こんにちは、昨年でしたか、マイケル・サンデル氏が日本のとある大学で特別授業を行っていましたが、その際のタイトルは「あなた、それをお金で買いますか?」との討議でした。
その時の小括りの一つが今回のご質問と全く同じ趣旨です。安河内氏が苦労していた光景を僕は具体的に見てはいませんが、回答の中に一つ気になる答がありましたので、お話しに加えていただければと存じます。
「興味を示せない」あるいは「学習意欲の見られない」子どもに対して、「ご褒美をあげる」との発想ですが、僕はこの回答に対し、少しばかり疑問を感じています。
もし「ご褒美(一問に対し回答したら一点のポイントを加算する)」などの提案をしたら、それこそ教育の現場は点取りゲームの場へと様相をガラリと変えてしまいます。本来ならば、学ぶことによって新たな知見を得ることが目的であることに対し、ただ単に点取りゲームとして矮小化させてしまうことはどうかとの疑問です。
僕はこれまで中高大で教えてもきました。予備校や学習塾でも教えた経験もあります。けれどそうした場では「点取りゲーム的な加算要素」はあくまでも禁じ手です。
キレイ事をいうなと揶揄されるかもしれません。がしかし、教育の現場には磨けば光る原石がゴロゴロしていることも確かです。その子どもさんがテストで60点の成績を獲ったとします。その時に「掛ける言葉」は二種類あります。「60点か、よく頑張ったね」ともう一つは「60点しか獲れなかったのか」です。何れの言葉がお子さんに響く言葉でしょう。
「勉強嫌い」と切って捨てることは簡単です。でもそれで教員の仕事は完結していますか?。本当に生徒の声を聴いていると自信を持って言えますか?。僕は甚だ疑問に感じます。事務処理的に点数を打ち込んでそれでおしまいというのならば、オペレーターに任せれば済む話です。単なる集計作業と同じです。
話は少し横道にそれますが、「コシヒカリ」や「ササニシキ」というブランド米があります。本来ならば新潟県の魚沼や宮城県に作付けされる米ですが、それが現在では全国的に作付けもされています。本来との意味であるならば、それらは全て偽物という話になりますが、全国で栽培されているコシヒカリやササニシキのDNA分析をすれば共通性を持っているとの点で全く異論もないとの話にもなります。この事例は「コシヒカリやササニシキ」であるとの本質は変わりないとの実例を如実に物語るものでもある。
更にこんな話もあります。僕がまだ高校で非常勤の任にあった時、英語の成績が芳しくないけれど物理の成績がずば抜けている生徒が一人おりました。教員の間でも彼の可能性を生かす手だてを模索しましたが、その中で数学の教員が「では物理学に関する簡単な英文を読ませてみたらどうだろう」との提案がなされ、早速実行に移してみたところ、効果は歴然としていました。内容が物理ですから、彼が関心を寄せたのは間違いなく、またそうした切り口の選択法で生徒の可能性を引き出すことも立証できた。
英語の教材は英語に関する本でなければならないとの決まりはどこにもありません。確かに文型や時制の一致・助動詞・完了形・不定詞・動名詞・物主構文・関係代名詞などの約束事もありますが、それを知識として記憶するだけでは語学教育としての意義を為さないはずでもある。ならば英語教育の意味は何にあるかを考えねばならないとの話になります。端的にいえば、国語と同じ「文意の読み取り」に重点があって然るべきでしょう。何も英語圏の人々との遣り取りをスムーズに行うのが主眼でもありません。
何となれば、言葉の意味や機能といった根本的な部分から始めねば、国語も英語も意味はないことになってしまいます。人の意思を伝えるのが言葉そして文の意味であり、ならばそのテーマは何であっても良いはずです。そうした部分を少なくとも安河内氏は理解していて、コマーシャルで「英語なんて誰にでもできる。それは言葉なのだから」との簡潔な言葉で既に言い表してもいます。
大学で教職課程を選択する学生に毎年必ず掛けられる言葉が二つあります。「馬を水辺に連れて行くことは誰にでもできるが、馬に水を飲ませることはとても難儀な仕事である」そして「教員は現場に学べ、児童生徒に学べ。彼等は己か自身を写す鏡である」。
動機付け、何らかの切っ掛けを与えるのが教員の仕事とすれば、質問者様はこの仕事の意味を理解していないように感じられましたので、一言申し上げさせていただいた次第です。
お礼
返信ありがとうございます。 やる気はもしかしたら、自分自身(本人)もわからないかもしれませんが(笑)。 ある意味、ちゃんと参加していたらまだいいのでしょうね。