまり私にとっては、あの人形が無くなったら、原爆資料館ではないのです。 ぜひとも残してもらいたいものです。 おそらく撤去を容認している人は、子供の頃に訪れてはいないのでしょう。
お礼
なるほど・・・ 確かこの人形は、館内に入って間もなくの場所にあったと記憶しています。 館内の見学は本来は3時間ほどかかるらしいですが実際は45分で、(遺品や被爆資料が展示してある)本館の見学にいたっては19分あまりということらしいです。 だからこそインパクトがある人形の意義があるような気がしますが、改修工事で動線を工夫するとともに人形を撤去する方針みたいです。 ちょっと残念。 回答を頂き、ありがとうございました。
再度。 >その分とらえ方が拡散しますから正しく(共通に)伝わらないことはあるでしょうね。 いえ、それは資料でも同じじゃないでしょうか? 一人ひとり、捉え方は違うはずです。 撤去したいというのは、単純に“人形を見るのは苦痛、怖いから”ではないと思うんです。 それは、ホラー映画を観る苦痛や怖さと同じだから、ではないでしょうか? 真実を見る苦痛や怖さではなく。
お礼
再び、ありがとうございます。 言い方がちょっと抽象的でしたが、写真はダイレクトで鋭角的に伝わるのに対して、人形は撤去理由や皆さんの意見にもみられるように、感じ方が広いような気がします。 あくまでも個人的な意見ですが・・・ >ホラー映画を観る苦痛や怖さと同じだから 見る人がこう感じるとしたら、人形の意図が伝わっていないということにもなりそうですね。 回答を頂き、ありがとうございました。
- skyhigh555
- ベストアンサー率4% (85/1945)
いろいろ意見はあると思いますお(- e -) んでも、個人的には、平和記念資料館は、あくまで被爆の実状況を 伝えるべき性質のもので、人形の展示は(フィクションなら余計に) どうかと思いますお(- e -) 沖縄のひめゆりの塔でも、真珠湾のアリゾナ・メモリアルでも、 人形の展示はなかったですお(- e -) お(- e -)
お礼
>あくまで被爆の実状況を伝えるべき性質のもの そうですおね、ここの解釈、伝え方が難しいですお・・・ なのでもめるのでしょうねお。 アリゾナは、艦内の戦死者が引き上げられることもなくそのままですおね。 日本だったら真っ先に引き上げて埋葬してますおね。 この辺が、文化の違いだと思いますお。 回答を頂き、ありがとうございました。 お(・д・)
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
行ったことが無い。行ってみたいですが。 人形というものと写真とでは印象は異なります。写真は一方向からの情報です。人形は多方面から見ることが出来、立体の方がより印象が強く成ります。 本当ならさわれるぐらいの方が良いのですが。 要するに、人形が汚くなってきた。作り直すにしてもお金が無い。写真だけなら安くできるということではと思いますが。それにもっと悲惨というのなら、人形をもっと悲惨な状態にすれば良いだけですから。
お礼
>要するに、人形が汚くなってきた 初代は1973年ですが、今の人形は1991年の大規模改修で作られたものらしいですね。 なので20年は経っています・・・ 仰るように写真は平面ですが、人形は立体的でイメージが掴みやすいですね。 回答を頂き、ありがとうございました。
- ミッタン(@michiyo19750208)
- ベストアンサー率15% (3892/25656)
ひとまず「存続」に1票 期待薄ですが、当時を語る証言や写真や映像がもっともっと収集できるならそれでもいいと思いますが、もう被爆者の平均年齢も高齢化しているので難しいかなぁ? 戦時中の日本や被爆した広島・長崎はもっと酷かったと想像できます 「正しく伝えていない」って誰が言ったか存じませぬが、それならばその方がスーパーバイザーにでもなってあげるべき
お礼
>当時を語る証言や写真や映像がもっともっと収集できるなら もしかしたら、アメリカの国立公文書館等に埋もれている資料があるかも知れませんね。 政府自ら積極的に動いて収集活動をすれば、もっと価値がある資料館になると思います。 そのへんがどうも後ろ向きですね。 回答を頂き、ありがとうございました。
- Nannette
- ベストアンサー率26% (1499/5697)
わたしは広島に降り立つたびにかならず原爆資料館(平和記念資料館)に足を向けます。何度となく訪れ、何度となくあの日のことを思い、あの日亡くなった多くの方々、そして被爆の後遺症に悩み続けて生きて来られた多くの方々に心を寄せてさしあげる、わたしには、平和平和と言いながらも、精々このぐらいしかできないからです。 たしかにあの人形たちを見るのは苦痛だとか怖いという意見も分からないでもありません。ですが、以前、一緒に原爆資料館を訪れた被爆者の方が、こんなものじゃなかった、これでもまだ当時の惨状を表し切れていない…とつぶやいたことがいまだに脳裏から離れません。 たとえ苦痛だろうと、見るに耐えなかろうと、凄惨だろうと、グロテスクに思えても、だからこそ後世にあの日の惨状をストレートに伝える意味で大きな意義があるとわたしは考えます。 時とともに、とかく薄れがちになる被爆の状況の記憶、そして、薄れるとともに凄惨な姿はとかく過剰で大袈裟な表現にさえ思えてくるもの、そうした人間の曖昧さに迎合していては資料館の本来の意義が損なわれてしまう気がしてなりません。広島市が、そして日本国民がノーモア・ヒロシマを唱え続ける以上は、あの日の想像を絶する姿をいささかも薄れさせてはならないとわたしは思います。
