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体罰
体罰問題がスポーツ界に広がってきています。 明らかになった問題は氷山の一角というのは多分常識でしょう。 日本のスポーツ界に体罰が蔓延していて、時々社会問題として メディアが大きく捉えても、恐らく過去何十年とその実情は変わ っていないでしょう。 昔は世界中どこでも武道の指導に体罰は当たり前だったのでは ないかと思いますが、現代ではどうなんでしょう。欧米では何世紀 も前から、自由や平等の精神が広くいきわたってきたから、又、 欧米の旧植民地の大都会あたりなら、その精神の影響を受けて いるだろうから、体罰はまず無いだろうと想像しています。 日本ではそんな変革の時期が無かった事、加えて日本人は個の 確立が弱い事から、連綿と現代に受け継がれているのではない かと思います。 そこで質問、 1・上記の勝手な想像や思考は不十分だろうし、間違っているかも しれません。ご指摘をお願いします。 2・欧米や旧植民地以外の国、特に北東アジアの国々(ロシア含め) でのスポーツ界体罰の現状はどうなんでしょう。 3・それにしても判らないのは、フアンだとしても師でもないアントニオ 猪木に引っぱたかれたくて行列を作る人達の精神構造。体罰に 無神経な土壌の一つの要素を占めているのでしょうか。
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40年ほど前に、教員採用試験を蹴って英国旅行をしました。レンタカーでスコットランドまで旅行しました。とある、乾物屋風の店のつり下げ物のなかに50センチ程の革製のかわいらしい鞭を見つけました。馬に当てる鞭かと思い、疾走する馬上の騎手をまねると、それは人の子どもの躾用だと正されました。 後日、仕事先で、酒場で会ったニュージーランドの退職教師に、日本兵のビンタ教育批判で絡まれました。その時、「日本では自分の手で叩いて躾ける!お前たちは鞭で躾ける!鞭は日本では家畜に当てる!日本人の方が遙かに人間的である!」と論破して、以後酒場で遭遇しても決して下位には置かれませんでした。 南太平洋諸国では、椰子の実のもげた弦で、幼児を叩き、痛さを覚えさせた後、躾の時に庭の石や家の床を叩いて脅かす躾をなんどか目にしました。また、子どもの下あごを空手チョップのように人指し指側で叩く躾も見ました。数日間は痛くて食事がしにくくなるそうです。 苦痛を与えて、民族としての文化・価値観を躾けるのには、「日本的な美談」では出来ません。家庭で成されなかった躾は、次の集団生活である、保育園や学校で行う事が必然になります。 義務教育での躾の機会を、体罰などといって避けたら、無責任な異性交遊で生まされた、多くの日本人は、そのまま無秩序な社会の構成員になってしまいます。 健全な家庭の子女が、気狂いのようなストーカーの餌食になっている現実や、小学校で片親が増えている事からも十分ご理解できると思います。 成熟したら、性交渉するのが当たり前かのような乱れた風潮はどこから移入されたのでしょうか?欧米の都会生活者の不真面目な風潮かと思います。 以前の日本では、成熟した女性は結婚して母親となり家族を支え、母の愛を称えたのです。そこに幸せが会ったのです。成熟しても、経済力の無い男性は、一生懸命働いて、家族を養える力をつけるまでは、女性に手を出さなかったのです。性のはけ口は、プロの売春婦の元に行ったのです。つまり、遊びは遊び相手としたのです。 まともな家庭を築けるように、頑張ったのです。 スポーツ界に限らず、一人前に仕立てるために、厳しい躾はどこの生業でも会ったのです。 躾けられていない現代の日本人の愚痴は、当 OKWeb でも多々見られます。些細な逆境に耐えられないのです。結婚ではなく、成熟した身をもてあまして、恋猫のようにわめき散らしています。 躾は体罰です。体罰は必ずしも躾ではありません。しっかり、言葉だけ是非を託すのでなく必要な体罰は認め、無用な体罰をなくせるように、幼児期にしっかりした躾を完成すべきだと思います。 二十歳代には、結婚できるように十代に鍛えるべきです。意味のない高校進学は避けるべきです。義務教育終了時(16歳)に結婚を許可している現行民法は穿った法だと思います。 