神社のお手水は、元来「水の神」を司る風習から着ています。
旧暦の1月1日の早朝、井戸の水を汲(く)んで神に供えること。またその汲んだ水を若水といい、神への供え物や家族の食事を調えるのに、用いられました。
若水は邪気を除くと信じられ、福水・若井・初井・生華水などとも呼ばれて、元日の朝早く、まだ人にあわないうちに汲みに行き、もし人にあっても口を利かないしきたりがありました。
汲んできた若水を神棚に供え、そのあと家族の食物をたき、口をすすいだり、茶をたてたりしました。
古来、人間の手は左右で、宇宙をあらわすとされており、その手を境内の水で清めることは、不浄な穢れを落として、神にお供えするというものでした。
つまり、お供えするために、手についた汚れを落とすのがその目的です。
陰陽五行学説では、人の手は 「陰」をあらわします。男性と女性では、この手のひらが司る・陰と陽が逆の関係になります。
水は「陰」を表しています。
いわゆる「陰」の作用で、手の陽気を払い、神に仕える前準備として心を調える意味があります。
できるだけ少量のお水で、邪気を祓い神にお供えするこころの準備をし、あわせて水の神に畏敬をする。といった儀式の前の所作に当たります。
手は体温を司る器官でもあり、合掌礼拝行の粋たる所作に当たります。
ゆえに、顔を洗うという行為そのものは、神にお供え物をする前提条件ではありません。
人間の手には、脈という12経絡が、足の裏と同じ数だけあります。
手を清めれば、髪の毛から足先まで、清めたことになるのです。
ですから、「顔」という人間の5尺の身の一部分を清めて、洗ったとしても、真に身を清めたことにはならないから、顔を洗っても意味のないこととされています。
お手水とは
神社には必ず、井戸があります。
その井戸水を汲んで、手を清め、お供え物をする前段階の儀式ですので、ここで顔を洗うためのお水を使うとなると、その量も時間もかかります。
水を汲むときは、縁起をかついで、「黄金の水を汲みます」などと、目立たない言葉を添えるのがしきたりであった時代もありました。
このように、お参りは元来、目立たないように参るものとされていたのです。
神社のお手水で「顔」を洗っては、人に見られたりして目だってしまいます。
人に見られれば、それだけご利益が希薄になると恐れられていたのです。
お礼
大変勉強になりました。ありがとうございました。