お礼
>とかく薄れがちになる被爆の状況の記憶、そして、薄れるとともに凄惨な姿はとかく過剰で大袈裟な表現にさえ思えてくる その通りかも知れませんね。 私は今回の資料館の意向を聞いて、漫画「はだしのゲン」の一連の騒動を思い出しました。 過激過ぎる、悲惨過ぎる、グロテスク過ぎる”・・・ 戦争時は“過ぎる”ことが当たり前に行なわれていたのを、今では“自虐的過ぎる”に置き換わってカーテンの向こうに追いやろうとしています。 戦争をしたのは人間、その体験を伝えるのも人間です。過去の惨状を過少に伝えるようなことになったら、いずれその行いに対してもマヒしていくような気がします。 回答を頂き、ありがとうございました。
- annkoromochi
- ベストアンサー率8% (348/3984)
こんばんは。 長崎の原爆資料館は、3回行ったことがありますが 広島は行ったことはありません。 回答ですが、残すべきだと思います。
お礼
行ったことはないですか? 資料館としては人形を撤去したい勢いですから、あるうちに是非行ってみてください。 回答を頂き、ありがとうございました。
- mshr1962
- ベストアンサー率39% (7417/18945)
>今後は衝撃度の強い写真などで臨場感を高めたい。 >基本的にありのままで見てもらうという方針だそうで、そのためにはフィクション的な人形展示は相応しくない フィクションの何が悪いのでしょうか?戦争の悲惨さを見せるのが目的であるなら、 リアルでもフィクションでも構わないと思います。 写真が悪いというのではないけど、立体とか動画の方がインパクトは強いと思うので 残す方向で検討が必要だと思います。展示スペースの問題というのであれば、 今の人形を3D画像化とかして見せるのは駄目なんでしょうか?
お礼
>立体とか動画の方がインパクトは強いと思う 確かにそうですね。3D化というのは面白い試みかも知れません。 人形は一旦作ったら加工や修正ができませんが、これであれば臨機応変に姿や形を変えることができますね。 回答を頂き、ありがとうございました。
- enylle
- ベストアンサー率15% (61/391)
いたと思うよ(想像)。で残すべき。 フィクションって。笑 実際体験した人に見てもらって実際に見たかどうか聞いたらしまいやん。
お礼
>実際体験した人に見てもらって実際に見たかどうか聞いたらしまいやん 確か被爆した人の、語り部の音声は聞くことができますね。 実際被爆した人の話では、この程の悲惨さではないらしいです。 人形が伝える難しさを語っています。 回答を頂き、ありがとうございました。
私は、広島生まれです。 でも、親が転勤族だったため、初めて原爆資料館に行ったのは、大学卒業後です。 初めて行ってまず思ったのは、なぜこんな「作り物」を置くのか?・・・でした。 この「作り物のお人形」は、とても綺麗です。 綺麗というのは、自然にあるものを、アニメにしたような綺麗さです。 “現実はもっと悲惨で、この人形は正しく伝えていない”というより、感情に訴えるような「作り物」で、真実が正しく伝わるわけがない、と私は思います。 私の身内には、被曝して亡くなった者、被曝しても生き残り、初めて生まれた娘を白血病で失った者がいます。 現在、被曝手帳を持っている者もいます。 でも、知っているのはその程度です。 このように身内に被爆者がいても、その現実は、なかなか知ることはできません。 原爆資料館は、世界でたった一つしかない、「被爆」の資料館です。 「真実」のみを集め、後世に残す場であることを願いたいです。
お礼
>感情に訴えるような「作り物」で、真実が正しく伝わるわけがない そうですね、そこが伝えるところの一番難しい部分かと思います。 一番分かりやすい方法が人形だったのかも知れませんが、その分とらえ方が拡散しますから正しく(共通に)伝わらないことはあるでしょうね。 回答を頂き、ありがとうございました。
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お礼
人形の出来はともかく、今の子供たちがこの人形を見てどう感じるのでしょうね。 “なんかきもーい”と軽く通り過ぎてしまったら、人形はちょっと役不足となるかも知れません。 修学旅行でやってくる児童・生徒を見たことがありますが、ざわついていたのがここに入った途端に皆黙り込みますね。そういう雰囲気に全ての展示物が同化しているからこそ意義があるのですが、その中で人形がどう見られているかですね。 回答を頂き、ありがとうございました。