東欧農村では女性の十代後半での結婚は珍しくないと承知します。 日本では、中学校の後に継ぎ足したような意味不明の高校が、躾を曖昧にしていると承知します。高校は就職指導を上級の大学や専門学校に委ねています。出席日数だけで卒業資格を与えています。 権利だけを学んだ輩は日本を破滅させます。 留年や退学を試験と併せて制度化させて、体罰を体罰として騒がない文化を醸成させるべきだと思います。ハンディある人には、それなりのハンディがあって然りです。 弱者も努力できる場は設けるべきです。何も努力しない人には、社会進出の機会を押さえるべきです。 体罰でなく、資格や収入であっても良いと思うのです。 何も工夫・努力しない輩が社会で役立つような生業に自ら組み込まれるように努力しなければ、はじき出される仕組みが必要と考えます。 (*^_^*) 本日叙勲者の祝賀会に招かれて、思いを新たにしました。
まず、僕は体罰はよくないと思っている人間の一人だという立場を書いておきます。僕は特に体罰を受けたことはありません。 一番考えられる要因としては、体罰が効果的である、ということなのではないか、と思います。何について効果的であるかというと、指導者に従わせるために効果的であるということです。この「従わせる」というところが厄介です。その指導者の指導内容が、そのスポーツ競技の技術向上に役に立つからそれに従わなくてはいけない、という文脈ではなく、往々にして、「どんな指導者であろうと、選手は指導者に歯向かってはいけない」という文脈で体罰がなされる場合がほとんどだからだろうと思います。 また、その指導者自身が、選手としてそのように指導されてきて、実際にいい結果を出してきたので、その指導法を疑う機会が無かった、ということも大きく影響しているでしょう。 『スポーツとは何か』(玉木正之=著)という本に詳しいのですが、西洋のスポーツが日本に入ってきた時、それは「学校体育」つまり、教育の一環として入ってきて現在に至っています。西洋においては、スポーツはレジャー、楽しみ、遊びです。 論を尽くせばいろんなことが言える話題ではありますが、単純に短く言い切ってしまうと、安易に体罰に頼る指導者は頭が悪いと思います。そういう頭が悪い人物を指導者に据えてはいけません。 どの競技においても、日本を代表するようなトップレベルの選手や指導者たちというのは人数がとても少なく、かなり村社会的というか狭い世界でのコネ社会になっているようです。その中では相互批判がなされず、たとえおかしいことでも、その指導法や論理が続いてしまうということがあるかと思います。そんなスポーツ界を応援してしまうマスメディアや我々一般人の民度の問題でもあります。 まとまりがない文章ですが、僕の回答はこんなところです。
お礼
ご回答有難うございます。 ただ私の3項目の質問と結びついていないのが残念です。
- Matuki-00
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こんにちは。 在日韓国人とかではないですが、韓国に5年程住み、現地の学校に2年弱通っていた者です。 韓国や中国での実情を知りたいとの事で、私が韓国で過ごしていたときに経験した&感じたことを書かせていただきます。 現地の方々が話したところによると、韓国では1970~80年代までは体罰が本当に厳しく、例えば校門に指導員が立っていて、遅刻した生徒は並ばされて足やお尻を棒で叩かれたり、授業中に騒いだりしようものなら、連帯責任と言うことで生徒全員の手のひらを棒で叩いたり、時には強く叩きすぎて棒が折れ、とげが生徒に刺さったりすることもあったそうです。 私が通っていたころ(2000年代)にはさすがにそこまでの体罰は無かったですが、他の子に嫌がらせをしたり、物を壊したりする子の手を叩くくらいはあったかもしれません。 でも私が通っていた学校(ソウル)内での体罰はほとんど見かけませんでした。 しかし、スイミングスクールやテコンドー教室等では体罰が結構ありました。子供同士で喧嘩したら喧嘩両成敗、とスイミングボートで手の平を叩かれました。