社会問題になっていて、露見すれば自分が社会的制裁が厳しいことはわかりきっているのになくならないものは、他にもいろいろあります。
体罰に比較的近いものは、DV(家庭内暴力)とか児童虐待とかでしょうね。
これらをやらかす人間は、多くの場合、自分がそういう環境で育ってきた人間です。彼らには、DVや児童虐待は「悪いこと」という認識はありません。今は社会的に悪いことになっているが、それはタテマエだという認識です。彼らは心の底からDVや児童虐待は「悪いこと」だと認めることはできません。それを認めることは彼らは自分らが愛されない環境で育てられたという恐ろしい事実を突きつけられることになるからです。彼らは自らもDVや児童虐待をやることで、過去の自分が愛されていたという認識を維持し続けたいのです。
体罰も一緒です。そういう環境で育ってきた人間は、自分が間違った教育を受けてきたという事実を認められないのです。自分は体罰をヨシとする教育を受けたことでちゃんとした人間になることができたと信じ続ける教育者や指導者のために、体罰は繰り返されるのです。
質問者は「体罰することの旨み」を気にしてましたが旨みは自己肯定です。「俺は正しい」と感じられることなのです。
体罰をなくす方法は、教育の現場から過去に体罰を習慣的に行っていた教育者や指導者を排除するしかありません。ただ教育の現場から排除はできても、DVや児童虐待そして体罰を行う親をなくすことはできませんから、社会的に根絶はむつかしいでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 #5さんのお礼でも書きましたが、一種の連鎖現象と言えるでしょうね。「過去の自分が愛されていたという認識」とは違うと思いますが、「姑による嫁いびり」なんかもその典型でしょうね。 しかし、「体罰が悪い」という認識があったのなら、教師にペナルティーがなくとも、体罰はしないと思うんです。それで、善悪の判断ができないからこそ、ペナルティーで抑える必要があるんだと思います。 例えば、中学校の教師が女子生徒と交際するとします。教師としては相思相愛なのに、何が悪いと思う人がいるかもしれません。個人の良識に委ねられないからこその罰則じゃないでしょうか?