それはまだいいのですが、印象的だったのはテコンドー教室をサボってゲームセンター行ったことがばれた男の子二人が、腕立て伏せみたいな体制をさせられ、テコンドーの先生が彼ら背中やお尻を竹刀でバンバン叩いてた光景です。(それも皆の前で)あれを見た時はぞっとしました。ピアノ教室も厳しかったですね。ちゃんと引けないとすぐ手を叩かれました… 基本的に韓国では日本以上に、学校の教師を含め、教える側に立つ人間の地位が高く、支配的な構造になっています。先生に子供への体罰を頼む親も少なくありません。(少なくとも私が通っていたころは)韓国では日本より教師になりにくく、結構社会的にも尊敬されている職業だということも影響していると思います。 思うに日本や韓国社会での、どこかで指導者側からの体罰を受け入れている構造は、儒教の影響から来ているのでしょう。 随分長く書いてしまいましたが、ご参考にまで。(^^;)
お礼
ご回答有難うございました。 韓国の体罰は日本に劣らず盛んのようですね。Wiki によると韓国軍内の体罰は敗戦前の日本軍のようです。 新儒教の影響とすると、中国も日韓と似たり寄ったり でしょう。
- btys1944
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今、確かに世間では教師やスポーツ指導者の体罰が問題になっておりますすね。 私は古い人間だし、学生時代でのラグビー練習中でも叩かれたこともありましたが、 これは指導者に愛情があって「叱る」のであり、決して感情に流されて「怒る」としたことではなかったので 納得していました。 日本人にも色々でしょうが、やはり根底には日本文化が流れているのではないでしょうか。 しかも、文武両道と言われながらも、日本人は事なかれ主義者が多く、特に文系の人間は短絡的で感性で物事を図ります。 感情的になって手や足を出すのは「怒る」ことであり、激しい感情の持ち主なら自分の気持ちが治まるまで怒り、尾を引きます。 しかし、明確な理論武装をして愛情を持って指導に当たる方は、殴ってもゲンコツかビンタの1発程度で、その場で感情を引きずりません。 テレビなどを観ていても、どんな評論家も口を並べてバカの一つ覚えのように、体罰を止めるべきと非難していますが、誰一人 この違いを唱えているのを聞いたことがありません。 指導者がこれを肝に銘じれば、スポーツにおいての体罰(叱り)は仕方のない方法論でもあります。 欧米諸国のように個人主義が確立している国民なら、即 裁判沙汰です。 何せ、隣りの木の枝が自分の敷地内に延びてきただけで訴訟を起こす国柄ですからね。 イギリスなどでも、親は子供の人格が形成されるまでは体罰を加えますよ。 ビンタやゲンコツなどではなく、抱え上げてお尻を何発も叩くのですがね。 往々にしてアジア人は、メンツで行動し、縁者の結びつきを大切に重んじてきましたが、個人主義で合理的な考えを余り持っていません。 その辺を考えると、ギスギスとした裁判沙汰ばかり近隣と起こすようなアメリカなどよりも平和なんじゃないですか? 猪木のビンタのパホーマンスは、売るためのもので、叩く方も叩かれる方もバカみたいなものですが、叩かれて喜んでいる人がそれで満足しているなら茶番として受け流していてもいいんじゃないですか。 巨人にいた清原が、リングの上でいきなり殴られて時は、さすがにムッとした顔をしていましたよ。 プライドの高い者ほど、人前での屈辱はシナリオにあったとしても表情にでてしまうんでしょうね。
お礼
ご回答有難うございました。 >やはり根底には日本文化が流れているのではないでしょうか。 そのあたりをもう少し突き止めたいと思い、2・の質問をしました。在日の中国人や朝鮮半島人で母国の状況をお判りの方が回答して頂けると有り難いのですが。
- KappNets
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昔日本軍では体罰が当たり前でした。(細かく言うと陸軍がビンタ、海軍は精神棒)ビンタは「原則的には陸軍でも禁止」されており、事件が起きれば責任を問われるが、そう出なければ見て見ぬ振りというのも現代の体罰と変わりません。上層部がそう命じたわけではないでしょうから、多くの日本人の心の中に体罰を許す部分があった/あるのではないでしょうか。外地では、軍人にビンタされたことが、現地人にとって最高の屈辱と感じたと言われています。つまり平然と行う体罰は日本人固有の習慣だと思われます。 日本人は戦争を反省しないとよく言われますが、体罰の話を聞くと本当にそうだと思います。別段国の指導者の罪のことではありません。「勝つためには平然とビンタ」という平均的日本人の心の罪ですね。どこからそういう気持ちが生まれたのか、理由は分からないのですが、明治から昭和の軍国主義の時代に生まれたのかもしれませんね。 ローマ時代には奴隷とライオンを戦わせたそうですし、十字軍では必ずアラブ人を殺してこいとカトリック教会が言ったそうですから、白人の世界では体罰以上にむごい扱いを平然と行った時代もあったわけです。白人のビンタというのは聞きませんね。個人を尊重しますから。 あまりまとまらない意見ですが、議論のご参考まで。
お礼
ご回答有難うございます。 >体罰は日本人固有の習慣だと思われます。 それを確かめたくて質問を出しました。若しそうならその習慣の始まりの場所と時は?、大陸は関係ないのか等々、更にいわゆるイスラム原理主義集団の軍事調練では体罰はどうなんだろうとか疑問が広がっていきます。
- mm058114
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マスコミが作った事件ですよ。 私が小学校、中学校でも先生に殴られた事あるし、 みんな見た事あるでしょ! 自殺はしなかったけど… 自殺は、余っ程だったのでしょう。 お悔やみしますね。
お礼
質問にお答え願います。
- key00001
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欧米人は、指導者に殴られたら、生徒でも殴り返すかも知れません。 アングロサクソンの気質と言いますか、狩猟民族だからと言いますか、「やられっぱなし」と言う状態を受け入れないんですよ。 また殴る側も、「殴ったら殴り返される」と言う気質は理解していますから、あまり殴らないワケです。 カッコ良く言えば、「殴るなどの行為で相手の自尊心を傷付けたら、仕返しされても当然である」と言う精神文化です。 逆に言いますと、ダイナミックに妄想すれば、農耕民族の日本人って、被支配願望みたいなモノがあるのではないでしょうか? 相手の支配的な行為なども受け入れる気質です。 それが猪木さんのビンタは、甘んじて受けたいと言う様な・・・。 でも欧米人から見れば、全く理解出来ず、「Mr.イノキは、ドSのカリスマで、並んでる連中はドMか?」みたいな疑問を抱いているかも知れません。 また仰る通り、欧米の「個」に対し、日本は「集団」ですね。 従い、体罰などでも「周りが我慢しているから、私も・・」的に、全員がしぶしぶ我慢しちゃってたりすると思います。 ところが、一人でも「おかしい!」「間違ってる!」と言い出すと、残りも「実は私もそう思ってた!」と同調し、「一揆」的に反乱を起こす様なコトになるのではないでしょうか? 明治維新から100年以上が経過し、日本人の精神文化もかなり欧米化していますし、そもそも不当な支配や暴力などは、一切受け入れるべきではありませんので、各所で「個」が立ち上がる局面も増えて来ている様にも思います。 しかし全体的には、被支配を受け入れてでも「調和」を重んじると言う姿勢が、まだまだ強い様にも思います。 それが「日本の良さ」であり、また「悪さ」でもありますね。
お礼
ご回答有難うございました。 アングロサクソンはラテンやゲルマンより体罰への反発が強いのでしょうか。狩猟民族と農耕民族については私も頭によぎりましたが、狩猟民族の方が獣や厳しい自然との闘いに身を守る術をしっかり体で覚えこませる為に体罰が厳しかったかもと思ったりしました。質問では触れませんでしたが、君臣父子の上下関係の秩序を永遠の理として尊重する朱子学が日本の江戸時代に絶大な影響を与えていたようですから、武士道の中に師からの体罰を唯唯諾諾と受ける精神が現代にも引きずっている見方もあり得ると思っています。朱子学は元、明時代の中国、李朝朝鮮でも盛んでしたから、2・の質問にも関連しました。
お礼
ご回答有難うございます。 ただ私の3項目の質問と結びついていないのが残念です。